枯雑草の写真日記2

あの懐かしき日々を想いながら・・つれずれの写真日記です。

広島 世界平和記念聖堂

2019-10-27 | ヒロシマ
          広島市内中央部にあるカトリック幟町教会の聖堂。昭和29年(1954)の竣工。
          この地には幟町天守会教会と呼ばれる小さな教会がありましたが、昭和20年8月6日に
          被爆、倒壊、焼失。
          フーゴ・ラッサール神父が犠牲者の弔いと世界平和のための基点となる聖堂の建設を発想。
          昭和23年、コンペ形式で設計案を日本全国から募る。著名、若手の建築家177名の
          応募案が集まる。しかし、審査員を含めた建築的主張の隔たりは大きく、1等該当者なし
          の結果となります。そこで、意外なことながら、審査員でもあった村野藤吾が新たな設計
          を請け負うことに・・

          昭和29年8月6日献堂式。
          鐘楼の壁面には
          「此の聖堂は昭和二十年八月六日広島に投下されたる世界最初の原子爆弾の犠牲となりし
          人々の追憶と慰霊のために、また万国民の友愛と平和のしるしとしてここに建てられたり
          而して此の聖堂によりて恒に伝へらるべきものは、虚偽に非ずして真実、権力に非ずして
          正義、憎悪に非ずして慈愛即ち人類に平和を齎す神への道たるべし故に此の聖堂に来り
          拝するすべての人々は、逝ける犠牲者の永遠の安息と人類相互の恒久の平安とのために
          祈られんことを」と刻まれる。

          この11月、日本訪問のローマ・カトリック教会のフランシスコ教皇を待ち受ける教会
          でもあります。












































































被爆建物「旧日本銀行広島支店」に思う

2019-09-20 | ヒロシマ
          旧日本銀行広島支店は広島に残る被爆建物の一つです。
          爆心地から380mという至近距離にありながら、建物の堅牢さから外郭は
          生き残りました。被爆直後の建物内での死亡者は確定されないものの37人とも
          42人とも言われます。
          その後、復旧され広島市に移管、今は一般公開され、芸術・文化のイベントの場
          として活用されています。

          昭和11年の建築。
          内装、外部とも復旧工事が為されたため、被爆当時の面影はを残すものは少なく
          むしろ、昭和初期の銀行建築としての威厳と微かに漂うロマンの香りを感ずる
          ことができるかもしれません。
          被爆という限りなく悲しい記憶を経て、人ひとりいない空間はことさらに寂しく
          私には、一入空しい空間として存在しているように感じられました。












































































































74年目のヒロシマ

2019-08-07 | ヒロシマ
          昭和21年の夏、広島駅の近く音楽喫茶「ムシカ」で浜井信三を始めとする
          有志が安コーヒーをすすって話し合ったといいます。その結果の一つとして
          実現した昭和22年8月6日の第一回の「平和祭」で述べられたのは
          「この地上より戦争の恐怖と罪悪とを抹殺して真実の平和を確立する・・」
          とする理想に燃えた宣言でありました。
          それから72年、繰り返し発し続けられた声は、日本の世界の多くの為政者
          に届くことはなかった・・

          74年目の今年は雨の中の慰霊・平和祈念式となりました。
          市長は「平和宣言」のなかで、日本政府に対し核兵器禁止条約の批准を
          求めました。湯崎広島県知事もまた、核兵器保有国を認めることの不条理を
          説き、核全廃へ向けての政府の決断を迫りました。
          慰霊碑の前で、原爆の子の像の前で、市内に点在する多くの碑の前で多くの人
          が平和を祈りました。
          それらのヒロシマの祈りと願いは今年もまた、この国の為政者に届くことは
          ありませんでした。空しい思いはもう我慢の限界をこえそうです。

          私は会場で幾人かの人と語り、広島平和記念聖堂で行われたミサと
          沖縄の過去と現在の痛みを語る一人芝居「もうひとつのせんそう」を
          見ました。













































































広島市現代美術館に行く

2018-09-21 | ヒロシマ
          広島市内の比治山にある現代美術館に行きました。
          比治山は広島市内にある黄金山、宇品島、江波山とともに太田川の三角洲が
          拡がる以前は内海に浮かぶ島でした。中世の頃、陸続きになったと言われ、
          江戸、明治を通じさらに南側の干拓が続けられました。
          標高約70mの丘。多くの桜が植えられ、今は市民の憩いの場となっています。
          山を覆う古くからのシイ、カシなどの常緑広葉樹、コナラ、アベマキなどの落葉樹、
          その上を覆うアラカシ、クスノキなどの高木、これらの樹林の様に、私は
          大きな魅力を感じます。
          比治山の北部地域に広島市現代美術館が開館したのは平成元年のこと。
          戦後に制作された美術品を展示しています。建物の設計は黒川紀章。
          もちろん、展示作品の多くは撮影禁止ですが、建物を主体とした魅力的な風景
          にも出会える場所です。























































































73度目のヒロシマ、平和記念公園で

2018-08-07 | ヒロシマ
     この暑い暑い8月6日の朝、どうにか平和祈念式の会場に行くことができました。
     
     平和祈念式でのこども代表の言葉は
     「・・私たちは無力ではないのです。平和への思いを折り鶴に込めて、世界の人々に届けます。
     73年前の事実を 被爆者の思いを。私たちが学んで心に感じたことを伝える伝承者になります。」
     と結ばれました。

     安部首相の前で、坪井直さんは訴えました。
     「原爆というものはね、人間が悪知恵で作ったもん。人間が作ったもんだから、人類が解決しないといけない。
     (それまでは)あの世に行く気がしません」と。

     「核反対、戦争反対」と多くの人が悲痛な声をあげました。
     それに対して、この国の為政者の言葉は空しく聞こえるだけでした。
     無力感とある種の諦観が混じる、やりきれないヒロシマの人々の思いでした。



     原爆ドーム
     この悲しき象徴・・










     歌碑
     40歳で被爆した詩人、原民喜は6年後東京の中央線で自らの命を絶つ。
     その時代に伝え得た恐ろしき象徴の詩。
     「遠き日の石に刻み  砂に影おち  崩れ墜つ  天地のまなか  一輪の花の幻」














     
     人間を返せ
     被爆詩人、峠三吉の詩の英訳碑。
      「ちちをかえせ  ははをかえせ  としよりをかえせ  こどもをかえせ
       わたしをかえせ  わたしにつながる  にんげんをかえせ
       にんげんの  にんげんのよのあるかぎり  くずれぬへいわを  へいわをかえせ」







     原爆の子の像
     被爆10年後12才で逝った佐々木禎子さんを想って・・














     慰霊碑の陰で






     語る人
     佐々木禎子さんの物語を語る人、聞く子供たち。




     祈る
     多くの人が去った会場で祈りを続ける人がいました。