枯雑草の写真日記2

あの懐かしき日々を想いながら・・つれずれの写真日記です。

西洋館に憧れて・・ 下関豊田 旧殿居郵便局

2011-08-27 | 古いもの、昔の人
          今は下関市に属する豊田町大字殿居、水田が広がる静かな村に、瀟洒な
          洋風建築が残されています。旧殿居郵便局です。
          大正の時代、当時の局長さんは局舎の改築を思い立ち、地元の大工棟梁と
          連れだって東京の洋風建築を見て回り、帰村して意匠を練って、大正12年に
          完成させたのがこの建物なのだそうです。
          昭和の40年代に利用者玄関部分などが改造されますが、概ね当初の形を
          残していると言われます。
          木造平屋建、八角塔屋2階建付きで、基礎は花崗岩布石敷、外壁は横羽目
          板張り、屋根は鉄板葺き。塔屋の腰壁部分はモルタル塗り、屋根は八角ドーム
          銅板葺きです。
          利用者玄関から入ると、昔変わらぬ郵便局カウンターを思い起こさせる懐かしさ。
          当初は玄関扉として使われた扉の曇りガラスを透かして緑の田圃と山が見えて
          いました。塔屋の局長室の立派さ。2階の室からの展望も思いのまま。

          昔の局長さんは偉かった・・きっと村の名士ですよね。
          西洋館に憧れて、それを実現した局長さんの得意気な顔が浮かんできそうです。
          みんな、みんな上を向いて生きていた時代、そんな姿もね・・





































































多武峰、談山神社  その2  十三重塔の驚愕

2011-08-22 | 古い神社や寺で
          多武峰、談山神社の多くの伽藍の中で、最も注目されるのは、やはり十三重塔です。
          神社の前身、妙楽寺の創建当時より十三重塔が存在したと言われますが、
          現存する塔は室町時代の1532年の再建。今に残る日本唯一の木造十三重塔です。
          高さ16.17m、桧皮葺の屋根は、以前の写真に見る苔生した味わいもよい
          ものですが、改修の後はその鋭い軒の線を強調するものとなりました。
          初層の軒の出は特に大きく、不安定な印象を伴うほど。
          組物は肘木持出しという他の塔建築には見られないもの。軒は二軒繁垂木。

          この塔の前に立ったとき、それは衝撃を覚えるほどの体験でした。
          15m足らずの垂直空間の中に、十三もの屋根の重なりを無理やり押し込んだ
          異形とも思える、・・その形状。
          中国風と言われればそうかもしれません。でもこの軒の鋭い曲線の列を見れば
          やはり日本独特のものと思わせられます。
          繰り返してしまいますが・・塔建築というものの認識に変革と衝撃を覚えます。











































































当尾の里にある浄土・・浄瑠璃寺に参る

2011-08-12 | 古い神社や寺で
          ここは古くから当尾(とうの)の里と呼ばれた山里。
          今は京都府木津川市加茂町に属しますが、行くには京都より奈良からの方が
          ずっと近いのです。
          浄瑠璃寺、この美しい名を持つ寺。日本全国の多くの寺の中で、その佇まいを
          第一に推す人は多いようです。それは、境内に再現された浄土式庭園に依る
          ところが大きいと思われますが、寺に参る道、野の石仏が点在する当尾の里
          の道行もそれに加勢しているでしょう。
          随分以前、訪ねた時の荒れた細い道は、舗装道に変わっていました。それは
          喜ぶべきことではないかもしれませんが・・

          山門をくぐると、目の前に池(宝池)。池の左手(東岸)に薬師如来を祀る三重塔、
          (浄瑠璃浄土、寺の名の由来とも・・)右手(西岸)に九体の阿弥陀仏を祀る
          阿弥陀堂。東岸を此岸(しがん:現世)、西岸を彼岸(来世)のなぞらえ。
          この寺では、東の薬師如来に参り、振りかえって池越しに彼岸の阿弥陀仏を
          拝するのが習わしといいます。

          三重塔は1178年京都の一条大宮より移建したと伝えます。古い形式を残した
          細身の塔、和様の落ち着いた美しさを表します。(国宝)
          阿弥陀堂は1107年の建立。九体の阿弥陀仏を横一列に安置する九体阿弥陀堂
          として現存する唯一のもの。(阿弥陀仏、お堂ともに国宝)
          猫の寝る表の回廊を避け、裏を回って堂内に入れば、そこは限りない厳粛の場。
          自然に膝は折れ、手は合わさる・・安らかな時が流れていました。





































































ヒロシマ、原爆の日に思う

2011-08-07 | ヒロシマ



          8月6日、今年もまた広島はその日を迎えました。
          原爆死没者慰霊と平和祈念式の行われる平和公園には、日本国中、世界の国々
          から多くの人が集まりました。
          3月11日の東日本大震災、そして福島原発の事故に伴う放射線被害の経験は
          生々しく、このヒロシマでも、いつもの8月6日とは少し違った空気が漂っていた
          ように思います。
          松井広島市長は、被爆者と広島市民の意見を汲んで、「平和宣言」の中で、
          国のエネルギー政策の見直しへの要望に言及しました。
          日本全国から歩いてやって来た平和行進の人々の口からも
          「ノーモア・ヒロシマ」「ノーモア・ナガサキ」とともに「ノーモア・フクシマ」
          の声が高らかに発せられていました。
          戦後のある時期から一貫して核兵器反対の平和運動に身を投じてきた人からも、
          核の平和利用に対し、その安全性を疑わず、疑問や抗議を表明してこなかったことに
          切実な反省の声が聞かれます。

          原爆死没者慰霊碑に刻まれている碑文は、ご存知の方が多いでしょう。
          「安らかに眠ってください 過ちは繰返しませぬから」
          この「過ち」が誰の責任であるのか・・で、嘗て論争となったことがあったのです。
          当時の広島市長は「アメリカも日本も含む全ての人の責任であり、
          碑文は人類全体の誓いである」と言明したといいます。
          忘れてはならぬことです。日本人が犯してきた過ちにも敏感であるために・・

          この日は、平均年齢が77歳を超えたという被爆者と死没者の遺族にとっては、
          あの日を想う日であり、また慰霊の日でもあります。
          平和公園の原爆死没者慰霊碑を始めとして、市内に散置される多くの慰霊碑、
          モニュメントの前に、慰霊式の喧騒から離れて秘かに佇み、想い、合掌するのです。
          それらのいくつかを紹介しておきましょうか・・ 

          なお、今日はコメント欄は閉じさせていただきます。

原爆ドーム
          爆心地近くに残る、元産業奨励館の残骸。何度みても強烈な印象が蘇ります。
          残されてよかった・・今日も、またドームの上にはアオサギがいて、日本の世界の
          多くの人を見おろしているようでした。



















詩碑
          今は、原爆ドームのすぐ傍にある原民喜の詩碑。
          原民喜については、以前にこのブログでも紹介しました。爆心より1.5kの地で被爆した、
          作家、詩人。昭和26年東京の中央線で自らの46年の命を絶ちます。
          「遠き日の石に刻み  砂に影おち  崩れ墜つ天地のまなか  一輪の花の幻」
          その深紅の感性は痛々しいばかりです・・












嵐の中の母子像
          平和記念資料館前の「嵐の中の母子像」。昭和35年、広島市婦人会連合会により建立。
          原型の作者は、本郷新。作者は「広島の惨害がモチーフ、母子二代にわたる悲しみ、
          二つの世代に横たわる悲劇の記念像・・」と語ったと言われます。






広島市立高女原爆慰霊碑
          爆心地から600mのこの地で、家屋疎開作業中の広島市立高等女学校の職員、生徒
          679名の全員が亡くなった。慰霊碑の傍らに「あなたは、原子力(E=MC2)の世界最初の
          犠牲として、人類文化発展の尊い人柱となったのです。・・」と記されています。
          昭和23年、被爆後最も初期に建てられた碑。連合軍占領下とは言え、日本人の口から
          発せられたこの言葉の恐ろしさに震えます。











ある地区の原爆犠牲者慰霊之碑
          爆心地より2.4k。即死者こそ少なかったが、被爆後の惨状は他の地にも増して悲惨の極み
          であったと言われます。
          この碑について語られる言葉は少ないのです。それは、当時のこの地区に被差別が
          存在したことによっているのです。
          「天を抱くがごとく  両手をさしのべし  死体のなかにまだ生きるあり」