熊本市の中心、熊本城に連なる緑の公園の傍に旧細川刑部邸があります。
細川刑部家は、細川家三代(肥後藩初代)の細川忠利の弟、刑部少輔典孝が
1678年に子飼(現市内東子飼町)に下屋敷を構えます。明治4年、城内の
武家屋敷の城外移転に伴い、子飼の邸を本邸として整えます。
現在、熊本城内の地に見る旧細川刑部邸は、平成2年から4ヶ年を要して、
子飼より移設、復元されたものです。
建坪約300坪の広大さ。長屋門を経て唐破風の正玄関、横の御次玄関を入ると
20余りの部屋が連なっていて、部屋の名を追うことは早々に諦めさせられます。
ただ、多くの部屋が縁を介して庭につながり、明るい外光もふんだんで・・
(写真では暗く写りますが)、程よい独立性も保たれていることが印象に残ります。
こういった上級武家屋敷を見せて戴く時、そこに庶民の暮らしとの隔差を見付けて
憤然とするか、あるいは日本の家の合理性と文化を見るか・・いつも迷うことです。
ここでは、後者の立場を重んじておくことです・・そう思いませんか。











細川刑部家は、細川家三代(肥後藩初代)の細川忠利の弟、刑部少輔典孝が
1678年に子飼(現市内東子飼町)に下屋敷を構えます。明治4年、城内の
武家屋敷の城外移転に伴い、子飼の邸を本邸として整えます。
現在、熊本城内の地に見る旧細川刑部邸は、平成2年から4ヶ年を要して、
子飼より移設、復元されたものです。
建坪約300坪の広大さ。長屋門を経て唐破風の正玄関、横の御次玄関を入ると
20余りの部屋が連なっていて、部屋の名を追うことは早々に諦めさせられます。
ただ、多くの部屋が縁を介して庭につながり、明るい外光もふんだんで・・
(写真では暗く写りますが)、程よい独立性も保たれていることが印象に残ります。
こういった上級武家屋敷を見せて戴く時、そこに庶民の暮らしとの隔差を見付けて
憤然とするか、あるいは日本の家の合理性と文化を見るか・・いつも迷うことです。
ここでは、後者の立場を重んじておくことです・・そう思いませんか。










