枯雑草の写真日記2

あの懐かしき日々を想いながら・・つれずれの写真日記です。

吉備の国の祀り、吉備津神社

2014-02-25 | 古い神社や寺で
          岡山県で、全国にその名を知られる神社として、先ず第一には吉備津神社
          があげられるでしょう。
          この神社は、元々吉備国の総鎮守でしたが、吉備国が三つに分かれたため、
          備中国の一宮とされたといわれます。
          因みに、備前国の一宮は吉備津彦神社、備後国一宮は福山の吉備津神社が
          あてられています。ちょっと紛らわしいですね。
          主祭神は、第七代孝霊天皇の第三皇子、大吉備津彦命を祀ります。
          歴史を見れば、大和と九州筑紫の中間、或いは大和と大陸との中継地として、
          この吉備の国の政治的、文化的重要性は明らかですね。この地に有力な神が
          鎮座したのが分かる気がします。
          今見る本殿は、室町時代の1405年、足利義満が再建したものと言われ、
          入母屋造の屋根が並ぶ比翼入母屋造と呼ばれる独特なもの。随所に仏教建築
          の影響が色濃く感じられます。そう・・昔は神と仏は一体だったのですね。
          本殿の前に立てば、吉備の国の祭りの様に圧倒される思いです。





































































竹久夢二の生家、その裏山の道

2014-02-19 | 古いもの、昔の人
          岡山県瀬戸内市邑久町。
          大正ロマンを代表する詩人画家と後に讃えられる竹久夢二の生家が、
          郷土美術館分館として残されています。
          夢二(本名:茂次郎)は、16歳までの日々をここで過ごしたようです。
          美術館の庭には          
           「泣く時はよき母ありき 遊ぶ時はよき姉ありき 七つのころよ」  
          の歌が刻まれています。
          生家の前の小さな川、小さな小さな茂次郎橋が。その名の由来。
           「花のお江戸ち゛ゃ夢二と呼ばれ 郷土(くに)へかへれば へのへの茂次郎」

          生家の茂次郎の部屋を見て、遊び場であった裏山に続く道を行き、
          大師堂や廃屋や墓所や国司丘の椿の木を辿ります。
          多感で寂しがりやであったであろう夢二少年の心を偲ぶ落葉の道でした。

























































備中国分寺五重塔、再訪

2014-02-13 | 古い神社や寺で
          ご存知のように、国分寺は奈良時代の天平13年(741)に聖武天皇の命により
          全国に建立された官寺ですが、今もその所縁の地の近くに国分寺の名を継ぐ
          寺が再興されています。この備中国分寺もそのひとつ。
          境内の西の外れに立つ五重塔。それは国分寺の、いや吉備路の至宝と言える
          ものでしょう。
          文政4年(1821)から二十数年をかけて、江戸末期に建立された塔。
          全国で、国宝、重文に指定されている五重塔は22基を数えますが、その中で
          最も年代が新しいもの。
          初層から最上層に至るまで、ほぼ同じ大きさで、軒の張り出しの小さい形状は
          江戸後期の特徴と言われます。室町時代までに開花した鳳が飛び立つような塔
          とは異なり、どっしりと、そしてしっかり地面に立った印象を得ます。
          周りの柔らかな落葉樹の丘の上に塔を見れば、頼もしく、美しく、時を置いても
          飽きさせることがありません。そして、近づけば、また違う印象が・・
          一段の高台の上に擬宝珠高欄を付した縁をめぐらせ塔は立ちます。
          初層中備の蟇股には十二支の禽獣が刻まれています。各層の二軒繁垂木・・
          仰げば、木魂の造る壮大な世界に吸い込まれそうです。