広島市東区牛田新町にある親日山安国寺不動院。
境内の中心にある金堂は1540年頃の建立のものを、戦国時代、この寺の住持
であった、恵瓊(えけい)が山口より移築したとも伝えます。
この安国寺恵瓊と呼ばれる僧、羽柴秀吉の毛利攻めの際、毛利の使僧として、
秀吉と渡り合った人物。関ケ原では、西軍に組したため、悲劇の最後を辿りますが、
この安芸の国の中心に、多くの文化財と思いを残す運命を担うことになります。
今にも天に飛び立つような、美しい反りをもつ屋根、複雑な軒下の組物、花頭窓、
波形欄間など、東京東村山の正福寺地蔵堂、鎌倉、円覚寺舎利殿、下関、功山寺
仏殿などとともに共通の特徴をもつ、禅宗様の代表的な建物です。(いずれも国宝)
それらの中で、この金堂は正面一間通りを吹き放しとした珍しい様式とともに、
最も壮大な規模を誇ります。
恵瓊の後、芸備の大名となった福島正則の時代に真言宗に改め、寺号も不動院を
名乗ります。歴史の変遷と数々の夢を秘めたように、緑に囲まれた静かな境内。
地元では、不動院とのみ呼称されるこの寺の中央に座る金堂は、広島市内にある
唯一の国宝建築物でもあります。
市の中心に近い立地ですが、山陰にあるため、原爆の火からも守られました。
67年の前、その日は、市中心から負傷した避難者の列が絶えず、この寺の境内で
絶命した者も数多かったと聞きます。多くの悲惨な歴史を見続けてきた、お堂なのです。











境内の中心にある金堂は1540年頃の建立のものを、戦国時代、この寺の住持
であった、恵瓊(えけい)が山口より移築したとも伝えます。
この安国寺恵瓊と呼ばれる僧、羽柴秀吉の毛利攻めの際、毛利の使僧として、
秀吉と渡り合った人物。関ケ原では、西軍に組したため、悲劇の最後を辿りますが、
この安芸の国の中心に、多くの文化財と思いを残す運命を担うことになります。
今にも天に飛び立つような、美しい反りをもつ屋根、複雑な軒下の組物、花頭窓、
波形欄間など、東京東村山の正福寺地蔵堂、鎌倉、円覚寺舎利殿、下関、功山寺
仏殿などとともに共通の特徴をもつ、禅宗様の代表的な建物です。(いずれも国宝)
それらの中で、この金堂は正面一間通りを吹き放しとした珍しい様式とともに、
最も壮大な規模を誇ります。
恵瓊の後、芸備の大名となった福島正則の時代に真言宗に改め、寺号も不動院を
名乗ります。歴史の変遷と数々の夢を秘めたように、緑に囲まれた静かな境内。
地元では、不動院とのみ呼称されるこの寺の中央に座る金堂は、広島市内にある
唯一の国宝建築物でもあります。
市の中心に近い立地ですが、山陰にあるため、原爆の火からも守られました。
67年の前、その日は、市中心から負傷した避難者の列が絶えず、この寺の境内で
絶命した者も数多かったと聞きます。多くの悲惨な歴史を見続けてきた、お堂なのです。










