枯雑草の写真日記2

あの懐かしき日々を想いながら・・つれずれの写真日記です。

海員学校学生の夢を・・塩飽諸島、粟島で

2012-04-27 | 古いもの、昔の人
          塩飽諸島の最西端に粟島という小さな島があります。
          そこに以前、海員学校があって、今はその校舎が海洋記念館として残されている
          と聞いて訪ねました。
          海員学校とは、あまり聞き慣れない学校ですが、国立の初級船員養成機関だった
          のです。全国の学校の中で、この粟島のものが最も古く、明治30年の創立です。
          昭和後期の海運不況の影響を受け、昭和62年その長い歴史を閉じます。
          海員学校は、今は海上技術学校・同短期大学校と名を変え全国で7校が存続して
          いるそうです。

          粟島の港の近く、その明るい緑色の校舎は近ずく船からも良く見えます。
          今に残る建物は大正9年の建設。正面中央のハーフティンバーの妻飾りなど、
          お洒落で、その時代の夢の面影を色濃く残しているように思えます。
          廊下や教室の床はまだ暖かい光を持っていました。
          窓から見える海は、・・今日は雨模様だけれど・・明るい海の色を想像するに十分
          でした。希望に満ちて過ごした学生たちのことを想いました。

          島の人々の生計の多くを担ってきた学校の廃校は、島にとって痛手でした。
          でも、元校庭の一角には、立派でお洒落なレストランもできていました。
          底抜けに明るい海と山の自然で、人々を招こうとしているのです。





































































塩飽水夫の誇り・・塩飽諸島、本島の街で

2012-04-22 | 古いもの、昔の人
          本州岡山と四国香川が最も接近した水道、備讃瀬戸と呼ばれます。
          潮流がぶつかり、潮湧く風情から名付けられたという塩飽(しわく)諸島があり
          ます。(現在は香川県丸亀市の所属)
          今は、その島の間を瀬戸大橋が渡っている所・・といった方が分かりよいかも。

          織田、豊臣から徳川幕府までの朱印状を得て、自治を許された650人の船方衆
          がいたそうです。その男たちは大名に対し「人名(にんみょう)」と呼ばれ、中から
          選ばれた「年寄」が島の政治を行っていました。
          塩飽諸島の中心、本島にその政所、塩飽勤番所と船方衆が住んだ街があると
          聞いて訪ねました。1798年に建てられた勤番所は立派に保存されていました。
          展示物も豊富。咸臨丸も・・幕末の万延元年(1860)、日本人の手で初めて
          太平洋横断を成し遂げた咸臨丸の水夫50人のうち35人が塩飽出身者だった
          そうです。
          島の東部、笠島地区には、江戸、明治の町屋の面影が色濃く残る街並が残され
          ていました。

          沖近く見える瀬戸大島の橋影の巨大さ・・ 街を歩いて会う人の少なさ・・
          本島の今の人口は600人ほど、ここも過疎化が進んでいるといいます。
          美しく保存された街並。通りの向こうは突然の海。それゆえに一層寂しさが募る
          ような塩飽、本島の風景ではありました。