携帯電話に、いとこの奥さんから電話が入り、作業は昼までということにさせてもらって、早帰りをさせてもらった。
20年間も闘病生活をしていたいとこが、本日の早朝に亡くなったという知らせ。
いとこが53歳の時から72歳になるまでの20年の間、入院しているいとこのもとに、電車やバスを乗り継いで通い続けたいとこの奥さん。
本当に、本当に大変だったろうと思う。
棺の中のいとこの顔は、やせこけていて、末期の闘病生活の大変さを物語っていた。
昨年の暮れ頃に危篤状態になったこともあったということだったが、持ち直して本日の朝までの命をいただいていた。
船乗りをしていた頃のいとこは、たまに外洋から帰ると、珍しいお土産を持って尋ねてくれていた。
鯨肉の塊を持って来てくれた時の事を良く覚えている。
私が子どもの頃に、私より14歳年上のいとこが、お土産に持って来てくれた大きな鯨肉の塊を見て、父がとても喜んでいた場景が思い出される。
心優しい人だった。
闘病生活を支え続けてくれた、いとこの奥さんや家族のご苦労は計り知れないほど大変なものではあったろう。
先に逝った親類縁者の人たちと、苦痛の無い黄泉の国で、ゆったりと過ごしてほしい。
いとこの訃報という悲しい知らせがあった日だったが、嬉しい便りが届いていた日でもあった。
南無阿弥陀仏。
豊田一喜
20年間も闘病生活をしていたいとこが、本日の早朝に亡くなったという知らせ。
いとこが53歳の時から72歳になるまでの20年の間、入院しているいとこのもとに、電車やバスを乗り継いで通い続けたいとこの奥さん。
本当に、本当に大変だったろうと思う。
棺の中のいとこの顔は、やせこけていて、末期の闘病生活の大変さを物語っていた。
昨年の暮れ頃に危篤状態になったこともあったということだったが、持ち直して本日の朝までの命をいただいていた。
船乗りをしていた頃のいとこは、たまに外洋から帰ると、珍しいお土産を持って尋ねてくれていた。
鯨肉の塊を持って来てくれた時の事を良く覚えている。
私が子どもの頃に、私より14歳年上のいとこが、お土産に持って来てくれた大きな鯨肉の塊を見て、父がとても喜んでいた場景が思い出される。
心優しい人だった。
闘病生活を支え続けてくれた、いとこの奥さんや家族のご苦労は計り知れないほど大変なものではあったろう。
先に逝った親類縁者の人たちと、苦痛の無い黄泉の国で、ゆったりと過ごしてほしい。
いとこの訃報という悲しい知らせがあった日だったが、嬉しい便りが届いていた日でもあった。
南無阿弥陀仏。
豊田一喜