川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

ヒシの実

2011-12-17 15:57:48 | 出会いの旅

新潟の福島潟はガンの仲間の大ヒシクイが越冬することで有名だと知りました。「ビュー福島潟」で見た実物大の模型は結構大きく、羽を広げると170cmもあるということです。カムチャッカ半島からわたってくるそうです。

 ヒシの実が大好きなので「ヒシクイ」だとか。何も知らなかったなあ。ところで「ヒシ」って?「ヒシの実」って?妻に教えてもらいました。

          (ヒシ)

                 

 (ヒシの実)

出典●http://www.mitene.or.jp/~kakoya/p/hisi.html

 菱形(ひしがた)というのはヒシの実の形から来ているのですね。殻が硬いけれどクリのような美味しさがあるといいます。アイヌは菱の実を「ペカンペ」と呼び食料にしたそうです。

 ヒシの実採り●http://www.youtube.com/watch?v=pjfJzZodfGk


新潟 水辺三昧

2011-12-16 07:05:07 | 出会いの旅

12月12日(月)☂

 10時前新潟着。雨。レンタカーで北方文化博物館(豪農の館)を見学したあと、阿賀野川の岸辺をゆっくり遡る。水量の豊かな川である。途中、流れの傍にまで降りてその景観に見とれた。

 

  

今宵の宿のある咲花温泉の対岸にある川下りの舟の乗り場で若い船頭さんの話を聞いた。埼玉・越谷の出身だという。この辺は夏に水害に見舞われ、川下りのコースもまだ完全には復旧していないらしい。「菅名岳」という酒に関わる話が印象に残った。

 毎年「寒九の水汲み」に多くの人が参加する。寒さの厳しくなる「寒の入り」から九日目に菅名岳に登り「どっぱら清水」を清酒「菅名岳」の仕込み水にするために運び出すのだ。一人が20リットルを背負うという。楽な仕事ではないがこれに参加した人に「菅名岳」を味わう権利が生ずるらしい。

 

13日(火)☼

 朝から快晴。碧水荘は阿賀野川の水辺に建つ。水害から復旧したばかり。その庭で。

 

  

瓢湖(ひょうこ)

ちょうど餌をやる時間だった。カモの群れが盛り上がる。

シベリアからやって来た白鳥の姿があちこちの田んぼに見られた。稲の根っこを掘って食べるのだという。

 

  

福島潟

後ろに見えるのは飯豊(いいで)連峰か。展望台も水辺の散歩も心に残る。こちらにはオオヒシクイが滞留している。冬の新潟にこんないいところがあった。春にも来てみたい。

たんぼに描かれた絵の原画は小学生の作品

    

 

 

 


北朝鮮帰国者新潟港追悼集会(続報)

2011-12-15 08:44:20 | 韓国・北朝鮮

12月14日の「第3回あの日を忘れない新潟港追悼集会」の冒頭で李敬宰さんが次のような追悼の言葉を述べました。

 

追悼のことば

 一九五九年十二月十四日は、九七五人の在日朝鮮人および日本人妻らが乗った最初の帰国船が新潟港から北朝鮮に向けて出港した日です。あれから五十二年の歳月が流れました。

 あの日、新潟港から希望に燃えて北朝鮮に移住した帰国者たち。しかし、行った先は人間の住める国ではなかったのです。北朝鮮政府から最下層の身分に指定され、特別監視のもとに置かれました。強制収容所で亡くなった人や処刑された人は万単位の数に達すると推定されます。

 日本国籍を持っているのに北朝鮮公民とされた日本人妻のほとんどは、日本に帰る願いがかなわず異国の地で死去しました。日本人妻の遺言は「頭を日本海のほうに向けて埋葬してほしい」というものだったといいます。

 日本に残った帰国者の家族も帰国運動の犠牲者です。肉親が北朝鮮に囚われの身となり、帰国者を「人質」にした北朝鮮政府から数々の脅迫を受けたからです。北朝鮮への怨念を抱えたまま「憤死」した在日コリアンは多数にのぼります。

 これらの膨大な数にのぼる死者たちの霊は、いまだに安らぎの時を迎えられてはいません。

 私たちは、北朝鮮帰還事業開始から五十二年目のきょう、新潟港において「第三回『あの日を忘れない』新潟港追悼集会」を挙行し、帰国運動の犠牲者の霊の平安を祈るとともに、今も北朝鮮に幽閉されている帰国者全員の解放をめざすことを誓います。

                                                           二〇一一年十二月十四日

 

残留邦人らの救出訴え 北朝鮮帰還事業52年

2011.12.14 20:45 産経
北朝鮮帰還事業の開始から丸52年を迎えて開かれた追悼集会で、献花し手を合わせる脱北した日本人妻、斎藤博子さん=14日、新潟港

北朝鮮帰還事業の開始から丸52年を迎えて開かれた追悼集会で、献花し手を合わせる脱北した日本人妻、斎藤博子さん=14日、新潟港

 在日朝鮮人ら約9万3千人が北朝鮮へ渡った帰還事業の開始から丸52年となる14日、最初の船が出港した新潟港(新潟市)で、亡くなった人々を追悼する集会が開かれ、脱北した日本人妻らが現地に取り残された日本人や拉致被害者の救出を訴えた。

 集会に参加した大阪府の斎藤博子さん(70)は、昭和33年に地元・福井県の工場で働いていた在日の男性と結婚。36年に夫とともに乗船した。在日本朝鮮人総連合会から「北は地上の楽園で、いい生活ができる。3年で日本に帰れる」と聞かされていた。

 わずかな食料でしのぐ生活の中、平成5年に夫が病死。13年に脱北したが、残してきた娘の1人は餓死したという。

 帰還事業で日本人妻約1800人も北朝鮮へ渡航。斎藤さんは集会で「高齢化が進み、もう時間がない」と涙ながらに日本人らの帰国支援を訴え、献花した。

 出典●http://sankei.jp.msn.com/region/news/111214/ngt11121420470006-n1.htm

  

  (斎藤博子さん)

日本への帰国を果たせぬまま亡くなった帰還者らに献花=14日、新潟市中央区

新潟西港で北朝鮮帰還者の追悼集会

 北朝鮮帰還事業の第1船が新潟を出港してから52年となる14日、北朝鮮で亡くなった日本人妻らを追悼する集会が、新潟市中央区の新潟西港中央埠頭(ふとう)で開かれた。関係者ら約30人が参加、今も北朝鮮で暮らす人の救出に向けた誓いを新たにした。

 脱北者支援など人権問題に取り組む「移民政策研究所」(東京)が主催。帰還事業は1959年から84年まで続き、日本人妻約1800人を含む計9万3千人が日本海を渡った。

新潟日報2011年12月14日

出典●http://www.niigata-nippo.co.jp/news/pref/30219.html

 


北朝鮮帰国者新潟港追悼集会(速報)

2011-12-14 21:49:30 | 韓国・北朝鮮

新潟から帰ったばかりです。NHKで「第3回あの日を忘れない新潟港追悼集会」の様子が報道されたようです。

 

北朝鮮「帰還事業」で追悼集会

12月14日 17時7分 動画あり twitterでつぶやく(クリックするとNHKサイトを離れます)

在日韓国・朝鮮人と日本人の妻たちが北朝鮮へ渡った「帰還事業」が始まって、14日で52年がたち、日本に戻ることもなく亡くなった人たちを追悼する集会が新潟で開かれました。

昭和34年から昭和59年まで25年間続いた「帰還事業」では、在日韓国・朝鮮人と日本人の妻たち9万3000人が北朝鮮に渡りました。その多くは、当初「地上の楽園」と宣伝されていた北朝鮮に、憧れを抱いて渡ったものの苦しい生活を強いられていたと言われています。14日の集会は、北朝鮮行きの最初の船が出航した新潟港で開かれ、日本へ戻ることのないまま亡くなった人たちの遺族など40人が参加しました。集会ではまず、在日韓国人の男性が「多くの人が希望に燃えて移住したが、人の住める国ではなかった。犠牲者の霊の平安を祈ります」と述べ、亡くなった人を追悼しました。続いて北朝鮮から逃れる、いわゆる脱北をして現在、日本に住んでいる70歳の女性が、今も多くの日本人妻が北朝鮮に残されているとして一刻も早く帰国させたいと訴えました。集会の主催者で、脱北者を支援している団体の坂中英徳代表は「北朝鮮に渡った日本人妻1800人余りのうち、まだ数百人は生きていると思う。北朝鮮に閉じ込められ、帰りたいと願っているのは拉致被害者と同じで、一緒に解決すべきだ」と話していました。

 出典●http://www3.nhk.or.jp/news/html/20111214/k10014636751000.html

 こちらの方では映像と音声が視聴出来ます。

 


北朝鮮帰国者新潟港追悼集会

2011-12-12 04:22:16 | 韓国・北朝鮮

今日はこれから家族3人で新潟に向かいます。14日の集会に参加するのが目的です。その前に冬の新潟を体験するのが恒例になりました。14日に帰ります。ご都合の付く方がおられたら新潟港で会いましょう。当日夕刻以後のNHKなどの報道にも注目してください。

 北朝鮮への「帰国船」第一船が出て14日は52年になります。来春には何としても日本人妻・残留日本人の帰国を実現する決意でこの集会をやります。

12日(月)川越~大宮~(新幹線)~新潟  新発田(しばた)城址 福島潟 瓢(ひょう)湖

  

                                     (泊)咲花温泉・碧水荘●http://www.hekisu12日isou.jp/sisetu.html

13日(火) 阿賀野川・新潟平野あちこち           (泊)寺泊岬温泉・ホテル飛鳥●http://www.hotel-asuka.jp/

14日(水)1時30分~2時30分 

   「第3回あの日を忘れない!12・14新潟港追悼集会」(新潟港中央埠頭)

1 開会宣言    

2 追悼式

(1)追悼の辞                      

(2)北朝鮮に残された日本人妻の一刻も早い帰国を訴える 日本に帰国した日本人妻

(3)遺族代表あいさつ             坂中英徳(移民政策研究所所長) 

(4)追悼法要                 若麻績敬史(善光寺・平和を願う僧侶の会)

3 日本政府への要請文の発表

4 献歌 朴保  

      田月仙http://www.youtube.com/watch?v=i2vfGAQdNxI

5 閉会

 

 第2回追悼集会●http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/5db0ed79788529b8dff4b31bae1fdc18


松本市長「原子力災害と放射線被曝」

2011-12-11 08:33:59 | 自然と人間(震災・津波・原発事故)

12月10日(土)☼

 小春日和。狭山のララミーハム・えび善に惣菜(コロッケ・メンチカツ・ハンバーグなど)を買いに行くことにした。

 富士山が正面遠くにそびえる川越・狭山自転車道。快適そのもの。えび善の米沢くんは忙しく立ち働いており挨拶を交わすのがやっと。

 土曜の昼前で来客が絶えないようだった。

 惣菜を手土産に「石橋農園」に寄り、一時ごろには新河岸の曼荼羅についた。ここで昼食。

 海上保安官だった方との出会いがあった。海洋の情報収集が仕事だったらしい。海洋資源の放射能汚染について聞いてみた。

 今現在は食物連鎖の上位にあるカツオなどの大型魚の汚染が憂慮されるとのことだった。

 あれだけの死の灰が降り注いだのだ。鮪やカツオが無事であるはずがない。マスコミが黙り込んでいるのはなぜだろう?

 1954年のビキニでの核実験がもたらした原爆マグロを思い出す。

 海で起きている異変にきちんと目を向けていかなければと思う。

 

 松本市の「広報」に菅谷市長の講演記録が載っているのを知った。チェルノブイリでの医療活動で体験した事実に基づいた話がわかりやすい言葉で語られている。市長とはかくあるべきである。

 非常の時に自分の所信をしっかりと表明して市民と共にこの危機を乗り越える決意をしめす。それが大事だ。市の広報誌はそのためにある。

  

  菅谷昭松本市長「原子力災害と放射線被曝ーチェルノブイリ事故医療支援の経験を通じて」

  広報まつもと●http://www.city.matsumoto.nagano.jp/koho/koho/2011/20111201/files/P1-P11.pdf


ギャラリーハン・関貞子さん 秋葉街道の旅⑤

2011-12-10 04:48:09 | 在日コリアン

11月12日(土)☼

 浜松からの帰りに富士川をさかのぼり山梨県富士川町を訪ねることにした。『楽園の夢やぶれて』の著者・関貴星さんの長男・勇さん夫妻がこの町の平林というところでギャラリーを開いていると聞いたからだ。

 川越だより『楽園の夢やぶれて』●http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/08a5feabc4936862749c88a83c4b460a

  国道52号から県道413号をどこまでも走る。櫛形山の麓に「ギャラリー・ハン(ハングル表記)」はあった。

 聞いてはいたが目前に見える富士の姿は見事だ。

 

  大きな古民家がそのままギャラリーで「衣類・陶・漆・雑貨」が展示してある。その様子は次のHPでゆっくりご覧になってください。東日本大震災以来訪れる人がめっきり減ったとか。ちょっと遠いけれど別天地にある静寂そのもののギャラリーで過ごすひとときは贅沢そのものだ。

 ギャラリー ●http://galleryhan.moo.jp/gyararihan/Photos.html#35

 

 勇さんのお連れ合い・貞子さんがもてなしてくれた。義姉にあたる呉文子さんがいつになるかわからない私たちの訪問を予告しておいてくれたらしい。

 

 勇さんは一族の祭祀でお父さんの故郷(韓国)を訪問して今日帰る予定だという。初めてお会いするにもかかわらず、午後の時間をたっぷりとって義父にあたる貴星さんに関わる話をあれこれと聞かせてもらった。

 同居して「長男の嫁」を務めていた時期もあるのでその苦労は並大抵なものではなかったろうと思われるが、貞子さんの話は義父への尊敬の念と愛情が伝わってくるものだった。

 メモ① 『楽園の夢破れて』が出版(1962年)されて以来、関さんを訪ねてくれる友人・同胞は一人もいなくなり、「よくやってくれた」と言われたことは皆無だ。それでも関さんは同胞あての年賀状を出し続けた。宛名書きは貞子さんの仕事だった。

 貴星さんは86年に死去した。近年(97年)、「北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会」が『楽園の夢やぶれて』(亜紀書房)を復刻・再出版してくれ、多くの人に読まれるようになったことを草葉の陰で喜んでいることだろう。

 メモ②貞子さんはあるとき姑に呼ばれ「(関さんは)金庫に青酸カリを保管してある。このことは誰にも言ってはならない」と告げられた。朝鮮総連から「反動」「民族反逆者」などと攻撃を受け、友人は離れ実の娘を義絶していた頃のことである。酒量が増えていただけではなかった。どういう事態に備えていたのか?

 孤立無援のただ中でも筆をおることができなかった人の「組織」との壮絶な戦いの姿を想像して尊敬の念を新たにした。

 来年は『楽園の夢破れて』が出版されて50年になる。あの時「北」にわたった多くのコリアンや日本人妻はどうなっているというのか。問われているのは私たち一人ひとりだ。

 ギャラリーを開いて様々な人との交流を重ねるようになって貞子さんの精神世界にも大きな変化があったようだ。まるで娘のように生き生きと「在日コリアンの生き方」についても語り始めた。

 今度は友人たちを誘って訪ねようと思った。4月の下旬頃か、花の頃はさぞ見事だろう。

 

関連記事「呉文子さんと『楽園の夢破れて』」●http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/67e362063adafefcbc825d41149888aa

 

 

 

 

 


手術から6年が経ちました。

2011-12-09 09:10:35 | 父・家族・自分

05年12月9日、癌研有明病院で左肺全摘手術を受けました。執刀は中川健先生。あれから6年が経ちました。

2年後に癌は右肺に転移し抗がん剤治療。今年8月からは新しい抗がん剤イレッサの服用を始めました(肝機能障害が見られるため現在休薬中)。進行性肺がんを治癒させる方法はなく抗がん剤頼みです。

 抗がん剤の副作用の後遺症のため脚のしびれは取れません。片肺になりましたからできないこともたくさんあります。

 しかし、お陰様で日々を安穏に送っています。

 手術後も傷の痛みに苦しめられたことはただの一度もありません。中川先生にただただ感謝あるのみです。

                   病院長 中川 健

       出典●http://www.jfcr.or.jp/hospital/about/message.html

 家族をはじめ知友の世話になり心の方も安定しています。本当にありがたいことです。

 これからも一日一日ただ生きていくだけで社会の役には立ちそうもありませんが皆さんが見捨てないで付き合ってくださるようにお願いする次第です。

 僕に出来ることと言えば川越の周辺を案内することです。結構豊かな自然に恵まれています。原爆の図・丸木美術館は人として生きたいと願う人々の心をその奥深くで励ましてくれるでしょう。

 暇を作ってお出かけください。僕の一番の楽しみです。


破局への道、なぜ? 「大東亜戦争」開戦から70年

2011-12-08 08:28:00 | 政治・社会

「大東亜戦争」の開戦から70年が経った。このとき僕は生後4箇月あまりの赤ちゃんだったが、もう10年早く生まれていたら立派な?「少国民」になっていたに違いない。

 開戦の日のラジオ放送に心を躍らせていたことだろう。

 「日本ニュース」「蹶起(けっき)せよ 全国民 東條首相決意闡明(せんめい

http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300464_00000&seg_number=001

 

 日本の指導部はなぜ勝つ見込みのない無謀な戦争に突入していったのか?

 「毎日新聞」の栗原俊雄記者の記事(12月4日付)を読んだ。いい勉強になった。読者はどう思われるだろう。やや長いが以下に紹介します。

 栗原さんは1986年3月、都立文京高校卒で1995年母校で教育実習をされた。文京に異動したばかりの僕が「指導教諭」になった。「毎日新聞」の記者になったあともしばらくは交信があったが近頃はもうすっかり忘れていた。記事を読み終わったあとで思い出す始末だ。(ゴメンナサイ)。

 学芸部の記者になってシベリア抑留者問題などにも健筆を振るってきたらしい。ゆっくり話を聞かせてもらう機会が出来るかな。

    Original

  出典●http://www.fujisan.co.jp/yomimono/articles/4064

 

 

   日米開戦70年 運命の12・8 破局への道、なぜ

 日本軍がハワイ・真珠湾を奇襲して太平洋戦争が勃発してから、8日で70年を迎える。終戦までの3年8カ月の間に、日本人だけで約300万人が命を奪われた。補償を求める裁判が続くなど、戦争は今日にまでつながっている。大日本帝国の政府、軍部とも、アメリカとの戦争に勝つことはできないと承知していた。ではなぜ、開戦に踏み切ったのか。また、引き返す道はなかったのか。12・8から70年を前に、検証したい。【栗原俊雄】

 ●分水嶺、三国同盟

 太平洋戦争に至った原因としては明治以来の大陸膨張政策や満州事変などさまざまな指摘がある。今回は平和と戦争の分水嶺(ぶんすいれい)の一つとなった、日独伊三国同盟(1940年)以降を中心にみてみよう。

 欧州で独伊の、アジアで日本の指導的地位を相互に認め、第三国(事実上アメリカ)との武力衝突の際は相互に軍事的支援を行う--これが三国同盟の内容だ。

 須藤眞志・京都産業大名誉教授(国際関係史)によれば「日本近代外交史上、最悪の選択」だった。「米国にとって最大の敵、ドイツと同じファシズムの国と認定されてしまった」からだ。井口治夫・名古屋大教授(日米関係史)も「フランスをあっという間に破ったドイツと日本が組めば、米国にとって脅威。日本は同盟を結ばず、その脅威をカードに対米交渉を続けるべきだった」と指摘する。

 なぜ同盟を結んだのか。山田朗・明治大教授(近現代軍事史)は「第二次世界大戦初頭のドイツの華々しい勝利で日本、特に軍部は幻惑された。イギリスを屈服させられると信じた」と解説する。ドイツ勝利でアジアにおける植民地再分割に参加できる、との期待があった。

 また、時の松岡洋右外相は、同盟で対米交渉を優位に進めようとし、ソ連を含めた4カ国同盟も想定していた。だが独ソ開戦で、松岡の構想は空中分解する。

 ●独頼みの戦争構想

 日米間には圧倒的な国力差があった。独力で米国を屈服させることは不可能と、当時の日本政府、軍首脳とも承知していた。では、どのように戦争を構想したのか。

 開戦直前の41年11月15日、大本営政府連絡会議で「戦争終結構想」が決定された。主な内容は(1)南方作戦で戦略的自給圏を確保する(2)中国の蒋介石政権への圧力を強める(3)独伊と連携し英国を屈服させる(4)それによって米国の戦意を失わせ、講和に持ち込む--といったものだ。対英戦争の主力は独軍だが、海軍力に乏しく、英軍を屈服させられるかは未知数。実現しても、それで米国が戦意を失うとは限らない。仮定の上に仮定を重ねた空想のような「戦争構想」で、日本は戦争へと進んでいく。

 ●仏印進駐が「引き金」

 日本の中国侵略に対し、米国は対日経済制裁を強めた。日本はさらに40年9月23日、フランスの植民地だった北部仏印(現ベトナム北部)に進駐。すでにフランスはドイツに敗北しており、日本にとっては石油など戦略資源が豊富な南方を獲得する好機だった。英米などによる蒋介石政権への支援物資補給路(援蒋ルート)を断つ目的もあった。

 これに米国は、くず鉄など戦略物資の禁輸で応じた。日本は翌年7月2日の御前会議で、南進を優先し、状況に応じ北進(対ソ戦)することを決めた。一方米国は、在米日本資産を凍結してしまった。

 それでも同月28日、日本軍は南部仏印に進駐し、米側は対日石油輸出を全面的に禁止。日本の政府、軍首脳は、これを全く予想していなかった。

 当時、日本は石油の大半を米国からの輸入に頼っており、打撃は大きかった。軍部の見立てでは石油備蓄量は2年分しかなかった。オランダの植民地だった蘭印(現インドネシア)からの輸入交渉も、うまくいかなかった。

 「日本側は、北部と南部ではたいした違いがないとみていた。ところが米国にとっては南部進駐で(アジアにおける米軍の拠点)フィリピンが脅かされると感じた」と、等松春夫・防衛大学校教授(政治外交史・戦争史)。米国はこの時点で対日戦を決意した、とみる研究者が多い。

 ●「開戦決意」御前会議

 国策については、政府や統帥部(陸軍参謀本部、海軍軍令部)首脳による「大本営政府連絡会議」で話し合い、その決定は天皇が臨席する御前会議で裁可された。会議では、天皇は発言しないのが習わしだった。

 だが9月6日の御前会議で天皇は、明治天皇の和歌を読み上げた。「四方(よも)の海皆同胞(はらから)と思ふ世になど波風の立ち騒ぐらむ」。「避戦」のための、異例の発言だった。

 だが、この日決定された「帝国国策遂行要領」には、10月下旬をめどに対米英蘭戦争の準備を完成させること、とある。また外交を進める一方、10月上旬ごろまでに要求貫徹のめどが立たない場合は「直ちに開戦を決意」することを決めた。戦争への、大きな前進--。

 天皇の発言について戦中派の作家、五味川純平は後に「詩歌は感傷的感慨の表現手段でしかない」「朕(ちん)は戦争を欲せず、と言ったらどうであったか」と嘆息している。

 ●「切り札」東条内閣

 対米交渉の鍵は中国撤兵だった。だが東条英機陸相ら陸軍強硬派は「多大な犠牲を払った中国から撤兵できない」と猛反対。日米交渉の見通しを失った近衛文麿首相は、内閣総辞職を選ぶ。

 内大臣の木戸幸一は、後任首相として東条を天皇に推薦。陸軍ににらみがきく者を首相に据え、強硬派を抑える狙いだった。天皇は「『虎穴に入らずんば虎児を得ず』だね」と応じた。すでに米国という虎の尾を踏んでいたことに、日本の為政者は気づかなかった。

 天皇は東条に、9月6日の決定を白紙に戻すように指示。東条は国策の変更を模索するが、国家が平和へとかじを切り直すことはなかった。

 天皇が戦争回避を望んでいることを知った統帥部は、説得工作を進める。兵器や船舶確保の見通しについて具体的データを示し、対米英戦争は可能、とした。天皇は説得された。

 山田教授は「甘い見通しだったが、軍官僚たちも安心材料が欲しかった。自分たちが作ったデータを信じるようになり、催眠術にかかったように『何とかなる』と思い込んだ」とみる。11月5日の御前会議で対米英蘭戦争を決意し、「武力発動の時期を12月初頭と定め」た。ただ、対米交渉が同月1日午前0時までに解決すれば、武力発動は停止することが確認された。

 ●拒否できぬ海軍

 対米戦は、海軍が「ノー」と言えば始められない。自らの意思で「避戦」を貫くことのできない近衛や、陸軍の一部も、それに期待した。だが及川古志郎海相は「戦争をするかしないかは政府の決めること」と判断を回避。永野修身・軍令部総長はより強硬な対米開戦論者だった。

 井上寿一・学習院大教授(日本政治外交史)は「海軍は対米戦を想定して軍備を拡張してきた。いざという時『戦えない』とは言えなかった」とみる。現代史家の秦郁彦氏も「時がたつほど国力の差が出てしまう。石油も心もとない。やるなら今、ということだった」と解説する。

 井上教授は「軍部に複雑な国家運営を任せるのは無理。また明治憲法体制下では天皇親政は否定されている。本来なら政党が責任を果たすべきだった」と指摘する。だが2大政党、政友会と民政党は、腐敗や政争のため国民の支持を失った。さらに大政翼賛会に参加するため、解党してしまった。「権力の核が陸軍と海軍、外務省などに細胞分裂のように広がり、誰も調整できないまま戦争に突き進んでしまった」(井上教授)

 ●ハル・ノート

 対米妥協を模索する東条内閣は、米側との交渉で11月7日に「甲案」を提示。主な内容は(1)日中間の平和が確立した場合、最大25年をめどに中国から撤兵する(2)仏印の進駐軍は、日中戦争の解決か極東平和の確立とともに撤兵する--だったが、事実上拒否された。さらに20日、乙案(日本が仏印以外の南東アジア、南太平洋地域には進駐しない代わりに米側は日米関係を資産凍結以前に戻す)を提示した。中国撤兵問題という懸案を棚上げするものだ。この時点で日本政府は、これを切り札かつ最終案と認識していた。

 米側は結果的に「ハル・ノート」で応じた。主な内容は(1)中国、仏印からの撤兵(2)汪兆銘政権の否認(3)三国同盟の空文化。日本側の主張とかけ離れており、戦争を避けたがっていた東郷茂徳外相でさえ「もはや立ち上がるより外はない」と覚悟する内容だった。運命の開戦が決まった。

 アメリカ側にも誤算があった。「対日強硬派は弱者(日本)は強者(米)に立ち向かわない、と読んだ。『窮鼠(きゅうそ)、猫をかむ』という発想はなかった」(須藤名誉教授)のだ。現実の歴史では日本は直ちに立ち上がり、米軍は緒戦に大きな痛手を受ける。日米は互いに、相手の譲れない一線を読み違えていた。

 ●誤算続き、日米交渉

 井上教授は「日米間には開戦を不可避とするような対立点はなかった」とみる。ではどの時点なら、戦争への道を引き返せたのか。

 日米関係の改善のための交渉は41年4月から本格化し、野村吉三郎駐米大使によって日米「諒解(りょうかい)案」の内容が本国に伝えられた。日本政府は、それが米側の提案であると認識した。内容は(1)日本軍の中国撤兵などを条件として、米国が満州国を承認、日中和平交渉を仲介する(2)日米通商航海条約の実質的復活(3)米側は三国同盟を防衛的なものとして解釈し容認する--など。

 日本に大きく配慮した内容で、天皇は「我国が独伊と同盟を結んだからとも云(い)える、総(すべ)ては忍耐だね、我慢だね」と喜んだ。

 だが同案は、実は日米の民間人らが作成した試案だった。米側のハル国務長官の真意は(1)他国領土保全と主権尊重(2)内政不干渉(3)通商上の機会均等(4)太平洋の現状維持--との「4原則」で、日本の希望とはかけ離れていた。ただハルも、暫定案を交渉のたたき台として認めてはいた。

 ところが、頭越しの交渉を知った松岡外相が反発。日本政府の回答は遅れ、しかも松岡の意を受けてはるかに後退したものになった。諒解案は雲散霧消する。

 対米交渉に行き詰まった近衛首相は、米側にルーズベルト大統領との直接交渉を申し入れた。中国撤兵を約束し、あとで天皇の認可を得るというもくろみだった。

 しかし米側はこれを拒否。近衛の指導力、日本の外交そのものへの不信感もあった。須藤名誉教授は「近衛は天皇の許可を得ていた節がある。実現していれば、日米交渉は続いたのでは」と言う。

 日本の乙案提示後、米側は(1)民需用石油に限り禁輸を暫定的に3カ月停止し、その後は交渉次第で延長する(2)日本軍は南部仏印から撤兵する--という「暫定協定案」を用意していた。だが中国が強く反対。チャーチル英首相も同調し、結局提示は見送られた。スティムソン陸軍長官から、日本の大輸送船団がインドシナへ向け航行中であることを聞いたルーズベルト大統領が激怒したため、という説もある。東条は敗戦後、「あれ(協定案)が来ればなあ」と悔やんだという。

 ●避戦の可能性

 ハル・ノートが開戦につながる「最後通告(通牒(つうちょう))」だったかどうかは、当時から議論がある。外務省を退職していた吉田茂は「最後通牒ではない」と、東郷外相に交渉継続を訴えた。問題の中国撤兵も「事実上、満州は除外されていた」(井上教授)。秦氏も「中国からすぐに出て行けという内容ではない。国際情勢をにらみながら対応していれば、活路が見えた」と話す。

 真珠湾奇襲の直前、ソ連軍は独軍への反転大攻勢を始めていた。ハル・ノートをたたき台として交渉を続けていれば、独軍の苦戦が明らかになり、日本の戦略は足元から揺らぐ。日本は開戦に踏み切れなかったかもしれない。

 ●暴走の教訓とは

 70年前、破滅的な戦争へと突き進んだ歴史から、後世の私たちは何を学ぶべきだろうか。

 国策決定者たちは、自分たちに好都合な情報を集め、希望的観測を続けた。その結果、独ソ戦の勃発や米国による石油禁輸など「想定外」の事態によって、窮地に追い込まれた。彼らが戦争へと前のめりになる中で、避戦を模索し続けた者も、少数ながらいた。国家は、それをくみ取れなかったのだ。

 今年、東京電力福島第1原発の事故が発生。国策である原発推進の危険性を指摘する声は昔からあったが、生かされなかった。「原発は安全」という希望的観測は、「想定外」の巨大地震と大津波で崩壊した。

 国策決定者・組織は時に、取り返しのつかない判断ミスを犯すものだ。しかし、今昔のミスに違う点もある。

 開戦という国策決定には軍官僚や宮廷政治家ら、国民が選ぶことのできない者たちが大きな役割を占めた。当時、女性に参政権はない。国策に反対する言論の自由もなかった。

 戦後、国民の権利は増大した。国家を運営する官僚は選べないが、政治家と政党を選ぶことはできる。戦前に比べ権限が強化された首相も、間接的にではあるが選出が可能だ。

 それだけに、私たち選ぶ側の責任は大きい。戦争の惨禍で今も多くの人々が苦しんでいるように、選択失敗のツケは後世にまで累を及ぼすことを肝に銘じたい。

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 ◇「生きて帰れぬ」覚悟--真珠湾攻撃隊

 前田武さん(90)は空母「加賀」の97式艦上攻撃機(艦攻、3人乗り)の偵察員だった。艦攻は800キロの魚雷を抱いていた。

 真珠湾の深さは平均およそ12メートル。魚雷は投下すると50メートル程度潜るため攻撃は不可能だが、日本海軍は浅深度魚雷を開発した。さらに海面10メートルほどの低空から投下するため、搭乗員に猛訓練を課した。鹿児島湾などでの訓練は「土曜も日曜もなかった。嫌になるほど繰り返しやった」。

 「浅深度魚雷は40本ほどしかなく、必ず当てられる者しか乗れなかった。名誉でしたね」。出航前、上官に「家族とお別れしてこい」と言われ、「戦争だ。シンガポール攻撃か」と話し合った。11月26日、機動部隊は択捉島の単冠(ひとかっぷ)湾を出撃した。そこで目的地を知らされたが、「アメリカとの和平が成立すれば帰る」とも言われた。「戦争はしない方がいい」と思った。

 発艦するとき「生きては帰れないだろうな」と覚悟した。狙いは米戦艦ウェストバージニア。「魚雷が当たった瞬間、泥水がばーっと上がってきて、飛行機の中に入った。ふつうなら青い水が上がってくるのに」。「奇想天外な作戦」は成功した。

 前田さんはその後ミッドウェー沖海戦、沖縄戦も生き抜いた。

 ◇「政府広報機関」新聞の責任

 東京日日新聞(現毎日新聞)は8日の夕刊(日付は9日)で、1面トップに昭和天皇の詔勅を掲載した。詔勅は中国の蒋介石政権を「東亜ノ平和ヲ攪乱(かくらん)」、米英を「東洋制覇」をもくろんでいると批判。「東亜永遠ノ平和ヲ確立シ以(もっ)テ帝国ノ光栄ヲ保全セムコトヲ期ス」などとした。続いて「英米の暴政を排し/東亜の本然を復す」との見出しの記事で「軍官民一体となって国難を突破する用意は全く成った」「真の平和を期待する明日の世界のために不退転の決意と不屈の努力を傾倒する」と記した。政府声明をそのまま載せ、政府支持一色の紙面だ。

 ノンフィクション作家の保阪正康さんは開戦の経緯における新聞の責任を鋭く指摘する。「当時の新聞社は政府の広報機関。多少の例外はあるが、記者はジャーナリストではなく宣伝要員だった。同情すべき点もあるが、今日の教訓にすべきだ」

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 ◇主な参考文献(順不同)

 新名丈夫編「海軍戦争検討会議記録」(毎日新聞社)▽五味川純平「御前会議」(文春文庫)▽半藤一利、加藤陽子「昭和史裁判」(文芸春秋)▽吉田裕「アジア・太平洋戦争」(岩波新書)▽井口武夫「開戦神話」(中公文庫)▽古川隆久「昭和天皇」(中公新書)▽山田朗「昭和天皇の軍事思想と戦略」(校倉書房)▽須藤眞志「日米開戦外交の研究」(慶応通信)▽保阪正康「昭和陸軍の研究(上)」(朝日文庫)▽秦郁彦「統帥権と帝国陸海軍の時代」(平凡社新書)▽防衛庁防衛研修所戦史室編「戦史叢書 大本営陸軍部 大東亜戦争開戦経緯<5>」(朝雲新聞社)▽寺崎英成、マリコ・テラサキ・ミラー編著「昭和天皇独白録」(文芸春秋)▽コーデル・ハル「回想録」(朝日新聞社訳・朝日新聞社)▽参謀本部編「杉山メモ(上)」(原書房)▽ジョセフ・C・グルー「滞日十年(下)」(石川欣一訳・毎日新聞社)

毎日新聞 2011年12月4日 

 

出典●

「毎日」栗原俊雄

「日米開戦70年 運命の12・8 破局への道、なぜ」

http://mainichi.jp/select/wadai/news/20111204ddm010040012000c.html


安全神話を振りまいたのは誰だ!

2011-12-07 09:09:19 | 自然と人間(震災・津波・原発事故)

12月6日(火)☂

 寒い雨の一日。閉じこもりで朝寝、昼寝、夜寝。パソコンで11月27日放送のNHKスペシャルを見た。原発の安全神話がどうやって作り上げられたか、原子力安全委員会の委員や東電の責任者に語らせるという企画だ。

「安全だと言わなければ原発はできない」と「安全だ」「安全だ」と言い募ってきた当事者たちがまるで自然現象のように安全神話が出来、自分たちもそれに束縛されてきたかのように言う。行政側にも企業側にも「安全」に責任を持つ当事者がいない。こんなことで50年間やってきた。その結果が福島第一の事故だ。

 僕のようなものでも「原発は危険だ」だからやる以上は「万全の安全対策を講じなければならない」ということぐらいは分かっていた。彼らはそんな人々の当たり前の声を封じ込めた。安全神話が崩れるのを防ぐため避難計画や避難訓練さえまともにやらなかった。原発産業の労働組合も裁判所もこれに加担した。

 滑稽なのはNHK。安全神話の普及に一番貢献してきたのはお前たちだ。お前たちがどんなふうに人々を騙してきたかを50年の番組を整理整頓して放送してみるがよい。

 事故が起こってからも「大本営発表」を垂れ流すだけ。おかげでどれだけの人が避けられた被曝にさらされたことか。

私たちがどんな無責任体制の下で生きることを余儀なくされているか。思い知るにはいい番組かもしれない。

そしてここに登場する人々をはじめとして安全神話をでっち上げてきた人々をきちんとした裁判にかけなければならない。

第2、第3の「福一」を回避するためにこの列島に生きる人々がやらなければならないことである。

  NHKスペシャル シリーズ 原発危機「安全神話~当事者が語る事故の深層」

     ●http://v.youku.com/v_show/id_XMzI3Njk1ODMy.html

または●http://www.dailymotion.com/video/xmom3h_20111201-yyyy-yyyyyyyyyyy_news?ralg=behavior-metadata#from=embediframe-playreloff

 


千葉県サイクルツーリズム

2011-12-06 06:59:48 | 父・家族・自分

12月5日(月)☼

 11時前、癌研有明病院の西尾医師の診断があった。血液検査の肝機能障害を示す数値は依然高く、抗がん剤「イレッサ」の服用は2週間程度休止する。肝臓の薬は服用を続け19日に再検査して今後の治療方針を考えることになった。

 帰りにAさんと会った。肝臓にはよもぎ・セリ・はちみつがいいと教えてくれる。とはいえ春には遠いし‥。

 

 千葉県がサイクルツーリズムに本格的に取り組み始めたという。

 

 

千葉県中南部にモデルコース 自転車ファン呼び込みに本腰    


コース上に開設される休憩スポット「サイクルステーション」にはのぼり旗とともに、専用の駐輪ラックが設置される=館山市の南房パラダイス(県提供)

 自転車を使った「サイクルツーリズム」を推進しようと、千葉県は、県中南部の観光資源を生かしたサイクリングのモデルコースを新たに設定し、自転車ファンの呼び込みに本腰を入れ始めた。モデル地域として「中房総」と「南房総」を選び、それぞれレベル別に3コースを用意。ルート上には道の駅などの協力を得て休憩スポット「サイクルステーション」を21カ所整備するとともに、ガイドマップを作成し、サイクリング観光の充実を目指す。県は「サイクリングに絶好の県内環境を生かし、一大拠点にしたい」と意気込んでいる。

 県は、全国一平均標高が低く観光資源に恵まれた地域特性を生かしたサイクルツーリズムの推進を目指し、昨年度からモデル事業の検討に着手。モデル地域の調査のほか、県のマスコット「チーバくん」を生かしたロゴを作成するなどの取り組みを進めてきた。

 県観光課によると、今回のモデルコースは、県内の自然や観光の魅力を満喫できる一般道路やサイクリングロードを活用し、初級、中級、上級のレベルに応じて設定した。  (「千葉日報」)

   千葉県サイクルツーリズム●http://www.chiba-cycling.jp/

 

 埼玉県もやってくれないかなあ。利根川・江戸川・荒川‥。こちらは土手の上の道が縦横に走っている。これらを利用して東京とつなぐのがいいと思う。

 浅草から自転車道で「小江戸・川越」へ。などなど。

 川越周辺も入間川・越辺川・高麗川・小畔川・新河岸川‥。ちょっと手を加えればいくつものネットワークができる。観光はもとより市民の健康・ふるさと発見のいい機会になると思う。

 僕はママチャリでのんびり走っている。遠くまで車で出かけなくても素晴らしい景観が身の回りにあることを多くの人に気づいてもらいたいと思う。

  

    出典●http://blog.goo.ne.jp/cassiopeia_august/e/3962b06c0b0aa542f3c63cdc6c7334bb

 冬は周辺の山々の景観が素晴らしい。富士に向かって走ろう。赤城に向かって走ろう。

 

 

 


城南信用金庫 脱東電宣言

2011-12-05 19:47:46 | 自然と人間(震災・津波・原発事故)

12月4日(日)☼

 午後、妻の弟夫婦の家を訪ねました。妻の母が先月から同居するようになり、12月1日が93才の誕生日だったのです。

川越からは10数km西の日高市、高麗川や高麗神社がすぐ近くの住宅地。僕が初めて訪ねるというので義弟は庭のぶどうを一房、収穫せずに残しておいてくれました。

 平野のただ中の川越とは違って自然に恵まれたこの地で最晩年を息子夫婦と共に過ごせるのは義母にとってこのうえない喜びでしょう。

久しぶりに義弟夫婦とゆっくり交流しました。これからは折りに触れて訪ねることが出来るでしょう。小畔川の土手沿いを来ると僕の自転車で2時間程度です。

 妻は義妹に「母をよろしくお願いします」と深く頭を下げていました。

 

 今日はこれから癌研有明病院へ。久しぶりに朝のラッシュ時間に「出勤」です。

城南信用金庫が先日、脱原発の第一歩を踏み出す声明を発表しました。こんなところに虎の子の年金を扱ってもらいたいものです。僕はS信用金庫です。電話をかけて同調を呼びかけてみようと思います。

 

「原発に頼らない安心できる社会」実現のため 

原発を使わない電力会社への契約切換を実施 

            城南信用金庫  平成 23 年 12 月 2 日

当金庫は、「原発に頼らない安心できる社会」の実現に向けて、自ら省電力、

省エネルギーに取組むとともに、金融を通じて、地域の皆様の省電力や省エネ

ルギーのための設備投資を積極的に支援、推進してきました。

今般、その一環として、当金庫の本店および各営業店で使用している電力に

ついて、原子力発電を推進する「東京電力」との契約を解除し、原発に頼らず、

自然エネルギーや民間の余剰電力を購入し販売している「エネット」(NTTフ

ァシリティーズ、東京ガス、大阪ガスの子会社であるPPS)との契約に、全

面的に切換えました。

仮に、当金庫と同じように、各企業などがPPSへの切換えを推進し、我が

国全体のPPSによる電力供給が増えれば、

 

①東京電力などが主張している今後の電力不足が解消される

②原発を使わない電力の供給が増え、原発維持の必要性が無くなる

ため、「原発に頼らない安心できる社会」が確実に実現できます。

 

当金庫では、今後、こうした動きを各方面に訴え、賛同者を広げることによ

り、「国民経済の健全な発展」と「原発に頼らない安心できる社会の早期実現」

を両立させるため、全力で取組んでまいります。

以 上

 


放射能汚染される阿武隈川

2011-12-04 06:44:36 | 自然と人間(震災・津波・原発事故)

12月3日(土)☂のち☼☁

 前日から寒い雨模様。妻や娘は東京での観劇へ。「フクギの雫」。半世紀前の沖縄・宮森小学校ジェット機墜落事件を劇化したらしい。

僕は終日引きこもり。

 阿武隈川の放射能汚染に関わるニュースを読んだ。早朝に「川の汚染」が表面化するだろうと書いたばかりだった。

「あれが阿多々羅山 あの光るのが阿武隈川」 ‥「智恵子抄」。 高校生の昔から馴染んだ川の名。数年前には川筋をたどって河口の亘理や鳥の海を訪ねた。対岸に貞山掘というのがあって海岸沿いを仙台までたどった。この辺は今度の津波で途方もない被害を被った。

 その阿武隈川が‥。なんということだろう。

  http://www.youtube.com/watch?v=W57K0DERCgI

 

 阿武隈川から海に放射性物質12月3日 7時18分 動画あり twitterでつぶやく(クリックするとNHKサイトを離れます)

東京電力福島第一原子力発電所の事故で、福島県と宮城県を流れる阿武隈川から海に流れ出た放射性セシウムは、8月には1日500億ベクレル余りに上ったと推定されることが、京都大学などの調査で分かりました。専門家は、「河口に蓄積した量や魚介類への影響を監視する必要がある」としています。京都大学などの研究グループは、福島県と宮城県を流れる阿武隈川によって運ばれる放射性物質の量を調べるため、ことし8月、宮城県岩沼市の河口付近で、放射性物質の濃度のほか、水量や流れてくる土砂の量などを測定しました。その結果、海に流れ出た放射性セシウムは、土砂1キログラム当たり6万2100ベクレル、河川の水1リットルあたり0.25ベクレルで、合わせると1日当たりの量は524億ベクレルに上ったと推定されるということです。これは、東京電力が、4月に福島第一原発から海に放出した比較的低い濃度の汚染水に含まれていた放射性セシウムの60パーセント余りにあたります。調査した京都大学の山敷庸亮准教授は、「陸地に降った放射性セシウムが少しずつ川に流れ出ていると考えられる。河口に蓄積した量や魚介類への影響を監視する必要がある」と話しています。


 奥さんの実家が郡山市湖南町にあるというキリスト教の牧師さんのブログを読ませてもらいました。土に生きる農民の怒りが聞こえてくるようです。

 

放射能汚染される阿武隈川・・・

 

 (前略)

 昔、筆者の妻の実家のある湖南町出身の小説家・諏訪三郎が、阿武隈川のほとりの田村町の農村を舞台に描いた小説に『大地の朝』というのがあります。その1節にこのようなくだりがあります。

<新しい菅の田植笠に、蓑をつけた恭介は、この新しい土に、祈るような敬虔な心を以て、全身濡れ鼠となり、膝を没する泥田にひたりながら、ひたすら、ぽつんぽつんと苗を植えていった。

あすの日が、雨か、嵐か、それは念頭になかった。秋の収穫がどうであろうとも、それも問題ではなかった。

ただ、田植こそは、百姓にとって、最も大切な土の行事である。土に生きるものの、尊い奉仕である。収穫の豊穣はもとより希うところであるが、それより大切な意義は、土と共に生きることである。土は、ある種の人間ほど、怠け者ではない。また、鈍感ではない。土には、命があり、魂があり、感覚がある。おのれの懐に宿る種子を、苗を、あたたかく抱擁し、あたたく被ってやろうとする。そしてこの世の一切の生命の成長を念じ、この地上を饒かなものにしようとしている。土こそは、この地上のすべてのものの清らかな母である。そして百姓こそは、この一切の母に仕える子である。

土を浄めよ! 土を被らしてはいけない。土の力を養うことが、この地上を、楽園にする唯一の道なのだ。そして、百姓こそは、尊い土の奉仕者なのだ>。

 耐用年数をはるかに過ぎたポンコツ原発を、大地震によって壊れるまで使い続けてきた国と東京電力、それを支えた御用学者たち・・・、福島の農民のその<土>を、放射性物質で穢した! その東京電力の事故を起こした原子力発電所から<飛び散ってしまった放射性物質は、もう他人の土地にくっついたのだから、自分たちのものではない・・・>、<飛び散った放射性物質を所有しているとは考えていない。したがって検出された放射性物質>には責任がなく<東電は除染に責任をもたない>・・・とうそぶいている!

 国と東京電力、それを支えた御用学者たち・・・、彼らは、福島の<命があり、魂があり、感覚がある><百姓>たちの<土>を、放射性物質で汚染させ、<土>とそこから採れる米や野菜を食べることができないようにした、史上まれにみる巨悪の犯罪者である!

 福島の大地を、阿武隈山系を阿武隈川から放射性物質を取り除き、<命があり、魂があり、感覚がある><地上のすべてのものの清らかな母である><土>返せ!

 生きている<土>を殺したり、瀕死の状態においやって、その原因となる放射性物質は<無主物>だから、国や東京電力、それを支えてきた御用学者には、<除染>・・・、<土>を浄める責任はないとはなんという言いぐさ、断じて許しがたい!

    出典●http://eigaku.cocolog-nifty.com/nikki3/2011/11/post-079e.html

 

 

 

 


杉花粉被曝

2011-12-03 07:23:16 | 自然と人間(震災・津波・原発事故)

昨日こんなニュースがあった。

 春先になると杉や檜の花粉に含まれた放射性物質が遠くまでばらまかれ程度の差はあれ内部被爆から免れることが難しくなる。(またもお上や御用学者は「健康への影響は考えられない」などと「発表」するに違いない。)

 花粉症に悩まされるのはそれでも一部の人だが来春はすべての人が花粉放射能の影響から逃げられない。こんなことは僕の考えつかなかったことだ。やがて河川や地下水の放射能汚染が表面化することだろう。途方もない量の「死の灰」が降り注いだのである。時が経てば経つほどその影響が見えるようになってくるのだろう。

  二つの情報を紹介します。

 

 

(A)スギ花粉のセシウム濃度 福島・飯舘村で調査開始

「河北新報」2011年12月02日金曜日

 

スギの枝先から、花粉を含む雄花を切り取る作業員=1日、福島県飯舘村飯樋

 

 福島第1原発事故で降り注いだ放射性セシウムがスギの花粉に含まれていないかどうかを分析するため、林野庁が1日、福島県飯舘村飯樋の国有林で調査を開始した。
 飛散前の今の時期のスギ花粉は、枝先の雄花と呼ばれる米粒大のつぼみの中にある。村の森林組合や専門機関の職員らが作業に当たり、林と緑地の境目に植えられたスギからのこぎりで枝を切り落とした後、はさみで丁寧に雄花だけを切り取って容器に入れた。
 調査は福島県内132カ所で9日まで行われ、1地点当たり100ミリリットルの雄花を採取。九州の専門機関で放射線量の測定など分析を進める。
 スギ花粉は1個当たりの重さが12ナノグラム(8300万分の1グラム)と極めて軽く、気象条件によっては風に乗って数百キロ離れた場所へも飛ぶ。放射性物質が含まれる土壌環境で育ったスギの花粉に、どの程度のセシウムが蓄積されるのか、科学的データはないという。
 林野庁によると、福島県川俣町のスギの葉からは1キログラム当たり17万7600ベクレルのセシウムが検出されている。花粉に同じ濃度のセシウムが含まれ、大量飛散期の空気を大人が4カ月間吸い続けたと仮定すると、積算線量は0.38マイクロシーベルトになるという。
 林野庁の松本寛喜森林保全推進室長は「試算では健康への影響はかなり小さいと考えられるが、専門家の助言も得て分析し、結果を広く知らせていきたい」と話した。 

       

  (B)   スギ花粉の放射能・・・スギを伐採することが唯一の解決
                  

                                       武田邦彦


 今から20年ほど前、日本は実に非科学的で、まるでヨーロッパ中世の魔女狩りのようなことが行われていました。その一つに「森林を守るために割り箸を使うな」という「マイ箸運動」でした。ちょうど、今の温暖化騒動のようなもので、「みんなで渡れば怖くない」ということでいい加減なことばかり言っていたのです。

  その結果の一つが「スギ花粉のアレルギー」や今回の「スギ花粉の放射能」に繋がっています。少し傲慢な言い方ですが、当時の「非科学性」というのはまるで幼稚園児のようなものだったので、「大人が愚かになればそれが子供に影響する」といっても良いでしょう。

 

・・・・・・・・・日本は森林が3分の2もある世界でも有数の森林王国で、その豊かな森林を人間と動植物で利用しながら日本列島を作ってきました。かつて人間は動物とともに山野を利用しましたが、近代になって人間は計画的な植林をしてそれを使い、動物はドングリのなる自然林で暮らすという分担もできてきました。

 

もともと、森林の利用は、人工林半分、天然林半分が望ましく、人里に近いところに人工林を作ると、そこはドングリなどの木の実がないので、動物が人里に近づかないという利点もありました。 

 

自然界における植物と動物の関係は、「植物がCO2を分解し、それを動物が利用する」ということになっていて、相互に生命を維持する仕組みになっています。その点では「自然のままの森林」というのは、人間のような動物が積極的に植物との関係を持つことでもあります。 

 

つまり、スギやヒノキを植林し、枝打ち、間引きをして勢いのよい樹木を作り、それを伐採して利用するというのは「もっとも自然との共生を実現した状態」なのです。それは乱伐などとは全く違うのです。むしろ現在の日本のように、人が植林をしただけで、枝打ち、間引きをせず、伐採時期になっても利用しないのは、乱伐よりもっと自然を破壊しているのです。 

 

・・・・・・・・・ 

 

自然運動家は独善的で怒りっぽいので、批判が難しいのですが、自然運動家が日本の森林を破壊してきたのです。そして植林したスギの枝打ちや間伐ででる樹木を利用して割り箸を作ることを禁じ、細くなって材木にもならないので放置された高樹齢のスギからでる花粉で多くの人が花粉症になり、さらに今回、スギ花粉の放射能で被曝しようとしています。 

 

私は善良な人でなりたつ誠実な日本を望みます。マイ箸運動を進めていた人は素直に森林の勉強が不足していたことを認め、花粉症で苦しんだ人に謝罪し、日本の森林と自然を守るためにこれまでの損害を回復するために行動をおこして欲しいと思います。老齢なスギの伐採を急げば、来春の花粉による子供たちの被曝を少しでも防ぐことがでいると思います。    (平成23121()

 

                出典http://takedanet.com/2011/12/post_7cd7.html

 


 

 

 


 


秋野不矩美術館  秋葉街道の旅メモ④

2011-12-03 06:14:19 | 出会いの旅

 

 

11月12日(土)☼

 「静岡県森林公園森の家」のあさは素晴らしかった。夜来の雨で綺麗になった空に登る朝陽!

 この公園は広大で一日かけても歩ききれない感じ。●http://www.morinoie.biz/nature/

 村上くんに案内してもらったので浜松はどこも忘れられないが二俣の秋野不矩(ふく)美術館は印象深い。絵はもちろんのことだが建物そのものが四周の景観に溶け込んでいる。インドの民家にヒントを得ているのか。

 

 

「外壁は、藁入りモルタルに左官用ハケで土を塗った仕上げ、内部は、白大理石の床に、ざらっとした漆喰塗りの壁、天井。この土っぽい壁に掛けられた、一連のインドの風景や自然をとらえた「絵」が、圧倒的によい。」出典●http://www.kaguraoka.info/report/man/man12.htmlDSC05721.JPG

 

 秋野不矩美術館●http://machi-log.jp/spot/929