枯雑草の写真日記2

あの懐かしき日々を想いながら・・つれずれの写真日記です。

土の香りに満ち満ちて・・さぬき市多和、細川家住宅

2011-11-21 | 古いもの、昔の人
          香川県さぬき市多和額東、奥深い杉の樹林を背にした山の斜面に沿った道に
          細川家住宅が保存されています。
          その道は、昔讃岐で生産された塩を阿波に運ぶ街道でもあったと・・。
          18世紀初め(江戸時代前期)のこの地方の典型的な農家の特徴を持つと言われます。
          母屋、納屋、便所などの屋敷取りで、母屋は梁行6、1m(三間半)、桁行12.8m(6間)。
          屋根は茅葺(ツクダレ形式:下まで葺きおろした形式)。周囲の壁は柱を塗り込んだ大壁造り。
          内部の柱は、すべて栗の曲材を巧みに使ったちょうな仕上げ。
          間取りは、土間、土座、座敷の三間取りで、土間にはカマド、大釜、カラウス等が。
          土座中央に四国では最古の様式という、いろりが。
          座敷は床が竹でその上にゴザが敷かれており、北中央に仏壇があります。
          昭和46年国重文に指定。

          実はこの住宅、四国八十八ヶ所霊場の結願寺、88番大窪寺へ歩いて1時間少々という
          所にあります。私は3度目の結願を前にへんろ道を歩いて、寄りました。
          土座のいろりの傍に座ると、何処からか微かな風が森の香りを運んできました。
          その風が止むと、あたりは元の土の香りが満ちみちていました。
          座敷から、おばあさんが「でっきょんな・・(こちらの言葉で「こんにちは」だと・・)」
          って顔を出したような気がしたのでした・・





































































夏目漱石が住んだ家・・熊本、内坪井旧居

2011-11-16 | 古いもの、昔の人
          夏目漱石(本名金之助、慶応3(1867)年江戸生まれ)は、明治29年、熊本の
          第五高等学校の英語の教授として赴任します。
          4年3ヶ月の熊本生活の間、6ヶ所の家を転々としたそうですが、ここ内坪井の家は
          5番目で最も長く、明治31年から1年8ヶ月住んだそうです。
          その家が市指定史跡として残されています。
          敷地1434㎡、建物232㎡と広い家。漱石自身も「一番いい家」と気に入っていたよう・・
          当時の高等学校の教授はすごく偉かったのでしょう。
          夏目金之助と書かれた表札をくぐると、広い庭を見渡せる居間に。
          漱石さんが座っていますよ。
          ここは、長女筆子が誕生した所。庭には産湯を使った井戸が残っています。
          「安々と海鼠(なまこ)の如き子を生めり」
          少し照れながら詠んだという句も残っています。
          縁には、庭の樹を越した陽の光が柔らかに差し込んでいました。























































窓から、輝く港を眺めて・・、熊本 三角西港

2011-11-11 | 古いもの、昔の人
          九州、有明海の南を仕切る宇土半島の先端、今の三角港から北西に2kほど。
          今はレトロな施設を見せる観光地、それが三角(みすみ)西港です。
          明治政府が行った三大築港の一つと言われ、明治17年から20年にかけて
          建設されました。それから100年、石積みの埠頭や水路など、当時のままの
          姿を残しているのです。
          そう・・平成20年、NHKのドラマ「坂の上の雲」のロケで、ここを横浜港に見立てて
          秋山真之役のモッくんや正岡子規役の照之さんが歩いた埠頭・・この方が現実的
          ですね。
          港に残る建築物は10棟余り。多くは移築や復元されたものです。その中から
          西洋建築と和風建築を代表して二つを選び、そこから港を眺めることにしました。
          西洋館、「浦島屋」。明治20年頃、この地に誕生したホテル。小泉八雲もここを
          訪れ、美人の女将ともども絶賛したと伝える・・
          今の建物は平成4年、残された数枚の写真を元に復元されたもの。
          もう一つは、和風建築「旧高田回漕店」。明治20年に建てられた回漕問屋の建物。
          平成11年に修復されたもの。簡素で合理的な美しさを今に伝えます。

          家の窓から、無数の小さな輝きが躍る静かな海と埠頭を眺めました。
          大きな商船も旅客船も、それを見送る群衆の姿もありませんけれど、100年の
          時の彼方のこの場所にあったであろう幻を追うばかりでした。


三角西港





埠頭





窓から





浦島屋





旧高田回漕店





























埠頭のベンチ









華麗な神々の彩り・・熊本県人吉市 青井阿蘇神社 その1 楼門

2011-11-01 | 古い神社や寺で
          大同元年(806)阿蘇神社から阿蘇三神を分霊し、この地に祀ったのがこの神社
          の始まりと伝えています。
          鎌倉時代の初め1198年に人吉に下向した領主相良氏は、明治に至るまで
          歴代に渡りこの神社を保護、崇敬してきたと言われます。
          阿蘇神社の分霊社ではあっても、同神社の大宮司家と相良家は政治的に対立
          する状況が多く、これが当神社の独自の展開の素地を作ってきたようです。
          また、多くの神社で明治に至るまで神仏習合が行われてきたのに対し、当神社
          では江戸時代の初期に唯一神道に改めたこともまた独特の神社としての色を
          濃くしたと言えるかも知れません。

          現在ある本殿、廊、幣殿、拝殿及び楼門の五棟は、藩主相良長毎とその家臣ら
          により、江戸時代の初め1610~13年に造営されたものです。
          その1では、まず楼門について見てみましょう。
          この門は1613年の竣工で、禅宗様に桃山様式を採り入れた寄棟造茅葺の
          三間一戸八脚門という形式。欄間には彫刻、天井には、(消えかかっていますが)
          雌雄の龍が描かれています。上層軒先の四隅、尾垂木の上に陰陽一対の神面
          (鬼面とも)が嵌めこまれた珍しいもので、人吉様式と呼ばれます。
          この陰陽一対の面は人の心の荒魂(あらみたま)を陽で、和魂(にぎみたま)を
          陰で表したものとも言われます。

          司馬遼太郎は「街道を行く」の中で「・・この楼門は、京都あたりに残っている
          桃山風の建造物よりさらに桃山ぶりのエッセンスを感じさせる華やぎと豪宕さを
          もっている・・」とその出会いの驚きを記しています。
          楼門の前に立って見上げると、その言葉に妙に納得させられるものを感じます。
          さて、拝殿を始め境内の諸殿については、その2で・・