今年、平成21年は堀口大学の「月光とピエロ」が出版されて90年、清水脩の男声合
唱曲が発表されて60年を迎える。
私もこの名曲を畑中良輔先生(ワグネル現役)と北村協一先生(OB四連)で歌っ
たことがある。この曲にはいろいろなものが詰まっており、何よりア・カペラであ
ることが難しい。
ビクターの日本合唱曲全集「月光とピエロ」清水脩指揮、東混+二期会男声
この曲に関して10年前に「畑中良輔先生(*)喜寿記念エッセイ集」に私が書いた
文章を下記に引用しよう。
*畑中先生は、今日12日87歳の誕生日を迎えられる。
(平成12(2000)年文化功労者、18(2006)年恩賜賞・日本芸術院賞、
20(2008)年日本芸術院会員)
-----------------------------------------------
今から28年前の昭和46年。この年は米国ニクソン大統領のドル防衛策発表があ
り、ドル/円が変動相場制に移行した年として記憶されている。今日から見ても激
動期。ボーリングとTシャツ、ジーパンが爆発的にはやっていた時代だ。
ぼくは大学生活2年目を迎えていた。
大学のクラスは、もともと語学の授業をいっしょに受けるためだけのものでしか
ないが、ぼくは大学のクラスの人間と遊んだり、何かをしたということはまったく
ない。先輩、後輩を含め、仲間といえる人間はワグネルにしかいなかった。
実際、ワグネルの仲間とはよく遊んだものだ。当時新人のYくん、Uくんとは早
朝ボーリングに行った。Yくんの日吉学生ハイツに泊めてもらって、一番電車で元
住吉に行くのである。
Aくんが男声合唱のレコードをたくさん持っているというので、うちで購入して
間もない、トリオ(このメーカー名も今はない。)のステレオでレコード鑑賞会を
したこともある。(これはたしか東混と二期会による男声合唱だった。)、北村先
生と関学グリーによる「アイヌのウポポ」、水谷昌平/東海メール「千恵子抄巻末
の歌六首」等々。今から考えても、彼は多くのLPを集めていた。
その年、六連と定演は畑中先生の指揮で「月光とピエロ」を歌った。自分たちの
演奏をいうのもおかしいが、たいへん緊張感のある演奏だった。
その年の夏休みには、先輩に紹介していただいて、鉄工所で肉体労働のアルバイ
トを経験した。肉体労働だから、あまり頭は使わず、考えることは少ない。機械の
騒音の中で、「月光とピエロ」を何回も何回も歌うとグッタリとして一日が終わ
る。自分なりに表情を変えたりして、何回歌ったことだろう。今、あらためて「月
光とピエロ」を考えると、いろいろな表現が許される曲だということに気がつく。
今年、平成11年は「月光とピエロ」が出版されて80年、作曲されて50年を迎え
た。今や、文字通りの古典である。
昨年、現役の定期演奏会で、ぼくは高一の娘とともに、久しぶりに畑中先生/ワ
グネルの「月光とピエロ」を聴いた。ぼくが想像していたよりも男性的で、一方で
は一瞬はっとするような、虚無的な表情を見せる演奏だった。娘もはじめて聴く
「ピエロ」をたいへん気に入ったようだった。最後のフェルマータが終わり、ブラ
ボーの声があがる中、ぼくは夢中で拍手した。(平成11年10月)
唱曲が発表されて60年を迎える。
私もこの名曲を畑中良輔先生(ワグネル現役)と北村協一先生(OB四連)で歌っ
たことがある。この曲にはいろいろなものが詰まっており、何よりア・カペラであ
ることが難しい。
ビクターの日本合唱曲全集「月光とピエロ」清水脩指揮、東混+二期会男声
この曲に関して10年前に「畑中良輔先生(*)喜寿記念エッセイ集」に私が書いた
文章を下記に引用しよう。
*畑中先生は、今日12日87歳の誕生日を迎えられる。
(平成12(2000)年文化功労者、18(2006)年恩賜賞・日本芸術院賞、
20(2008)年日本芸術院会員)
-----------------------------------------------
今から28年前の昭和46年。この年は米国ニクソン大統領のドル防衛策発表があ
り、ドル/円が変動相場制に移行した年として記憶されている。今日から見ても激
動期。ボーリングとTシャツ、ジーパンが爆発的にはやっていた時代だ。
ぼくは大学生活2年目を迎えていた。
大学のクラスは、もともと語学の授業をいっしょに受けるためだけのものでしか
ないが、ぼくは大学のクラスの人間と遊んだり、何かをしたということはまったく
ない。先輩、後輩を含め、仲間といえる人間はワグネルにしかいなかった。
実際、ワグネルの仲間とはよく遊んだものだ。当時新人のYくん、Uくんとは早
朝ボーリングに行った。Yくんの日吉学生ハイツに泊めてもらって、一番電車で元
住吉に行くのである。
Aくんが男声合唱のレコードをたくさん持っているというので、うちで購入して
間もない、トリオ(このメーカー名も今はない。)のステレオでレコード鑑賞会を
したこともある。(これはたしか東混と二期会による男声合唱だった。)、北村先
生と関学グリーによる「アイヌのウポポ」、水谷昌平/東海メール「千恵子抄巻末
の歌六首」等々。今から考えても、彼は多くのLPを集めていた。
その年、六連と定演は畑中先生の指揮で「月光とピエロ」を歌った。自分たちの
演奏をいうのもおかしいが、たいへん緊張感のある演奏だった。
その年の夏休みには、先輩に紹介していただいて、鉄工所で肉体労働のアルバイ
トを経験した。肉体労働だから、あまり頭は使わず、考えることは少ない。機械の
騒音の中で、「月光とピエロ」を何回も何回も歌うとグッタリとして一日が終わ
る。自分なりに表情を変えたりして、何回歌ったことだろう。今、あらためて「月
光とピエロ」を考えると、いろいろな表現が許される曲だということに気がつく。
今年、平成11年は「月光とピエロ」が出版されて80年、作曲されて50年を迎え
た。今や、文字通りの古典である。
昨年、現役の定期演奏会で、ぼくは高一の娘とともに、久しぶりに畑中先生/ワ
グネルの「月光とピエロ」を聴いた。ぼくが想像していたよりも男性的で、一方で
は一瞬はっとするような、虚無的な表情を見せる演奏だった。娘もはじめて聴く
「ピエロ」をたいへん気に入ったようだった。最後のフェルマータが終わり、ブラ
ボーの声があがる中、ぼくは夢中で拍手した。(平成11年10月)
喜寿記念演奏会と文集発行は10年も前のことなのですね
当時行き交ったメールを懐かしく読み返しておりました
もう長いこと先生の棒で歌っておりません
歌うことそのものから遠ざかっておりましたから
最近、また歌うことを始めました
今度こそ機会があればブル先生の指揮で歌いたいです
当時「月光とピエロ」を歌ったのは昭和46年でした。
10年前にそのことを「28年前」というエッセーに書い
たのでした。あれから10年、ということは昭和46年の
ご入学は38年前!なのですね~。
「あれから40年」はきみまろサンですか。あと2年で
すね~。