枯雑草の写真日記2

あの懐かしき日々を想いながら・・つれずれの写真日記です。

長い橋を渡って灯台へ・・山口県角島

2011-05-30 | 海からの声を聞く
          本洲の最西端山口県角島(つのしま)、響灘を望むこの地は古くより北前船等
          の海上交通の要衝であり、早くも明治9年に御影石造りの西洋式灯台が造られ
          ました。設計もまた初代の灯台長もイギリス人です。灯台横の宿舎の西洋館
          がそのことの証のようですね。
          イギリス製のフレネルレンズは、今も18.5海里の海の彼方に光を送り続けて
          います。
          「明治九年三月一日初照」のプレートを見ながら、塔内の螺旋階段を上ります。
          青い海が透ける窓ガラスが、長い時間の灯台の思いを伝えているようでした。

          角島に行くには、平成12年に完成した1780mもある角島大橋を渡ります。
          車のテレビCMでもご覧になったことがあるでしょう・・あの立派すぎるような
          橋ですよ。
          橋自体が観光の主役になっている、ちょっと不思議な風景を見るのです。






































































古き奈良の都の心の行方・・栄山寺八角円堂

2011-05-21 | 古い神社や寺で
          奈良県の中ほど、五條の街外れに学晶山栄山寺はあります。
          寺の前は、碧い碧い吉野川の水。一艘のカヌーを浮かべたりしていました。






          栄山寺は古くは前山寺(さきやまでら)と呼ばれ、藤原武智麻呂が奈良時代
          の始め719年に創建したと伝えられています。
          そして現在、この寺を一際貴重なものとしているのは、武智麻呂の菩提を
          弔うため、その子仲麻呂が建立したと伝わる、稀有な八角形のお堂でしょう。
          若葉のもみじ樹が繁る庭、桜や山吹や椿も咲く、そんな中に憩うように
          八角堂はありました。(国宝)
          宝形造、本瓦葺き(それまでは茅葺であったものを明治末の修理で瓦葺きに
          復元したといいます)、側面は四面が連子窓、他の四面が重厚な板扉。
          柱は総て八角形。近づけば、軒下の丸材による地垂木、角材による飛檐垂木
          の心遣いに息をのみます。
          特定の日にしか公開されない堂内。たまたま裏扉を開いていただきました。
          外から内陣の四柱の身舎(もや)、彩色絵画が残る天蓋が見えます。
          内部は薬師如来を正面に四体の仏。
          対面する人の心を引き締めるような地蔵菩薩の表情が心に残ります。
          桜が舞い、椿が散る境内を彷徨い、裏山に登れば武智麻呂の墓があります。
          目の前は吉野川ともう吉野に近い奈良の奥の田園が広がっていました。








































































江戸時代の始めから・・ 奈良五條新町を歩く

2011-05-19 | 古いもの、昔の人
          洞ヶ峠の故事により後世、日和見と誤伝される大和の戦国大名筒井順慶。
          その家臣であった松倉重政は、関ヶ原の戦いに単身参陣して徳川家康に
          認められ、大和五條二見城、一万余石の大名となります。
          重政は商業の振興を図るなど善政を行い城下町の整備を行ったといいます。
          これが今に残る五條市新町の原形となります。
          松倉重政はその後、大阪夏の陣の戦勲などにより1616年肥前日野江
          4万3千石を与えられ移封しますが、この地での領民への過酷な搾取は、
          島原の乱の引き金になったと言われます。幕府のキリシタン弾圧の意向に
          沿ったものとは言え、戦国とその後を生きた人物、松倉重政の二面を見る
          思いがします。

          この五條新町は大阪と和歌山を結ぶ交通の要衝である旧紀州街道に面して
          います。その古い家並が続く1kほどの道を歩きました。ある晩春の日でした。
          新町の東端にあるのは、国重文の栗山邸。棟札に慶長12年(1607)の銘
          がある、年代判明の民家としては日本最古のもの。堂々たる屋根が覗えます
          が現在も居住されており、内部は見学できません。
          それから西へ。漆喰塗の壁や虫籠窓、格子の家々を見てあるきます。
          家の中を見学できるのは二軒ほど。街の人通りは殆どありません。
          東日本大震災以来、遠くから訪ねる人もめっきり減ったとか。
          珍しく数人の団体が来ます。「あれが うだつ ちゅーてなー・・」の声。
          街外れの吉野川(紀ノ川)をちょっと眺めて大和二見駅から帰途につきました。






































































吉野、金峯山寺、その2  本堂(蔵王堂)、その気迫

2011-05-07 | 古い神社や寺で
          この本堂は、昔、吉野山と大峯山を含んで金峯山寺と呼ばれた頃より、
          大峯山(山上ヶ岳)本堂の「山上の蔵王堂」に対し「山下(さんげ)の蔵王堂」
          と呼ばれてきました。
          高さ34m、奥行、幅ともに36m。木造の古建築としては、東大寺大仏殿に次ぐ
          規模と言われます。入母屋造、桧皮葺、二層のように見えますが、実際は
          一層で中間の屋根(庇)は裳階(もこし)と呼ばれます。
          内部の建材に残る銘から江戸時代の前、1592年豊臣家の寄進により建立
          されたことが判明。

          蔵王堂の前に立つと、その壮大さ、年を経た木魂の織りなす迫力に圧倒されます。
          原木をそのまま使った巨柱。過剰とも思えるほどの装飾を施した間斗束や蟇股
          は安土桃山時代の特色であるのかもしれません。

          堂内には秘仏として、金剛蔵王権現三体を安置。中尊は7mを越す巨像と
          いいます。中尊が釈迦如来、脇が千手観音、弥勒菩薩を本地とし、過去、現在、
          未来を象徴すると伝えます。
          不定期に開帳される蔵王権現は、青色鮮やかなお顔に憤怒の表情明らかな
          それは恐ろしいお姿といいます。この寺で、これまで見て来た仁王門も仁王も
          本堂も、周りの吉野の桜さえも変遷の世に棲む仮の姿であって、この蔵王権現
          の姿こそきっと古の金峯山寺ではないか・・とふと思ったりしたものでした。































































吉野、金峯山寺、その1  仁王門、本堂そして桜

2011-05-02 | 古い神社や寺で
          奈良県南部の吉野、大峯から和歌山県の熊野に続く山地は、古くから山岳信仰
          の霊地とされてきた所と言われます。
          山岳信仰に神道、仏教、道教などが習合し、日本独自の宗教として発達したの
          が修験道であり、その開祖とされるのが役小角(えんのおづぬ)です。役小角は
          役行者(えんのぎょうじゃ)とも呼ばれ、7世紀前半に生まれた実在の人物と
          云われますが、多くの超人的事蹟に彩られ、霧の中に半身を隠した伝説的人物
          でもあるのです。
          役小角が修行中に感得したという蔵王権現を本尊とする金峯山寺(きんぷせんじ)
          は元々、吉野山と大峯山に存在した二つの蔵王堂を中心とした寺の総称でした。
          近代に至り、明治元年の神仏分離令と明治5年の修験道廃止令により、金峯山寺
          も一時、廃寺となります。その後天台宗修験派として再興、第二次大戦後、天台宗
          から独立、大峯修験宗が成立(後、金峯山修験本宗と改称)吉野山の蔵王堂を
          金峯山寺として、その総本山に位置付けられています。
          政治の変転の歴史の波に巻き込まれ、紆余曲折を繰り返した修験道ですが、
          大峯奥駆等の宗教行事と世界遺産という観光化の狭間で、これからどんな形に
          変身してゆくのでしょうか。




現在の金峯山寺の玄関、仁王門(国宝)、入母屋造、本瓦葺きの室町時代の1456年の再建。
仁王さんも結構な迫力、御足は滅多に見られませんから載せときますね。























それから本堂(蔵王堂:国宝)にお参り。詳細は次回に。