この地には大正10年、大阪・中座を模して建てられた「中座」があった所。
火災や台風による倒壊の後、昭和6年「嘉穂劇場」として再建されました。
当時、筑豊は石炭炭鉱で栄え、その労働者を客の中心に、大衆演劇や歌手の
公演などで賑わったといいます。
その後、昭和30年代後半の石炭産業の衰退もあり経営危機に陥ります。
経営者、伊藤英子の奮闘と多くの著名芸能人の支援により持ちこたえ、
国の登録有形文化財の指定も受け、今に至っているのです。
木造2階建、廻り舞台やセリを有し、1、2階の桟敷合わせて最大1200人を
収容することが可能だといいます。
昭和の雰囲気をふんだんに残した狭い通りを行き、劇場の前に。
赤い絨毯を歩いて座布団の敷かれた桟敷に座り、舞台に・・
嘉穂劇場は、嘗ての筑豊の華やかな香りをそこはかとなく感じさせてくれる
芝居小屋なのです。











火災や台風による倒壊の後、昭和6年「嘉穂劇場」として再建されました。
当時、筑豊は石炭炭鉱で栄え、その労働者を客の中心に、大衆演劇や歌手の
公演などで賑わったといいます。
その後、昭和30年代後半の石炭産業の衰退もあり経営危機に陥ります。
経営者、伊藤英子の奮闘と多くの著名芸能人の支援により持ちこたえ、
国の登録有形文化財の指定も受け、今に至っているのです。
木造2階建、廻り舞台やセリを有し、1、2階の桟敷合わせて最大1200人を
収容することが可能だといいます。
昭和の雰囲気をふんだんに残した狭い通りを行き、劇場の前に。
赤い絨毯を歩いて座布団の敷かれた桟敷に座り、舞台に・・
嘉穂劇場は、嘗ての筑豊の華やかな香りをそこはかとなく感じさせてくれる
芝居小屋なのです。










