枯雑草の写真日記2

あの懐かしき日々を想いながら・・つれずれの写真日記です。

四国の山中深く飛翔す、豊楽寺薬師堂(その2)

2010-08-28 | 古い神社や寺で
           前回にも書きましたが、四国のほぼ中央にあるこの寺。四国で最も古い時代
           に開かれた寺であるにもかかわらず、四国八十八ケ所霊場にも含まれて
           いません。何故でしょうか・・空海を含む仏教僧の修行の道は辺路、即ち海岸
           沿いの路が主体であったということ。
           豊楽寺薬師堂(本堂)。この四国最古の建造物。入母屋造、杮葺き(こけらぶき)。
           このお堂が人の心を捉えてやまない最大の美点は、鳳凰が飛翔する姿にも
           譬えられる、その屋根にあると思わせられます。
           分厚い柿葺きの屋根の表の繊細で無限の拡がりに流れ行くような面。
           軒面の材の積層の様を見れば、この屋根の造りが、如何に高度な技術と労力 
           の賜物であることに納得させられます。
           お堂の側壁やとりまく勾欄には、長い時という霞みがかかったような朧を見る
           ことができます。

           一段高い場所にある、立派な若一王子宮にもお参りしました。高みから見ると
           吉野川を越えて、対岸の山裾の針葉樹林の中に拡がる田畑と家が見えます。
           この四国の中央の脊梁の山並のただ中にあって、遠い昔から寺に詣で、
           月毎に祭り、暮らしてきた人々の姿をその心を見る思いです。
           大町桂月がこの御堂を歌った句   「千年の鐘の音する青葉かな」
           四国の山深く、千年を飛翔する薬師堂との心ときめく出会いでした。






































































四国の山中深く飛翔す、豊楽寺薬師堂(その1)

2010-08-25 | 古い神社や寺で
          四国のほぼ中央、高知県長岡郡大豊町の山中深くに在る・・
          太田山大願院豊楽寺(ぶらくじ)。724年、聖武天皇の勅願所として行基が
          開いたと伝える。日本三大薬師の一つとも言われます。(他は、愛知県の
          鳳来寺、福島県の常福寺)
          現在は、真言宗智山派の寺ですが、弘法大師空海の足跡は伝えられず、
          遍路の道から隔絶した立地、勿論四国八十八ケ所霊場の内でもありません。
          薬師堂(本堂)は、平安時代末期(1151年頃)の建立。四国に現存する最古
          の建築と言われます。入母屋造、杮葺き(こけらぶき)、単層、五間四方。
          高知県唯一の国宝建築物。

          JR土讃線で、大歩危、小歩危を過ぎ、四国の脊梁山脈の下を長大なトンネル
          で潜り、高知県へ入った所。山間の大田口の駅から吉野川を渡り、山道の
          参道を1k余り。豊楽寺の門前へ。(曲がりくねった狭い車道もありますけれど)
          寺に鳥居・・と訝りますが、当時は無論、神仏習合。寺の奥、一段高い所に
          若一王子宮があるのです。紫陽花が咲き残る石段を上ると、薬師堂の姿が。
          室町時代以降の華麗なお堂とは趣を異にする、素朴そして、・・そう古色蒼然
          としたその姿。山上を羽ばたくようなその姿の詳細は次回で・・。
          薬師堂を取り巻く狭い境内には、多くの石仏の姿。江戸時代の年号を刻む
          奉納仏も。多くのひとに尊敬と親しみを集め続けた証しです。

















































































緑の中へ・・、犬島精練所跡

2010-08-21 | 古いもの、昔の人
           岡山の宝伝の港を出た船は、十分足らずでもう犬島の港に。
          船の中から、島の何処よりも高い煙突が何本か、見えていました。
          岡山市東区犬島(いぬじま)。周囲4kほどの小さな島。
          (島のことは既に前回紹介しましたね。今回は別の視点で)

          その島に明治42年、岡山の起業家が銅の精練所を開設。
          従業員などで、全盛期は350戸、人口3000人と言われました。
          その後、会社の経営は財閥系に移り操業を続け、銅価の暴落などにより、
          大正8年に閉鎖。その工場の跡が島の東端を占めているのです。
          精練所の企業が去って暫く、島はその昔の静かな生活を保ってきましたが、
          平成に入り急激な衰退に・・
          今は、岡山の有名企業が、島全体でアート・プロジェクトを展開しています。
          工場跡もその中に取り込まれています。芸術の名を冠した観光事業です。
          入場料を払って、芸術作品を拝見し、ついでに工場跡も見るという按排です。

          犬島精練所跡。それは、自然の破壊を代償として、日本の国の発展に寄与
          してきた工場が、今や斃れ、自然の中に還ってゆく。
          青い海原を背にした草生す瓦礫、その美しいとも見える姿のなかに、我々は
          何を見ればいいのでしょうか。心惑うばかりです。

















































































彼岸の仏の群像、出雲 霊光寺千体仏

2010-08-14 | 古いもの、昔の人
           ここは、島根県出雲市の山中、立久恵峡(たちくえ)と呼ばれる渓谷の畔。
          神戸川(かんどがわ)の水面は、風の造る菱形の波に占められていました。
          吊り橋を渡れば、そこは彼岸。
          霊光寺という小さな無住の寺があり、その周りの森陰に無数の石像、千体仏。
          ちょっと気味悪い雰囲気かもしれません。月遅れのお盆に因んでお許し
          願いましょうか・・。
          大正の頃から祀られてきたと聞きましたけれど、もっともっと古くから居られた
          ような・・ 様々な思いの多くの仏の中から、
          遠くを見つめるような微笑みを浮かべたほとけを探していました。
          この夏としては、少しひんやりとしたこの風は、何処から吹いてきていた
          のでしょうか・・


































































絵金祭りの宵に・・、高知県香南市赤岡

2010-08-07 | 古いもの、昔の人
          江戸時代の終わり、高知城下に林洞意(どうい)と名乗る絵師がいました。
          幼少より絵才に恵まれ、16歳で江戸の狩野派の絵師に師事、帰郷して家老家
          の御用絵師となりました。その後、贋作の嫌疑を受け、高知城下払いの処分。
          明治に入る直前より、赤岡町(現香南市)に、弘瀬金蔵と名乗り住み、町絵師の
          金蔵、「絵金」として親しまれたといいます。
          その猥雑、土俗、血潮飛び散る芝居絵は、特に庶民の人気を博したようです。
          町内には二十数枚の屏風絵が残されています。これらの絵は元々、地元の
          八幡宮の大祭に奉納するために描かれたもので、年1度、7月の祭りの宵宮に
          商家の軒先を飾る慣わしでした。昭和52年より、商店街の発展を願い
          「絵金祭り」を開催、その日の夜にも赤岡の中心街を飾ることになったのです。

          絵金祭りの日。夕刻より生憎の雨。でも大変な人出。
          絵への影響を考慮してフラッシュ禁止。蝋燭の灯りが主体です。
          絵金の執念が迸るような絢爛の世界に圧倒されながら、どうにか数枚の写真
          に納めたのでした。
          子供達にとって、(・・こんな血潮飛び散る絵、見させない方がいいのか、
          それとも・・大難問ですが・・)幸いかな、絵は興味の外。屋台に群がり、倣い
          の祭りの楽しみの中です。その写真とともに・・。