広島市内中央部にあるカトリック幟町教会の聖堂。昭和29年(1954)の竣工。
この地には幟町天守会教会と呼ばれる小さな教会がありましたが、昭和20年8月6日に
被爆、倒壊、焼失。
フーゴ・ラッサール神父が犠牲者の弔いと世界平和のための基点となる聖堂の建設を発想。
昭和23年、コンペ形式で設計案を日本全国から募る。著名、若手の建築家177名の
応募案が集まる。しかし、審査員を含めた建築的主張の隔たりは大きく、1等該当者なし
の結果となります。そこで、意外なことながら、審査員でもあった村野藤吾が新たな設計
を請け負うことに・・
昭和29年8月6日献堂式。
鐘楼の壁面には
「此の聖堂は昭和二十年八月六日広島に投下されたる世界最初の原子爆弾の犠牲となりし
人々の追憶と慰霊のために、また万国民の友愛と平和のしるしとしてここに建てられたり
而して此の聖堂によりて恒に伝へらるべきものは、虚偽に非ずして真実、権力に非ずして
正義、憎悪に非ずして慈愛即ち人類に平和を齎す神への道たるべし故に此の聖堂に来り
拝するすべての人々は、逝ける犠牲者の永遠の安息と人類相互の恒久の平安とのために
祈られんことを」と刻まれる。
この11月、日本訪問のローマ・カトリック教会のフランシスコ教皇を待ち受ける教会
でもあります。
この地には幟町天守会教会と呼ばれる小さな教会がありましたが、昭和20年8月6日に
被爆、倒壊、焼失。
フーゴ・ラッサール神父が犠牲者の弔いと世界平和のための基点となる聖堂の建設を発想。
昭和23年、コンペ形式で設計案を日本全国から募る。著名、若手の建築家177名の
応募案が集まる。しかし、審査員を含めた建築的主張の隔たりは大きく、1等該当者なし
の結果となります。そこで、意外なことながら、審査員でもあった村野藤吾が新たな設計
を請け負うことに・・
昭和29年8月6日献堂式。
鐘楼の壁面には
「此の聖堂は昭和二十年八月六日広島に投下されたる世界最初の原子爆弾の犠牲となりし
人々の追憶と慰霊のために、また万国民の友愛と平和のしるしとしてここに建てられたり
而して此の聖堂によりて恒に伝へらるべきものは、虚偽に非ずして真実、権力に非ずして
正義、憎悪に非ずして慈愛即ち人類に平和を齎す神への道たるべし故に此の聖堂に来り
拝するすべての人々は、逝ける犠牲者の永遠の安息と人類相互の恒久の平安とのために
祈られんことを」と刻まれる。
この11月、日本訪問のローマ・カトリック教会のフランシスコ教皇を待ち受ける教会
でもあります。