島根県雲南市吉田町の山の中、菅谷地区にたたら製鉄の遺跡を訪ねます。
わが国にたたら製鉄の技法が伝えられたのは、6世紀、古墳時代後期にまで
遡ると言われますが、中世以降、中国山地に集中するようになります。
この吉田で製鉄が始まったのは鎌倉時代・・その後江戸時代に入りそれまで
の露天の野だたらに変わって高殿(たかどの)を構えた製鉄が始まります。
今に残る高殿の唯一の遺構が菅谷のもので、江戸中期1751年から
大正10年まで170年間にわたり操業が続けられたそうです。
菅谷の高殿は柿葺き、入母屋風の平屋で、棟までの高さ8.6m、前面奥行
ともに18.3mの大きなもの。
高殿の前面に連なる家並。製鉄という職能集団の居住空間で「山内(さんない)」
と呼ばれていました。
高殿を見、山内を歩いていると、たたら製鉄に携わってきた神人の誇りと心意気
の余韻を感じたように思えたものでした。
高殿の前には、製鉄の神である金屋子神(かなやごしん)が降臨したという
所縁の桂の大木があります。春のほんの短い期間、薄桃色のそれは見事な
花を咲かせるそうです。
その時期が近くなると、観光の管理事務所には問い合わせが頻繁だとか・・
まだ、日陰には残り雪が見える・・そんな日の菅谷たたら山内でした。
わが国にたたら製鉄の技法が伝えられたのは、6世紀、古墳時代後期にまで
遡ると言われますが、中世以降、中国山地に集中するようになります。
この吉田で製鉄が始まったのは鎌倉時代・・その後江戸時代に入りそれまで
の露天の野だたらに変わって高殿(たかどの)を構えた製鉄が始まります。
今に残る高殿の唯一の遺構が菅谷のもので、江戸中期1751年から
大正10年まで170年間にわたり操業が続けられたそうです。
菅谷の高殿は柿葺き、入母屋風の平屋で、棟までの高さ8.6m、前面奥行
ともに18.3mの大きなもの。
高殿の前面に連なる家並。製鉄という職能集団の居住空間で「山内(さんない)」
と呼ばれていました。
高殿を見、山内を歩いていると、たたら製鉄に携わってきた神人の誇りと心意気
の余韻を感じたように思えたものでした。
高殿の前には、製鉄の神である金屋子神(かなやごしん)が降臨したという
所縁の桂の大木があります。春のほんの短い期間、薄桃色のそれは見事な
花を咲かせるそうです。
その時期が近くなると、観光の管理事務所には問い合わせが頻繁だとか・・
まだ、日陰には残り雪が見える・・そんな日の菅谷たたら山内でした。