塩飽諸島の最西端に粟島という小さな島があります。
そこに以前、海員学校があって、今はその校舎が海洋記念館として残されている
と聞いて訪ねました。
海員学校とは、あまり聞き慣れない学校ですが、国立の初級船員養成機関だった
のです。全国の学校の中で、この粟島のものが最も古く、明治30年の創立です。
昭和後期の海運不況の影響を受け、昭和62年その長い歴史を閉じます。
海員学校は、今は海上技術学校・同短期大学校と名を変え全国で7校が存続して
いるそうです。
粟島の港の近く、その明るい緑色の校舎は近ずく船からも良く見えます。
今に残る建物は大正9年の建設。正面中央のハーフティンバーの妻飾りなど、
お洒落で、その時代の夢の面影を色濃く残しているように思えます。
廊下や教室の床はまだ暖かい光を持っていました。
窓から見える海は、・・今日は雨模様だけれど・・明るい海の色を想像するに十分
でした。希望に満ちて過ごした学生たちのことを想いました。
島の人々の生計の多くを担ってきた学校の廃校は、島にとって痛手でした。
でも、元校庭の一角には、立派でお洒落なレストランもできていました。
底抜けに明るい海と山の自然で、人々を招こうとしているのです。
そこに以前、海員学校があって、今はその校舎が海洋記念館として残されている
と聞いて訪ねました。
海員学校とは、あまり聞き慣れない学校ですが、国立の初級船員養成機関だった
のです。全国の学校の中で、この粟島のものが最も古く、明治30年の創立です。
昭和後期の海運不況の影響を受け、昭和62年その長い歴史を閉じます。
海員学校は、今は海上技術学校・同短期大学校と名を変え全国で7校が存続して
いるそうです。
粟島の港の近く、その明るい緑色の校舎は近ずく船からも良く見えます。
今に残る建物は大正9年の建設。正面中央のハーフティンバーの妻飾りなど、
お洒落で、その時代の夢の面影を色濃く残しているように思えます。
廊下や教室の床はまだ暖かい光を持っていました。
窓から見える海は、・・今日は雨模様だけれど・・明るい海の色を想像するに十分
でした。希望に満ちて過ごした学生たちのことを想いました。
島の人々の生計の多くを担ってきた学校の廃校は、島にとって痛手でした。
でも、元校庭の一角には、立派でお洒落なレストランもできていました。
底抜けに明るい海と山の自然で、人々を招こうとしているのです。