かぜねこ花鳥風月館

出会いの花鳥風月を心の中にとじこめる日記

秋飯 きのこごはん

2022-11-11 15:05:32 | 日記

秋飯(あきめし)としての炊き込みご飯を、キャンプを想いながらメスティンで焚くシリーズ。

きのうは、市販のキノコ(ブナシメジ、エノキ、マイタケ)に焼き鳥の100円缶詰、ニンジン、アブラゲなどを加え、白だし、酒、みりん、塩少々などの調味料で炊いた。具が多いので、一合の米を三合炊きのラージメスティンで約40ミリ㍑のエタノール(菊川66)で17分ほど、美味しく炊けた。1合は多いけど、腹いっぱいいただいた。

登山愛好家なら天然のキノコと行きたいところだが、数十年前山岳会に所属していた当時以降、山でキノコ狩りをしていない。アミダケ、ブナハリダケ、ナラダケ以外は自信がない。山岳会員なら必ずだれかキノコに詳しい人がいて、毒とそうでないキノコを見分けてくれたものだが、一人歩きだと図鑑を片手にのキノコ狩りでは自信がない。

そんなことで、いまやスーパーの野菜コーナーにさまざまな栽培キノコが並んでいるので、それらでがまんすることにしている。

昨日は入れなかったが、ヒラタケ、エリンギなどもおいしいキノコであり、この秋に第二弾と行きたい。

さて、秋飯あとは・・はらこめしか、何もかも食材は高騰しているが一度だけはこさえてみるか。

 

 

    

 

 


日本百名山MYSONG) 13 岩手山

深田百名山を読んで】

秋田出身の日本画家平福百穂の短歌、岩手のうんだ歌人石川啄木の短歌、同じく宮澤賢治の詩を取り上げながら、岩手山の賛歌を繰り広げている。

(本文抜粋)

「北へ向かう急行が盛岡を出て間もなく、左側に、ポプラ並木の梢越しに見えてくる岩手山は、日本の汽車の窓から仰ぐ山の中で、最も見事なものの一つだろう。

(中略)

岩手が生んだ幾多の人材、それらの精神の上に岩手山が投影せずにはおかなかっただろう。雄偉にして重厚、東北人の土性骨を象徴するような山である。かつての名門盛岡中学の少年たちは、これを仰ぎながら学び且つ遊んだ。石川啄木もその一人であった。後年流離の生活を送った彼の眼底には、いつも北上川の岸辺から望んだ岩手山の姿があったに違いない。

    ふるさとの山に向かひて

    言ふことなし

    ふるさとの山はありがたきかな

盛岡の風景は岩手山によって生きている。一つの都会に一つの山がこれほど大きく力強く迫っている例は、他にないだろう。

(後略)」

 

盛中の 少年たちを羨みて 登山家仰ぐ 岩手山かな

 

深田百名山登頂の思い出から抜粋

「少し体が復元されて体力がついたら、賢治さんが青年時代にやったみたいに、盛岡市内から歩き始め、岩手山神社~馬返しコース夜通し歩いて山頂でご来光を仰いでみたい。星の輝いている夜に疲労のため絶命しても、それはそれで本望というものだろう。その折は、銀河鉄道に乗り遅れないようにしたい。」

盛岡発 岩手山頂駅で降り 乗り継いでいく 銀河鉄道

  

                2020.9.5 焼け走りにて

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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青葉の森も色づいて

2022-11-10 14:15:55 | 日記

秋の森の復習

① 葉っぱが緑に見えるのは、光合成で活躍するクロロフィルという色素が活発なあいだ、太陽光のうち緑色は吸収されず反射されるため。

② 秋になって気温8度以下の寒さになるころ、樹々は冬の省エネモード(冬眠体制)となりクロロフィルが分解され、来春の木の芽屋根の方向に栄養が回収されていく。そのため次第に緑色が弱くなる。(反射されなくなる。)

③ 葉の赤くなるモミジの仲間などは、クロロフィルの分解時期にアントシアニンという色素がつくられ始める。(原因はよく分からないらしい)これが赤を反射するため赤く見える。

④ 葉が黄色くなる種の仲間は、アントシアニンは作られず、もともとあったカロテノイドといった色素が残り黄色を反射する。

⑤ ブナの仲間などは黄色よりやや茶色(オイラは日にかざすと金色に冴えるので黄金色とよんでいる)に見える葉は茶渋とおなじタンニンがつくられるからだという。

⑥ 葉から栄養を回収した樹木は、もう葉っぱから栄養をもらうことをあきらめ葉の根元に離層というシャッターをこさえ、やがて栄養と水分を失った葉っ葉たちは、カサカサに乾き離層から離れていく。「さようなら、葉っぱさん、お疲れさま」・・と

 

こうした紅葉のメカニズムは、悲しいかな1年も経つと忘れていて、復習をしないと「クロロフィル」、「アントシアニン」、「カロテノイド」という横文字が頭に浮かばない。

やっと、最低気温が8度以下になったので、近郊の「青葉の森」を歩く。ひと月前の蔵王では目にすることができなかった彩度をました紅葉・黄葉・黄金葉たちに巡り合えた。

アントシアニン派は、ハウチワカエデ・コハウチワカエデ、オオモミジ、トウカエデ、メグスリノキ

カロテノイド派は、イタヤカエデ、コシアブラ、タカノツメ、ハリギリ、アオハダ

タンニン派は、ブナ、イヌブナ、シデの仲間

などの名を上げることができたが、まだまだ知らない葉っぱが多く、葉っぱを拾ってきては、図鑑とにらめっこしている。

せめて身近な青葉の森だけは、あの八甲田のぬし鹿内翁みたいに、何でも知っているジジイになりたいものだ。

明日もまた出かけよう。

 

 

 

     

            空を見上げると、まるで絵の具のパレット 

 

 

     

               アントシアニン派 トウカエデ

 

     

      まだまだクロロフィル優勢なコハウチワカエデとカロテノイド派のアオハダなど

 

     

               アルカノイド派 メグスリノキ

 

     

           アルカノイド派 オオモミジ

 

     

         タンニン派  ブナ、イヌブナ

 

    

       もっとも鮮やかな  アントシアニン派  コハウチワカエデ

 

 


百名山MYSONG  12 八幡平

 

【深田百名山を読んで】

日本百名山引用)

「私が最初に八幡平を訪れたのもスキーで、それはもうかなり以前のことで、現在のような施設の全く無かった頃である。厳冬の一月、花輪線の小豆沢(今の八幡平駅)から行った。坂比平まで馬橇に乗り、そこからスキーにシールをつけて登りについた。蒸ノ湯まで五時間もかかっただろうか。凄い寒さだった。寝ていると蒲団の襟が息で凍った。」

馬橇降り シールをはいて登りゆく 蒸ノ湯の夜は 息も凍らせ

 

【深田百名山登頂の思い出より】

若い時から記憶に残るのは、山というよりは、麓の温泉。後生掛(ごしょがけ)、玉川、松川などの濁り湯をとくに愛していた。

その温泉を目的として、昨年の10月、安比スキー場から無人の山小屋を繋いで御所掛温泉まで縦走し、最終日は焼山を踏んで玉川温泉に下ったが、40年近くたっても変わらない御所掛の泥湯に感激しながら長いこと浸っていた。

若かりしとき敬遠した山が、老いた者には優しい山だと気が付いている。ことしも、昨年以上の紅葉や濁り湯への出会いを求めるため、バス時刻などを調べている。」

きのうきょう ひとりぽっちの山小屋で 落ちた枯れ葉を足音とも聴く

 

    

 

 

 

 

 

 

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赤い月の夜は、ふまじめ

2022-11-09 18:12:57 | 日記

すくなくとも、たしか前回2018年はの皆既月食のときには、石垣島の宮良の海岸に三脚とレリーズをセットして、欠け始めから食のおわりまでしっかり観察して、ぶれないお月様を撮ったと記憶している。それと、当時はニコンのp90くんという、月撮影にめっぽう強い見方がいてくれたので、大きな赤い月食のお月様を撮った。なんだか、目の前に月の女神さまがいてくれたような心地にもなった。

それだのに、今回は、「秋の世は寒い」、「ちょっとだけ撮ってくるか」「天王星の食はネットで観察しよう」などと、まるで不真面目にお月様とかかわってしまった。

これは、18時56分、歩いて3分の近所に行き、G3Ⅹを手持ちで撮ったもの。

これはいかんと自宅に戻り、三脚をセットして、ピントが合うところを何枚か撮ったが、家に帰り拡大してみるとみな少しボケていた。レリーズを怠り、手でシャッターを押したことが原因。何しろシャッタースピードが5,6秒なんてとてもスローだったため。暗い月食は、やはりレリーズが必要だった。

 

19時12分

19時42分、完全に食に入った。

 

 

家に戻って、国立天文台のライブ中継で天王星が月に隠れるシーンをいただいた。

あるいは、p90くんでレリーズをセットしたら、この目でも天王星を確認できたかも。

やはり月に強いコンデジ君を傍らに置きたいな。

というよりも、いい加減な撮影姿勢が、結果につながったということ。

暗くて、あったかくて存分に星ぼしと対話ができた石垣島が恋しい。

次は、2025年? 反省して、まじめに・・・・

 


深田百名山MAYSONG  11 八甲田山

【深田百名山を読んで】

深田さんの八甲田山を読んで、なぜだか印象に残るくだりが、3回登った八甲田で2回であったという八甲田のぬし鹿内(しかない)辰五郎老の印象についてである。引用すれば、

「私はこの頂上に前後三回登り、二回は快晴に恵まれた。そして偶然二回とも八甲田のぬし鹿内辰五郎老にあった。日露戦争時代の下士官だったというこの名物男は、いつも軍装をして、胸に勲章をかけ並べ、右肩にラッパ、左肩に水筒といういでたちであった。笛を吹きながら登山者の先頭に立ち、いろいろな注意や説明を与え、頂上では陸軍のラッパ曲を吹く。自分で好んで八甲田山の案内人となってか五十年。この山のことなら地形でも植物でも知らぬものなしという篤志な爺さんである。もう八十は越えていよう。」

と。日露戦争が1904年だとすれば、1950年代に活躍した翁か。あの当時だったら居そうな人物で、にぎやかで静かな登山を愛する者にとってはいい迷惑だが憎めなかったのだろう。今なら、クマ除けの篤志家というところか。

 

八甲田 耳をすませば彼方より 翁のラッパ響き渡れり

 

MAYSONG

(深田百名山登頂の思い出より抜粋)

八甲田山は、1984年から4年間滞在した青森県八戸の山岳会のホームグランドにしていた山域で、厳冬期を除いて月1日ペース、残雪期の春山は、週末にはテントを張つて下手なりにスキー三昧で過ごした。

 

残雪に描きしシュプール顧みつ 暮れ色に染む 春・八甲田

 

 

     

               Wikipediaより

 

 

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深田久弥・太宰治・宮澤賢治の重なり具合

2022-11-08 17:59:29 | 日記

 久々に深田さんの百名山を読み進めていたら、津軽平野に聳える岩木山の章で、深田さんは太宰の「津軽」書かれてある岩木山の表現が「見事」だとして引用している。

このまったく「資質」の異なる作家同士ではあるが、深田さんは太宰よりも長く生きたのだから太宰の作品の文学的素養と国民的人気を熟知したうえで太宰を引用したのだろう。

後で触れるが、深田さんは岩手山の章で賢治さんの詩「岩手山」も引用しているが、深田さんと賢治さんもまったく「資質」の異なる文学者同士だが、深田さんは賢治さんよりさらに長く生きたのだから、賢治さんの詩人や童話作家としての国民的、いや国際的な評価の拡散をを目の当たりにしていたのだろう。

賢治さんは、高村光太郎さんらの功績もあって死後急速に評価が上がったのは周知のことだが、太宰全集の月報を読んでいたら、賢治研究家として著名な天沢退二郎さんが太宰が賢治童話を読んでいたということに触れており、このまったく「資質」の異なるもの同士も作品を通して重なり合うところがあったので面白い。

ただし、賢治さんが太宰の作品にはまったく目を触れてはいないだろう。亡くなった昭和8年には、まだ太宰が文壇デビューとはいかなかったのだろうし、詩人と小説家というジャンルの違いもあっただろう。ただ、東北の裕福な家庭に育ち、その「家」との確執が文学的覚醒をもたらしたという共通点はある。

 

ちなみに、この三人、誰が先輩で、誰が誰の後輩なのか、疑問が湧いたので整理してみた。

① 深田さん 1903年(明治36年)3.11~1971(昭和46年)3.21 享年68才

② 太宰さん 1909年(明治42年)6.19~1948(昭和23年)6.13 享年38才

③ 賢治さん 1896年(明治29年)8.27~1933(昭和8年)9.21  享年37才 

賢治さんが、深田さんの7つ先輩、太宰さんが深田さんの6つ後輩ということになろうか、ほぼ同時代の人々でまったく資質も体力も向かった方向も異なったヒトビトだが、オイラはこの3人が3人ともに愛着がある。たまらなく懐かしい明治から昭和を輝いたヒトビトたちだ。

 

     

     

秋の深まりとともに、トチの木もオオモミジの木々らも輝きを見せている。(野草園)

 

 


深田百名山MAYSONG  10 岩木山

 

【深田百名山を読んで】

(百名山本文の一部引用)

弘前から眺めた岩木山は津軽富士とも呼ばれるだけあって、まことに見事である。

(中略)

私は北側から見た岩木山を知らない。幸い太宰さんの長編『津軽』の中に、その見事な描写があるから、それを借りることにしよう。

「や!冨士、いいなあ、と私は叫んだ。冨士ではなかった。津軽富士と呼ばれている岩木山が、満目の水田の尽きるところに、ふわりと浮かんでいる。実際、軽く浮かんでいる感じなのである。したたるほど真蒼で、富士山よりもっと女らしく、十二単衣の裾を、銀杏の葉をさかさに立てたようにぱらりとひらいて、左右の均斉も正しく、静かに青空に浮かんでいる。決して高い山ではないが、けれども、なかなか、透きとおるくらいに嬋娟たる美女ではある。」   *嬋娟(せんけん)=あでやかでうつくしいこと

 

石坂も太宰も望みしお岩木を貴(あて)に浮かべる津軽ののづら

 

【MYSONG】

(深田百名山登頂の思い出より引用)

1961年に9合目まで伸びる津軽・岩木スカイラインが開通し、リフトもつくられ、いまや40分足らずで山頂に達することができる山となっていて、大衆登山をきらった深田さんなら苦言をまくしたてたのだろうが、「日本百名山」には、その記載がない。「岩木山」の項を書いたころ(1959年「山と高原」)にはまだスカイラインが開通していなかったからのだろう。

深田イズムの後輩(と勝手に思っている身)としては、秀麗な岩木山は、もう眺めるだけの山で終わるかもしれない。青森に行ったら、足は八甲田や白神方面に向かうのだろう。

 

金木行 津軽電車の窓に入る 山という字のお岩木 真蒼(まさお)

 

    

       r.f

 

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映画「愁いの王」宮澤賢治

2022-11-05 14:30:40 | 日記

街路樹が色づき始めた10月最後の日曜日、いまは「奥州市」という名の街になった水沢の文化会館で映画

「愁いの王-宮澤賢治ー」を鑑賞する。賢治さんの来歴と思想に忠実であろうとしながら、詩的に作り上げられた二部構成3時間18分の超大作。

キャスト・スタッフは岩手県民、岩手の言葉、台詞は字幕、モノクローム、音楽はバッハという盛岡在住の吉田重満監督のこだわり満載という触れ込みだったので、「暗く、退屈で前衛的ゆえに眠りを誘う」のではないかとの危惧をもって見始めたが、3時間という時間は、迫真に迫り、ある種の緊張を覚えながら瞬く間に過ぎた。

賢治さんの人生そのものが良質な「物語」なので、どんなに前衛的手法を凝らしても年譜と作品に忠実であれば、鑑賞者を賢治ワールドに引き込んで虜にしてしまうのだろう。(オイラは、賢治さんの最高傑作が「年譜」だと確信している。)

この作品は、生涯独身で逝った賢治さんを取り巻く「女性」として、妹の宮澤トシ、羅須地人協会の高瀬露(つゆ)、伊豆大島の伊藤チエを登場させ、賢治さんの最後の思いのひととして、伊藤チエにスポットライトを当てているが、これがファクトかファンタジーか、少し気になった。調べてみよう。

秋のたそがれ、会場を後に水沢駅に歩きながら、

賢治さんの年譜と作品をもっと読もう、

賢治さんと父親の確執となった法華経と浄土真宗をもっと知ろう、

賢治さんの経筒が眠る「経埋ムベキ山」をもっと歩こう。

 

という気になった。吉田監督いい作品をありがとう。

 

映画「愁いの王ー宮澤賢治ー」HP

 


深田百名山の歌

9 後方羊蹄山(しりべしやま)

深田百名山から

この山を単に羊蹄山(ようていざん)と略して読むことに私は強く反対する。

羊蹄(ようてい)と呼ぶなと語気を強めらる後方羊蹄(しりべし)今日雪に染まりし

 

MAYSONG

記憶と記録が乏しいが、深田さんと同じように比羅夫側の俱知安コースを登ったのだろう。なぜ、記憶が乏しいかといえば、深田さんと同じようにただ登り一方で単調だったこと、山頂付近がガスっていて何も見えなかったことなのかもしれない。山頂火口を1周した記憶もあいまいなので情けない。

眺めて美しいコニーデの山は、富士山も含めて若い時はあまり魅力を感じていなかったかもしれない。が、このような単調な登り一方の山は、忙しい日帰りではなく、山頂避難小屋に泊まって、じっくりと山の霊気を感じ、朝晩の光の織りなす光景を目の当たりにすれば、まったくちがった感動を味わえたのかもしれない。(2021.9.14ブログより 抜粋)

 

樺の枝を掴み登りし後方羊蹄(しりべし)の霧のカルデラ歩み速めつ

 

      

          ライセンスフリー

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