京都市の東辺、伏見区の醍醐寺(真言宗醍醐派総本山)。
弘法大師の孫弟子、理源大師により貞観16年(874)、笠取山山上に
創建されたと伝えます。そこは当時、山岳信仰の盛んな霊山であったといいます。
後に醍醐山と呼ばれるこの地は、後に上醍醐と呼ばれ、修験の道場として発展します。
そして、山裾にも寺域を拡大し、多くの伽藍が建てられ、下醍醐として隆盛をみるようになります。
戦国の時代の荒廃の後、歴史上著名な豊臣秀吉の「醍醐の花見」以降再興され、
今に見るような広大な寺域と多くの堂宇を有する大寺となったと言われます。
多くの堂宇のうち、特に目を惹くのはやはり、金堂と五重塔(いずれも国宝)でしょう。
金堂は慶長4年(1599)紀州湯浅の満願寺より移築されたもの。12世紀後半の建物と
言われますが、移築時に大改造が加えられたようで、桃山時代風の華麗な屋根が目を惹きます。
寺の本尊である薬師如来(三尊)を安置。
金堂のやや奥、右手の広い敷地に独り立つ五重塔が見えます。天暦5年(951)の建立。
醍醐寺創建当時より残る唯一の建物です。また、京都府内に現存する最古の建物でもあるようです。
塔の高さ38m。その上の相輪は13mで塔全体の1/3を占めます。創建以来多くの修理
が行われたようで、必ずしも創建時の姿を忠実に伝えているとは言えないのかもしれませんが、
仰ぎ見ればそのバランスのとれた全身、木組みの力強さ、屋根の瓦の並びと反りの美しさ・・
どこをとっても、稀にみる見事な五重塔と思わせられます。
私にとっては、何度目かの醍醐寺へのお参り。この度も、広大な境内の多くの堂宇に
心を置かされた思いでしたが、特に五重塔の前に立ち、暫し離れ難い感動を味わったものでした。
五重塔はその全身の姿が最も美しい。それはその通りでしょうが、この塔は、その木組み
と瓦屋根の奏でる見事な音階が、その部分部分からも聞こえてくる・・
そんな気がしました。それ故に・・あえて塔の部分の写真を多く並べさせていただきます。












弘法大師の孫弟子、理源大師により貞観16年(874)、笠取山山上に
創建されたと伝えます。そこは当時、山岳信仰の盛んな霊山であったといいます。
後に醍醐山と呼ばれるこの地は、後に上醍醐と呼ばれ、修験の道場として発展します。
そして、山裾にも寺域を拡大し、多くの伽藍が建てられ、下醍醐として隆盛をみるようになります。
戦国の時代の荒廃の後、歴史上著名な豊臣秀吉の「醍醐の花見」以降再興され、
今に見るような広大な寺域と多くの堂宇を有する大寺となったと言われます。
多くの堂宇のうち、特に目を惹くのはやはり、金堂と五重塔(いずれも国宝)でしょう。
金堂は慶長4年(1599)紀州湯浅の満願寺より移築されたもの。12世紀後半の建物と
言われますが、移築時に大改造が加えられたようで、桃山時代風の華麗な屋根が目を惹きます。
寺の本尊である薬師如来(三尊)を安置。
金堂のやや奥、右手の広い敷地に独り立つ五重塔が見えます。天暦5年(951)の建立。
醍醐寺創建当時より残る唯一の建物です。また、京都府内に現存する最古の建物でもあるようです。
塔の高さ38m。その上の相輪は13mで塔全体の1/3を占めます。創建以来多くの修理
が行われたようで、必ずしも創建時の姿を忠実に伝えているとは言えないのかもしれませんが、
仰ぎ見ればそのバランスのとれた全身、木組みの力強さ、屋根の瓦の並びと反りの美しさ・・
どこをとっても、稀にみる見事な五重塔と思わせられます。
私にとっては、何度目かの醍醐寺へのお参り。この度も、広大な境内の多くの堂宇に
心を置かされた思いでしたが、特に五重塔の前に立ち、暫し離れ難い感動を味わったものでした。
五重塔はその全身の姿が最も美しい。それはその通りでしょうが、この塔は、その木組み
と瓦屋根の奏でる見事な音階が、その部分部分からも聞こえてくる・・
そんな気がしました。それ故に・・あえて塔の部分の写真を多く並べさせていただきます。











