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小泉信三『平和論』

2020-06-02 05:00:00 | 近現代史

[じっくり読むのに5分以上かかりますが、一つお付き合い願えれば幸甚です]。

最近、戦後史をおさらいしていることについては、以前に書いた。
今回は、戦後史の一つとして小泉信三『平和論』を取り上げる。

終戦後、日本は主としてアメリカに占領された。ソ連に分割統治さ
れなくて、本当によかった。

サンフランシスコ講和条約にソ連などは参加しなかったけれど、当
時の日本国民多数に支持された吉田内閣が結果として多数講和を選
択したことは、当時としても、また今日から振り返っても、間違っ
ていなかったのではないかしらん。

サンフランシスコ講和に臨んでは、岩波書店の『世界』で「進歩的
な」知識人を中心に「全面講和論」の主張がなされたが、それに対
して、敢然と反対の論陣を張ったのが小泉信三である。


多少長くなるが、以下に小泉信三『平和論』の抜粋を紹介しておこ
う。

小泉信三は、若かりし頃、「慶應の麒麟児」といわれただけあって、
『平和論』では、「問題の立て方」、「その整理の仕方」が見事で
(--その点は大変勉強になる。)、相当推敲を重ねたと思われる、
冷静にして精緻な、スキのない論理で、(ソ連等を含めた)全面講
和は現状「出来ない相談」だと説いている。

後記、当ブログ「戦後史と反ソ感情?」も参照いただければ幸いだ。

ちなみに、当時の朝日新聞世論調査(後記1950/11/15)でも分かる
が、国民多数は、『世界』に賛同することなく、多数講和をよしと
していたのである。


小泉信三『平和論』(1951/10)より
 私は当初から全面講和論、中立論に反対であった。反対というのは、それが出
 来ても望まないというのではない。出来ない相談だと思ったのである。その出
 来ない相談をしきりに唱え、また合唱することが、如何なる結果を齎(もたら)
 すか。それを私は、日本のために望ましいとは考えなかった。

 中立論者は平和を唱える。私は中立論者が平和を重んずるから反対するのでは
 ない。平和を願い、これを重んずることにおいて、私は人後に落ちないつもり
 である。ただ中立論で平和を護ることは出来ないと謂うのである。人々の見解
 が異(ちが)うのは已むを得ないが、ただ中立論者、全面講和論者が平和の名
 を独占することを、私は肯(がえ)んじない。 


 日本の中立には米ソ両陣営の保障がなければならぬ。仮に米ソ両国が日本の中
 立不可侵につき、それぞれ日本と、及び相互の間に条約を締結したとする。そ
 れで、日本の中立はもはや大丈夫と言い得るか。仮に両国相争う場合にも、こ
 の条約だけは必ず守ると言い得るであろうか。何人もそれを躊躇するであろう。

 1945年8月、ソ連の対日宣戦のとき、その四年前に締結された日ソ中立条約
 は立派に存在した。そうして、それは、ソ連の一方的開戦を妨げる何の力も
 持たなかったではないか(注:「戦後史と反ソ感情?」参照)。それは日本
 としては不明を暴露した、赤面すべき経験であって、それについて語ること
 は決して愉快ではない。けれども、日本人が経験によって賢くなる国民であ
 るべきなら、やはり、それを忘れてはならぬ。


 私は親ソ的もしくは進歩的といわれる知識人と、幾度かこの問題について話を
 したことがある。あの時の中立条約は容易く破られたが、今度の条約は大丈夫
 だとどうして保証するか。この点につき日本人が、不安を感ずるのは当然だと
 は認めないか。といえば、ただその中の或る者が、ソ連による中立の侵害は日
 本人民のために歓迎すべきことだと仄めかす以外、今度の条約は必ず大丈夫だ
 というものは一人もない。この点において、私の接触した限りでは、中立論者
 は中立維持に自信を持っていないように見える。


 先頃全面講和論者が「全面か単独か」というスロウガンを掲げたのは公正では
 ない。或いは正直でない。単独講和または多数講和をもって甘んずるというも
 のは、故(ことさ)らに全面講和を捨てて取らないのではない。現情勢の下で、
 それを望み難きを考えて、多数との講和で辛抱しよう。それでもなお且つ占領
 継続よりは有難いというに過ぎないのである。而して中ソ同盟条約(注:1950/2)
 がその条文中に日本の名を(注:仮想敵国として)明記して敵対的の意味を現
 したこと、北鮮軍(注:北朝鮮軍)が突如南侵行動を起こしたことは、この気
 持ちを強めたように観察される。



<参考>年号は西暦(「19」略ベース)

45/9/9 ソ連、満洲等に侵攻(日ソ中立条約違反)→「戦後史と反ソ感情?」
48/7/13 ユネスコの8人の社会科学者の声明--戦争をひきおこす緊迫の原因について
48/12/12 平和問題討議会「戦争と平和に関する日本の科学者の声明」(『世界』
     49/1。上記ユネスコ声明にならったもの)
49/3 小泉信三『共産主義批判の常識』初版(新潮社)

49/10/1 中華人民共和国成立
50/1/6 コミンフォルム、日本共産党の野坂参三平和革命路線を批判
50/1/15 「講和問題についての平和問題談話会声明」(『世界』50/3)→こちら
50/2/14 中ソ友好同盟相互援助条約(日本を仮想敵国と明記)
50/6/25 北朝鮮、韓国に侵攻(朝鮮戦争)
50/11/15 朝日新聞世論調査→こちら


大きな文字は、当時発表された小泉信三の評論→『平和論』(文藝
春秋社刊)に収録されている。
51/6/27 「挑発と好機会」(『時事新報』)
51/9  「以て非なる硬骨」(『文藝春秋』)
51/9  「講和と実業人」(『実業之世界』)
51/9/2 「講和の明日」(『毎日新聞』)
51/9/3 「世界の明日明後日」(『夕刊中外』)
51/9/8 サンフランシスコ平和条約・日米安保条約調印
51/9/10 「講和の成立と自主の精神」(『朝日新聞』)
51/9/19 「安全保障と日本人」(『共同通信特信』)
51/10  「平和論」(『心』)
51/10  『世界』10月号(講和問題特輯号)
51/10/22-23 「平和の実と安全保障」(『時事新報』)
52/1 「再び平和論」(『文藝春秋』)
52/1 「共産主義とソ連国家主義」
52/3 「法と秩序と信義」(『婦人公論』)
52/4 「二つの平和」(『読売新聞』)
52/5 「私の平和論」(『世界』 都留重人氏に)
52/5 「平和論の明暗」(『文藝春秋』 中野好夫氏へ)
52/11/16 「平和論の安定」(『西日本新聞』)

小泉信三の『平和論』(文藝春秋社)は、小泉信三全集第15巻で
読むことができる。
また、その一部の「再び平和論」は文春学藝ライブラリー『常識
の立場』でも接することができる。


<余談>
大学入学後の「クラス討議」で、日米安保問題になり、私が「日本を仮想敵国と
明記した中ソ友好同盟相互援助条約については、どう考えるのですか?」と質問
した。すると同じクラスで、豊橋高校出身のA君(名前が思い出せないが、その
後、豊橋に春の演奏旅行に行った時に応援に来てくれた。)が「それは、日米安
保を結んでいるから、やむを得ず、中ソ同盟条約を結んだんだ」とソ連の弁護を
ぶった。

しかし、これは順序と論理があべこべであって、日本を仮想敵国と明記した中ソ
友好同盟相互援助条約が成ったのは1950年2月であり(その時点ではいまだ日本
は占領下だった。)、その後、6月に北朝鮮が南侵する朝鮮戦争が起こり、日米
安保を締結したのは、サンフランシスコ講和条約を締結した1951年9月のことで
ある。




小泉信三全集第十五巻 『平和論』


文藝春秋編『常識の立場』(文春学藝ライブラリー[文庫])

本書に掲載されている小泉信三「平和論」は、正しくは「平和論」
をさらにブラッシュアップした「再び平和論」(『文藝春秋』52/1)
である。

<参考>
〇戦後史と反ソ感情?→こちら
〇吉野源三郎と『世界』→こちら
〇朝日新聞世論調査(昭和25年)→こちら

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