川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

内田雄造さん 

2011-12-22 07:43:39 | 友人たち

12月21日(水)☼

 今日も寒い一日です。勝義さんと精さんが編集中の「きいちご」の原稿を送ってくれたので校正のため目を通しました。お二人の仕事はいつもの通り丁寧そのものです。28日には「きいちご」9号が印刷所から届くそうです。移動教室に参加してくれた人々にお正月に届くように発送できるでしょう。

 午後、今年1月26日に急逝された内田雄造さんのお連れ合いの良子さんからハガキが届きました。心に深く残る文章です。勝手ながら紹介します。

 (略) 人を愛し、読書を好んだ雄造は、60年代後半大学院生の時に東大闘争に参加し、抵抗の都市計画運動がライフワークとなりました。住民サイドにたったまちづくりを志して現地での実践と大学での教育・研究の両面から地道に取り組んで参りました。

 ここ数年、力を注いだ中越地震の被災地・旧山古志村の復興再生計画では、「帰ろう 山古志へ」を合い言葉にした住民の方々と共に復興に取り組み、希望者全員の帰村を果たすことができました。

 結婚以来40年余、暮れのこの季節は雄造が版木に向かい、年賀状の干支の図柄を彫っているのがわが家の風物詩でした。その姿をもう見ることができなくなってしまい、寂しさもひとしおです。(略)

旧山古志村の大工とワークショップしたときの様子。右側が内田さん(写真:アルセッド建築研究所)

 (内田雄造さん。旧山古志村の大工さんたちと。一番右側の人です)

 出典●「復興住宅と内田雄造先生」http://kenplatz.nikkeibp.co.jp/article/knp/column/20111128/555717/

 妻との出会いがあり毎年年賀状をいただいておりました。僕は何度か、挨拶をしたことがあるだけです。

 川越にある東洋大学(工学部)の先生で土佐市戸波の都市計画に尽力され、近くは川越の都市計画にも関わっておられました。

 残念なことにきちんとした出会いがないままでした。奥さんのハガキを読んで「そうだったのか」と思うばかりです。

 大島高校の教員3年目の1968年、東大闘争の記録を読んで僕は大きな影響を受けました。「学問とは‥、学校とは‥教師とは‥」。悩みのただ中にいたものに一条の光、ヒントを与えてくれたのです。中でも大学院都市工学科の人々の真摯な思想的営為に深く共感したのではなかったか‥。

 69年4月、池袋商業高校に転勤して以来の僕のあゆみは珍しく極めて自覚的なもので、それは東大を中心とする全共闘の思想的影響を抜きにはありえないことでした。

 内田さんはまさにその闘いのただ中で生き抜いた方だったのですね。同い年ですが僕に深い影響を与えてくれた恩人の一人だったということです。

 土佐市戸波(へわ)を通るときには内田さんを思い起こしていました。山古志村はこの8月に初めて金倉山から遠望しただけですがここにも内田さんの働きがあったのですね。 

   ●http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/c36f058c60b60c06bdf5ae0e5bbf5e39

 葬儀では山本義隆さん(元東大全共闘議長)の弔辞があったとのことです。

   ●http://blhrri.org/news/blhrri_news/379/379_topics_005.html

 生涯を通じてどういうことをされてきたのか、もう少し知りたいと思い始めました。同じ時代を生きた大切な方を喪いました。みじかにおられたのに交友を結べなかったことがまことに残念です。(合掌)