枯雑草の写真日記2

あの懐かしき日々を想いながら・・つれずれの写真日記です。

法隆寺の東、法起寺、法輪寺の三重塔へ

2009-07-26 | 古い神社や寺で
          法隆寺の東、なだらかな山裾に沿って位置する聖徳太子ゆかりの古寺、法起寺、法輪寺に
          二つの三重塔を訪ねます。
          法起寺(ほうきじ)三重塔は慶雲3年(706)太子の子、山背大兄王(やましろのおおえのおう)
          の建立とみられています。現存するわが国最古の三重塔なのです。
          高さ23.9m、三重塔としては最大級のもの。同時期建立の法隆寺五重塔とは共通する所
          が多い。法隆寺の初層、三層、五層の大きさが、この三重塔の初層、二層、三層に
          ほぼ等しいこと。雲肘木、隅尾垂木上に鬼斗が入る木組み・・などです。

          法起寺と法隆寺の間にもう一つの寺、法輪寺があります。ここにも、7世紀末に建てられた
          と言われる三重塔がありましたが、不幸にも昭和19年雷火で炎上。
          でも、境内には朱色鮮やかな美しい三重塔の姿がみられます。昭和50年、作家幸田文の
          支援、宮大工西岡棟梁の手で創建当時そのままの姿で再建されたものです。(幸田文の父
          幸田露伴には宮大工を描いた「五重塔」という名作がありますね。その縁でしょうか。)
          法起寺の塔とはうり二つ、双子の姉が蘇ったような姿に感動を覚えます。(写真6、7枚目)
          法輪寺講堂には、飛鳥の香り(いや、大陸のお顔かな・・)高い、寺伝虚空蔵菩薩がおられ
          ます。熱烈な愛好者が多いと言われる美しいお像です。

          斑鳩の地に広がる田園の道を歩きながら、思うような写真は撮れなかったけれど、1300年
          昔の面影を持った三重塔と仏に会えたことにまずまず満足とせねば・・と思ったものです。

























































斑鳩の法隆寺、その2 東院伽藍(東大門から夢殿へ)

2009-07-22 | 古い神社や寺で
           西院伽藍と並んで法隆寺の中核を為すのは、境内の最東端、東院伽藍です。
          東大門を通り長い石畳の道を経て、その中心夢殿を拝します。
          聖徳太子一族の住居であったと伝える斑鳩宮の跡に、天平11年(739)建てられた八角
          円堂。いつのころからか、夢殿とよばれるようになったようです。
          お堂の周りをゆっくり回ります。その微妙な角度をもつ壁を伝う感覚は、不思議な夢の世界
          に導かれる思いです。
          夢殿の厨子の中にはあの救世観音が安置されています。(春秋年2回のみの開帳)
          救世観音と言えば、思い出される話・・

          明治初年の廃仏毀釈を憂い、日本の文化、美術の保護に立ちあがった米人美術研究家
          フェノロサ。この夢殿の中に木綿の布を幾重にも巻かれて千年の時を眠る「絶対秘仏」が
          あると・・。政府の許可証を掲げて「鍵を開けてください」と迫るフェノロサ。恐怖のあまり逃げ
          去っていった僧侶達。そんな中で450mもあったという布の最後の一片が取り払われた
          あとに現れた不思議な微笑みを湛えた菩薩「救世観音」。
          明治17年、この世界にも比類のない彫像の再出現の話。けっこう有名ですよね。

          夢殿のあと、その東隣、中宮寺に参り、あの懐かしい弥勒菩薩(寺伝如意輪観音)を拝し
          ました。南大門への長い石の道を戻りながら思ったこと・・。
          この華麗で壮大な伽藍と仏。法隆寺は現代に生きる寺というよりも、日本の寺院の、文化
          のひとつの大きな幹の発祥の地だという印象がするのです。

























































斑鳩の法隆寺、その1 西院伽藍(金堂、五重塔)

2009-07-18 | 古い神社や寺で
          現存する世界最古の木造建築物としてあまりにも有名な法隆寺(別名斑鳩(いかるが)寺)。
          しかし、その創建については、今だ多くの謎に包まれているようです。一般に、聖徳太子の
          創建と言われてきましたが、その太子自体架空の存在であったという説が有力なのだそう
          です。でも、太子のモデルとなった人物(厩戸王または九州王国の王)がおり、7世紀の早い
          時期、この斑鳩の地に仏教寺院を建立した(あるいは移設した)ことは史実のようです。
          現存する西院伽藍(金堂、五重塔、中門、回廊)の建設時期についても・・、日本書紀の
          670年に当たる記事「・・災法隆寺一屋無餘(法隆寺は一屋余すところなく焼失)」をめぐって
          「再建、非再建論争」が起こる。建築用材の伐採年代の科学的調査などにより、現在では
          670年の火災以後700年代の初期までに金堂、五重塔の順に再建されたという説が有力
          ということです。100年くらいどうだって・・なんて言いっこなしですよ。
          さて、金堂と五重塔を見ます。
          金堂。入母屋造の二重仏堂。二重の屋根が堂の壮大さを一層引き立てているようです。
          雲斗、雲肘木など曲線を多用した木組み、二階の卍くずしの高欄、それを支える「人」字形
          の束(蟇又)など法隆寺独特のもの。(後に見る法輪寺、法起寺の三重塔とは共通)
          内部に釈迦三尊、薬師如来、四天王など飛鳥のこの上ない貴重な仏像を安置する。
          五重塔。最上層の屋根の一辺は初層のそれの約半分。それほどに屋根の低減率が高い。
          初層には簡素な板葺屋根の裳階を有する。雲斗、雲肘木、高欄など金堂と共通の特徴を
          持つ。
          これらの建物の周りを歩きながら思うこと。不思議なことにこれが日本最古の建物である
          という感じがしないのですよ。それは、立派な補修管理が為されていることもありましょうが、
          それ以上に、その後築かれてゆく日本独自の建築様式とは違ったもの<それは大陸、
          あるいは忘れられた仏教王国の影響を生のまま色濃く反映したもの>それが一種の斬新さ
          を感じさせるののかもしれない・・そんなことを考えていました。































































盛衰の時の面影、元興寺極楽坊

2009-07-02 | 古い神社や寺で
           奈良の街の中心、猿沢池から街路を南へ500mほども行くと元興寺に着きます。
          仏教伝来の後、最初の寺は蘇我氏が飛鳥に建てた法興寺。それが平城遷都とともに奈良
          に移された寺がこの元興寺だといいます。奈良の時代、学問、文化の中心として栄えた寺。
          やがて仏教の教えにいう正法千年、像法千年の後に到来する末法の時代に入るとされた
          平安時代の末。阿弥陀如来の住まう極楽浄土への往生を願う浄土信仰が俄かに拡がりを
          見せ、寺の一部は極楽坊と呼ばれ浄土信仰の中心の地となります。
          その後、中世から近世に至るまで、この寺は様々な信仰が入り交り、庶民に支えられた
          長く静かな時を経ることになるのです。
          境内を取り囲むように置かれた庶民の信仰の証、無数の石仏。本堂の屋根の残る法興寺
          以来の日本最初の瓦。黒く沈んだ柱、扉、格子戸、縁、そんなものに長い長い時間と
          籠められた人々の念を想います。(国宝、世界文化遺産登録)