枯雑草の写真日記2

あの懐かしき日々を想いながら・・つれずれの写真日記です。

武家屋敷の贅と趣、熊本、旧細川刑部邸

2011-10-28 | 古いもの、昔の人
          熊本市の中心、熊本城に連なる緑の公園の傍に旧細川刑部邸があります。
          細川刑部家は、細川家三代(肥後藩初代)の細川忠利の弟、刑部少輔典孝が
          1678年に子飼(現市内東子飼町)に下屋敷を構えます。明治4年、城内の
          武家屋敷の城外移転に伴い、子飼の邸を本邸として整えます。
          現在、熊本城内の地に見る旧細川刑部邸は、平成2年から4ヶ年を要して、
          子飼より移設、復元されたものです。
          建坪約300坪の広大さ。長屋門を経て唐破風の正玄関、横の御次玄関を入ると
          20余りの部屋が連なっていて、部屋の名を追うことは早々に諦めさせられます。
          ただ、多くの部屋が縁を介して庭につながり、明るい外光もふんだんで・・
          (写真では暗く写りますが)、程よい独立性も保たれていることが印象に残ります。

          こういった上級武家屋敷を見せて戴く時、そこに庶民の暮らしとの隔差を見付けて
          憤然とするか、あるいは日本の家の合理性と文化を見るか・・いつも迷うことです。
          ここでは、後者の立場を重んじておくことです・・そう思いませんか。












































































木造校舎の暖かさに触れ・・笠岡、真鍋島、真鍋中学校

2011-10-23 | 古いもの、昔の人
          岡山県笠岡市にある笠岡諸島の最南端、周囲7.6kの真鍋島があります。
          その昔、藤原氏の一族が真鍋氏を名乗り、水軍の根拠地を置いた島とも・・
          全国に拡がる真鍋姓の発祥地でもあるのです。
          島の人口は、ここも年々減少の傾向。現在は285人とか。半農半漁の島です。
          そんな島に開校当時のままの木造校舎が、それも現役である・・と聞いて
          行ってみることにしました。
          真鍋中学校、昭和22年村立の学校として開校。今は笠岡市立となっています。
          昭和59年、映画「瀬戸内少年野球団」のロケ地として使われたことでも知られます。

          本浦港を見おろす、少しの高台。青い空に白雲乱れる下、立派な校舎の
          木目浮き立つ外壁が、窓が・・輝く廊下が、天井が、懐かしさを秘めた暖かさで
          迎えてくれました。
          校舎の広さに比べて、生徒の数はその姿を見ることが難しいほど少ないよう
          ですが、こんな学校で学べることの幸せを感じさせる・・そんな中学校でした。
































































   
          船着場の桟橋が見える路地は黒い猫の住処です。そんな所の二人も座れば
          いっぱいになる食堂で蛸めしを戴きながら親父さんの話を聞きます。
          「ワシはこの中学の1期生や・・
          もののない頃でなー、皆で島の木を切って校舎造ったもんや・・
          今、生徒は何人かのー、先生の方が多いうて4、5人はおるじゃろー・・」
          後で聞いてみると、今年は2年生1人、3年生1人の2人だって・・
          修学旅行は、隣の島の中学校と一緒で東京に行った。それでも一行やっと9人
          だったとか・・














壮大な茅葺御堂の印象・・熊本、多良木、青蓮寺阿弥陀堂

2011-10-14 | 古い神社や寺で
          熊本県の南部、球磨郡多良木町にある亀田山青蓮寺(しょうれんじ)。
          鎌倉時代の初期(1193)、遠江国(今の静岡県西部)からこの地に最も早く下向
          した相良頼景(5年後に人吉に下向した相良家を下相良と呼ぶのに対し上相良
          家と呼ばれる)一統の菩提寺として1298年に創建されたと伝わります。
          今に見る阿弥陀堂は、1443年頃(室町時代中)再建、1775年(江戸時代中)の
          大改修の後に傷んでいたものを平成8年の修復により江戸中期の姿に戻した
          ものといいます。
          直線で構成される茅葺きの寄棟(四注造とも呼ばれる)屋根は、軒高4.5m、
          軒より棟まで7.6mと広大なもの。近づけば御堂は五間四面の大堂であることに
          気付かされます。
          柱は内外すべて丸柱、四方に廻縁を付し、素朴で壮重な鎌倉建築の色合いを
          表すと言われます。三間四方の内陣を取り巻く外陣(脇陣、後陣)で構成する
          単純な平面。外陣上には立派な虹梁(こうりょう)も見てとれます。
          内陣には、御堂の本尊、阿弥陀三尊像。清らか限りない表情、流麗な衣紋、
          観音、勢至の両脇侍菩薩の少し身をかがめて動きだすかのような・・その姿。
          1295年の作と言われますが、その見事な保存とともに滅多に会うことの無い
          ような感動的な御像です。(写真でお見せ出来ないのが残念です)
          現在は真言宗に属する寺ですが、創建当時の浄土信仰の深さを覗わせます。
          (阿弥陀堂、阿弥陀三尊像ともに国重文。)

          真っ青な空、緑の杉林をバックに、この見事な茅葺屋根の御堂、長い時を村の
          人々に守られてきたそのこととともに、感動的な出会いとなりました





































































慰めの彼岸花・・熊本、菊池、永山橋

2011-10-10 | 古いもの、昔の人

          熊本県菊池市から山間の道45号を行き、注意していれば眼下に古い石橋が
          見えてくるでしょう。菊池市大字原字永山にある永山橋です。
          県道が通ってからは、近隣の数軒の家の人だけの橋という感じですが、昔は
          肥後と豊後を結ぶ交易の要路に架っていたそうです。
          旧永山橋が文政12年の洪水で流失した後、明治9年から2年の歳月を費やして
          完成した石造の橋です。
          石工は肥後八代の橋本勘五郎という人。橋本は内務省測量士の辞令を受け、
          東京の二重橋、江戸橋、万世橋、浅草橋などの眼鏡橋を手懸けたといいます。
          見れば、丸型の欄干などに心を感じる立派な橋です。
          多くの人からは忘れ去られたような橋ですが、供えられたような彼岸花が一入
          鮮やかな永山橋でした。