かぜねこ花鳥風月館

出会いの花鳥風月を心の中にとじこめる日記

斎藤茂吉の前にたじろぐ

2022-12-05 14:38:10 | 日記

山形県南陽市で午後に開催されるNHKFM「×かけるクラシック」公開放送に向かう途中、奥羽本線「茂吉記念館前」で途中下車し、次の米沢行が来るまでの1時間あまり、斎藤茂吉記念館に立ち寄る。

JRの駅で「○○記念館前」がほかにあるのを知らない。それだけ、存在の大きな人なんだろう。茂吉はこの駅近くの「金瓶(かなかめ)」というところで生を受けた。

だが、「明治・大正・昭和を生きた国語の教科書に載るほどの著名な歌人」という程度知識だけで、この記念館に入り、茂吉の生涯を知り、その巨大な知性と能力に接し、膨大な業績の前に立つと、めまいがするほどの衝撃を受けるのではないだろうか。オイラは、そうだった。

「この明治生まれの歌人は、かくも深く古典を研究し、書に親しみ、膨大な歌を作り、声に出し、しかも一流の書や絵に書き留めていた」。

書のことは分からないが、彼の色紙や書に接すると芸術の高い域に入るのではないかと直感した。

生涯の同時進行として、彼は精神医学研究の徒でもあり病院の経営者としても生きた。学生時代の手帳やノートに記された細密で几帳面な講義録に一瞥するだけで、彼のただならぬ医学研究への情熱と努力を理解することが出来る。(内容が全く分からないのにである。)

「生涯70年とあるが、なんと濃密な人生を歩んだものか。」

わずかな時間だったが、会館を出て、松林の初冬の空気を吸って、曇り空の向こうの蔵王連山を感じながらもっと茂吉の歌に接し、彼の歌の精神「実相観入(じっそうかんにゅう」(表面的な自然の写生に留まらず人生と自然を一体のものとする)を学んでいこうと思った。

「オイラも生涯70年にあと少し。薄っぺらな人生だったが、賢治さんや茂吉さんたちが残してくれた膨大の遺産の微々たるものでも受け取れたらいいな。」

 

斎藤茂吉記念館HP

 

 

     

                     記念館前で

     

                    茂吉晩年の居室

 


日本百名山MY SONG       26 平ヶ岳(2141米)

【深田百名山をよんで】

(日本百名山から)

・平ヶ岳は、日本百名山を志した最初の日からわたくしの念願にあった。あまり人に知られていないが、十分その資格がある。

・私はいつかその上に立ちたいと願っていた。しかし、それはあまりに遠すぎた。

・残雪期を逃した私は秋のさ中に、ついに念願を果たした。

・猛烈な藪潜りが続いた。方角が分からなくなると、木によじ登って行衛を定める。

・(三日目)ひょつこりきれいな空き地に出た。そこが平ヶ岳の頂上であった。もう午後遅くになっていた。

「頂上のテントで明けた朝は、素晴らしい天気に恵まれた、ところどころ小池をちりばめた草原には、あの忌まわしい屑類一つなく、汚されない自然のままの美しさで広広と続いていた。四周には、数えきれぬほどの既知未知の山々が立ち並び、この山の深さを感じた。」

 

  沢つたい 藪にもぐりて 三日目に 原始のままの 平ヶ岳に立つ

 

深田日本百名山登頂の思い出抜粋

(2006年以降のこと)

① 平ヶ岳登山口は交通の便が悪いのでマイカーで出かけた。(追記参照)

② 朝2時ごろには、登山口に着いていて、薄明るくなった午前4時にはスタートして、標準コースタイム往復12時間の長大な尾根道を日帰りで行ってきたこと。帰ってきたときはまだ明るかったこと。(たぶん6月か7月はじめころだったのだろう。)

③ 時おり雨のふるようなお天気だったが、頂上付近の広大な湿原と玉子石からの眺めは目にしている。

④ 帰りの道で青い蛇が道をクネクネ、ニョロニョロではなくスウーッと横切った。(どうしてそんなことをいつまでも覚えているんだろう。)

⑤ 下山後、桧枝岐集落に戻り駒の湯で汗を流し、少し戻った七入(なないり)のキャンプ場で一夜を明かし、翌日は高層湿原の美しい田代山と二百名山の帝釈山に登り、木賊温泉の鄙びた湯に浸かって仙台に戻った。

今の体力では、日帰りをすれば、夏でも真っ暗になり、登山口近くの岩尾根で苦労するであろう。遠い遠い山となっている。

 

     

           会津駒ヶ岳に到る大杉林道から平ヶ岳を望む

 

追記(2021.10.11.17:00)

2006年以降は、マイカーを所有していなかったので、仙台か最寄りの会津若松駅あたりでレンタカーを借り受けて尾瀬方面に向かったのだろう。

 

    雨けぶる 尾瀬の果てなる平ヶ岳 いただきやさし 日帰りの夏

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