枯雑草の写真日記2

あの懐かしき日々を想いながら・・つれずれの写真日記です。

森のなかの木魂の輝き、大山寺阿弥陀堂

2010-10-21 | 古い神社や寺で

     鳥取県の西端、伯耆大山(だいせん)の麓、大山寺阿弥陀堂があります。
          養老2年(718)、山岳信仰の場として開かれたこの地。その後860年に天台宗
          に改まり、神仏習合の修験の寺として平安時代から江戸時代にかけて、多くの
          堂宇と僧を擁し栄えたといいます。この阿弥陀堂は、今に残る最も古い建物で、
          天文21年(1552)、山津波で崩壊した旧堂の木材などを利用してこの地に
          再建されたもの。
          5間四方単層宝形造、柿葺き。和様に花頭窓など、若干の禅宗様が採り入れ
          られているように思えます。建物の大きさに比べ太い柱が醸し出す壮大なお堂
          の印象に圧倒されるようです。
          鬱蒼とした大山山麓の杉の森の中、大気に含まれる芳醇な水が壁や柱の命を
          躍動させるのでしょう。ある時は森の緑を映し、またある時は古の朱い壁の名残り
          を浮かびあがらせています。
          国重文指定。建立の年代が下るため国宝に指定されていないと思われますが、
          最も国宝に近い重文・・と思える御堂です。

          このお堂、二度目のお参りです。大山への登山道の傍、長い参道の向こうに
          柿葺きの白い屋根が見えてくると、懐かしさに心が躍るようでした。
          ちょうど予約の団体の参拝待ちで、扉が開かれ、本尊の阿弥陀三尊を拝する
          こともできました。幸運な再訪となりました。













































































この清廉な二つの津和野の家、その2 森鴎外旧宅

2010-10-17 | 古いもの、昔の人
           森鴎外(本名森林太郎)については、改めて説明の要もありませんね。
          軍医総監、帝室博物館総長などの公職の他、明治大正を代表する文学者と
          して活躍した人。
          文久2年(1862)、西家と同様津和野藩の御典医の家に生まれて、十歳で上京
          するまでこの家に住んだそうです。その後、この地に戻り居住することはありま
          せんでしたが、遺言の中に「・・余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス・・」
          とあるように、少年の時を過ごした津和野への愛惜の強さを伺わせます。

          津和野で見た二つの古い家。それが有名人の旧宅でなければ当然すでに
          消えてしまっていたものでしょう。残されていたことは幸いです。
          当時の中流以上と想像される武家の家は、このように簡素で清廉なものであり、
          そんな家からこの国を牽引してゆくような人たちもまた育っていったということ。
          そのことに、何やら清々しいものを感じるのは、私だけでしょうか・・











































































この清廉な二つの津和野の家、その2 森鴎外旧宅

2010-10-17 | 古いもの、昔の人
           森鴎外(本名森林太郎)については、改めて説明の要もありませんね。
          軍医総監、帝室博物館総長などの公職の他、明治大正を代表する文学者と
          して活躍した人。
          文久2年(1862)、西家と同様津和野藩の御典医の家に生まれて、十歳で上京
          するまでこの家に住んだそうです。その後、この地に戻り居住することはありま
          せんでしたが、遺言の中に「・・余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス・・」
          とあるように、少年の時を過ごした津和野への愛惜の強さを伺わせます。

          津和野で見た二つの古い家。それが有名人の旧宅でなければ当然すでに
          消えてしまっていたものでしょう。残されていたことは幸いです。
          当時の中流以上と想像される武家の家は、このように簡素で清廉なものであり、
          そんな家からこの国を牽引してゆくような人たちもまた育っていったということ。
          そのことに、何やら清々しいものを感じるのは、私だけでしょうか・・











































































この清廉な二つの津和野の家、その1 西周旧宅

2010-10-13 | 古いもの、昔の人
          島根県津和野の街外れに、二つの古い家が残されています。
          西周(にし あまね)の生家、そして小さな川を隔ててほど近い場所にある
          森鴎外の生家です。まず、西周旧宅から(これは以前のブログで紹介したこと
          があります。)
          西周、一般にはあまり知られた名ではないかもしれませんが、明治初期の
          啓蒙家、教育者として大きな業績を残した人です。
          幕末の文政12年(1829)、津和野藩(現、島根県)の御典医の家に生まれ、
          藩校で蘭学を修めた後、幕命でオランダに留学、法学、カント哲学、国際法など
          を学ぶ。帰国後、徳川慶喜の政治顧問を務め、軍政を整備。明治になってから
          は、西洋哲学の翻訳、紹介に尽力。「哲学」、「芸術」、「理性」、「科学」などの
          言葉は、西の考案した訳語と言われます。

          まだ少し暑さの残る日でしたが、輝く三和土の上に、整然とした畳の目の上に
          庭の樹木を越したしっとりとした風が渡っていました。この主屋は、西周が家を
          巣立った直後の嘉永6年(1853)の火災後の再建ということですが、代々藩
          に仕える武家(藩医)であった西家の簡素で清廉な家の風が存分に感じられ
          るものでした。
          そこで私が何を感じたか・・それはもう一つの森鴎外旧宅を見た後で、纏めて
          ということに。