川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

大島・藤倉学園 寅さんのおばちゃん逝く

2012-02-15 08:56:10 | 映画  音楽 美術など

2月14日(火)☂

寒い。一日ベッドで寝たり起きたり。三崎千恵子さんの訃報があった。

「男はつらいよ」のおばちゃん 三崎千恵子さん死去、90歳

三崎千恵子さん
三崎千恵子さん=1997年撮影 
Photo By 共同 

 映画「男はつらいよ」シリーズの「おばちゃん」役などで知られる俳優の三崎千恵子(みさき・ちえこ、本名宮阪トシ=みやさか・とし)さんが13日午後7時15分、老衰のため神奈川県鎌倉市の病院で死去した。90歳。東京都出身。

 葬儀・告別式は19日午後1時半から神奈川県藤沢市藤沢493のカルチャーBONDS藤沢で。喪主は長女柴順子(しば・じゅんこ)さん。

 女学校卒業後、白木屋(現、東急百貨店)に入社。コーラス部に所属し、それがきっかけで歌手となった。戦後、劇団民藝を経て、60年代映画デビュー。後にテレビ、映画で人情味のある役を演じた。

 69年(昭44)スタートの映画「男はつらいよ」シリーズでは、故渥美清さん演じる車寅次郎のおばちゃん役として全作品に出演。シリーズに欠かせないファミリーの一員となった。

 

      車つね●http://www.tora-san.jp/about/cast_tune.html

 

 

 

 

三崎さんは1920年豊島区西巣鴨生まれだという。寅さん(渥美清・台東区下谷生まれ・96年歿)逝きて15年、おいちゃん(下條正巳・釜山生まれ・04年歿)もおばちゃんも居なくなってしまった。寂しい限りである。

 

御前様(笠智衆・熊本・玉名生まれ 93年没)もタコ社長(太宰久雄・台東区浅草生まれ・98年歿)も‥。

 

葛飾・柴又は寅さんの帰るところだったが私たち多くの寅さんファンの帰るところでもあった。三崎さんをはじめ、倍賞さん(北区滝野川生まれ)を含めて東京の下町生まれの方が多いことに気づく。これらの俳優陣にとっても心を許す「ふるさと」であったのかもしれない。

 

 

  妻は会議で東京に出ているので観客ひとりの「男はつらいよ 寅次郎恋やつれ」(1974年)の追悼上映会を行なった。

 

今回のマドンナ・吉永さゆり(歌子)は夫を失った傷心のただ中で伊豆大島の障害者施設・藤倉学園での再出発を期す。

 

映画の終わり近くに歌子から虎屋に手紙が届く。

 

歌子の手紙


心や体が不自由な子供の面倒を見るのは
想像していたよりも遥かにに大変な仕事です。


大島の施設で歌子がたくさんの子供と働いてる。

歌子の手紙


朝、目が覚ましてから夜寝るまで、
子供たちを相手にまるで戦争です。
毎日が無我夢中の内に過ぎてしまうのです。
皆さんと幸せについて語り合った夜のことを
時々懐かしく思い出します。


歌子、敷地内の農園で茄子を子供たちと一緒にとっている。


                       



歌子


今の私は幸せかどうか
そんな事を考える余裕もありませんが
でも十年先二十年先になって今のことを思い出したときに
ああ、あのころは幸せだったと、そう思えるようにと
願っています。


ところで寅さんはどうしていますか? 今旅先ですか?
私は寅さんがいつかヒョィとこの島に来てくれるような
気がしてなりません。
ああ、本当に来てくれないかなあ

 

出典● http://www.yoshikawatakaaki.com/lang-jap/13saku.htm 

 

藤倉学園は僕の初任校・都立大島高校の道一つ隔てたところにあった。大島に3年間(66年~69年)世話になったが、藤倉学園について知ろうという精神が僕の中では生まれることはなかった。

後に僕の生徒だった栄光くんが不慮の死を遂げたとき、お姉さんが働いていた藤倉学園を初めて訪ねた。

 

その頃からでももう20年になる。寅さんはヒョイと歌子さんの住む大島を訪ねたのかなあ。栄光くんの姉さんは元気かなあ。

 






勝義さんのデイケアー体験(続)

2012-02-14 05:38:13 | 友人たち
2月13日(月)☁☼
 
曇り空で寒い。ベッドで寝たり起きたりの一日だった。『男はつらいよ 知床慕情』を見た。「すまけい」さんが斜里の船長役で出てくる。地元の中標津高校のOBだ。このところ僕は中標津に縁のある人に出会い続けている。
 
勝義さんからメールで「横浜だより」が届いた。今日(14日)から出勤だという。娘さんがエスコートしてくれるというが無理をしないように電話で伝えた。教員生活もいよいよ最後なので気合が入っているのだろう。
 
けいすけさん、お蔭様でほぼ順調に歩き出しています。階段の下りはまだおっかなびっくりですが、上りはOKです。ギプスがあと3週間外せないというのは誤算でしたが、まあ車イスから解放されたというだけでも大きな前進です。
 
けいすけさんのほうはこのあとは入院だそうで、またすれ違いになりますね。春になれば、一緒に歩ける日が来ることと思います。一層待ち遠しい春です。
 
 デイケアには2週間で6回、心身のリハビリになるようにと思い参加させてもらいました。
 
毎回、朝の会-遊びリテーション-口の体操-昼食-入浴-自主活動と、流れるように進みます。時に豆まきやひなまつりなどのイベントも織り込まれます。感銘を受けることもいろいろありました。
 
①80~90代の人々の元気さ、力強さ。
 
普段は概ね寡黙で不活発ですが、ひとたびエンジンがかかると目を瞠るほど陽気で活発になります。たとえば午後の自由時間、来週に迫った「のど自慢大会」のための練習に余念のない人。「瀬戸の花嫁」「兄弟船」「星影のワルツ」「道連れ」……。ハーモニカを吹く人、エレクトーンを演奏する人、大正琴に挑戦する人、ギターを爪弾くスタッフ、さながら音の洪水。その中を切り裂くように「東京音頭」が歌いだされ、何人かが踊りだす。その熱気や昂揚感はなかなかのものです。また例えば、ゲームの時間の「椅子に座ったままのドッジボール」。向かい合った両チームが一つのビーチボールを相手側に投げつける。これが互いに容赦のない強さで丁々発止とわ たり合う。その俊敏さ、集中力、闘志。老人は枯れてなどいないのです。
 
②毎回30人前後の通所者に10人ほどのスタッフが、洗練された動きで心のこもった対応をしてくれます。「ありがとう」と声をかけると、必ず「こちらこそありがとう」と返ってきます。高齢者をどういう目線で見ているかがじんわりと伝わります。
 
「朝の会」でスタッフが日々持ち回りで短いお話をしますが、それぞれ個性的で興味深いものです。
 
25歳のMさんは自分が介護の仕事に入るきっかけになった本を紹介。セヴァン・スズキというカナダの少女(当時12歳)が1992年のブラジルの環境サミットで行ったスピーチの記録、「あなたが世界を変える日」。
   
 
    セヴァン・スズキさん(1992)のスピーチ●http://www.eco-p.jp/eco-p/eco/pr/severn.htm
 
 
大好きな自然が破壊されている今、それをわがこととして、一人ひとりが力を尽くさねばならないことを、少女は「ウラもオモテもない 」真率さと鋭さと激しさで語っている。Mさんの話は「朝の会」にはやや重く、本人も聴き手の反応にたじろいだ様子も見えましたが、熱意は十分に伝わってきました。(早速お借りして読みましたが、「あなたが世界を変える」というメッセージが熱く心に残りました) 総じて、老人が聴き手だからといって手を抜かない率直・誠実な姿勢に感じ入りました。
 
③2月12・13日は「つるし雛まつり」。ケアプラザの1階・3階には、色鮮やかな紐に思い思いの愛らしい雛人形や小物をつるした「つるし雛」が飾られています。
 
   
   稲取の吊し雛●http://www.izu.co.jp/~hamabe/new_page_4.htm
 
もともとは静岡県伊豆稲取の風習とのことですが、何対ものカラフルな細工ものがつるされた様は壮観です。。豪華な七段飾りの雛壇や、地域の人々の手になる絵手紙・百人一首の色紙・陶芸作品とともに、目を楽しませてくれます。ものを創り出す喜びが湧き立つように感じられます。


「橋下市長がバカ受けするのはやむをえない」

2012-02-13 06:30:46 | 政治・社会

2月12日(日)☼

川越公園を散歩したあと曼荼羅で昼食。ダチョウの卵で作ったプリンをごちそうになった。卵の殻はノコギリで引いたというがまるでプラスチックのようだ。ダチョウの赤ちゃんはこの殻をつつき割って生まれてくるのか。どうやって?

兄が送ってくれた文旦をおすそ分けした。10年以上も故郷・室戸に帰っていない曼荼羅の主人は文旦に鼻を近づけてその香りに酔っている風情だった。今秋には高校の同期会で帰郷の計画があるらしい。 

   ファイル:Tosa Pomelo.JPG

 

JANJANブログに斎藤という方の記事がありました。広島県の職員だった方で、ヤクザまがいの自治労幹部たちの実態を告発し、大阪の「橋下市長がバカ受けするのは歴史的必然でやむをえないな」と書いています。

僕は元教員で自治労・大阪の実態に詳しいわけではありませんが「そうだろうな」と思っています。腐り果てた組合の存在のおかげで橋本市長が「バカ受け」しているのです。こんな組合が続いている限り、橋本市長は「安泰」です。

事態は東京でも本質的には同じです。憲法を堂々と無視する石原知事が4選されるというのは困ったことですが「歴史的必然でやむをえないな」と思うことがあります。石原都政に反対する勢力のバカさ加減が石原都政を支えているのです。当事者にはなんの反省もなく、「石原はファシスト」などと泣き言を唱えているだけですから、石原知事が引退したとしてもその亜流政権が続くことになります。どんなバカさ加減かはまたいつか触れることにします。

悪くすれば大阪・東京を軸にして憲法秩序を打ち破る勢力が国政を左右するようになるのかもしれません。 

まるで「組事務所」?大阪市役所内 連合・自治労の組合事務所

 わたくし、さとうしゅういちは、橋下徹・大阪市長を支持するものではありません。

特に、市長が教育目標を定めるなどという彼の教育政策は勘弁してほしいと思います。右であろうが左であろうが、教育が選挙のたびにころころ変わられたのではたまりません。

■「やくざまがい」の手法で平松支持押しつけ

 そのことを大前提としつつも、「橋下市長がバカ受けするのは歴史的必然でやむをえないな」と思う事件がありました。

 朝日新聞などの報道によると、連合傘下の大阪市交通局の労働組合が、「ヤクザまがいの手法」で、2011年11月の大阪市長選挙において、平松邦夫市長(当時)の支持を組合員に強要していたことが発覚しました。

http://www.tv-asahi.co.jp/ann/news/web/html/220206010.html

   大阪市長選で労組が脅し?内部告発で…(02/06 11:49)

 スクープです。大阪市交通局の労働組合が、去年の大阪市長選挙で、現職市長の支援に協力しなければ不利益があると、職員を脅すように指示していた疑いが独自の取材で明らかになりました。

 大阪市交通局の労働組合は、去年11月の市長選で、勤務時間中に現職の平松氏支援のための「知人紹介カード」を集めていたことが発覚し、橋下市長に謝罪しています。さらに今回、ANNが独自に入手した紹介カードの回収リストには、「非協力的な組合員がいた場合は、今後、不利益になることを本人に伝える」との指示が書き込まれていました。
 内部告発者:「正直、恐怖を覚えた。(人を脅す)やくざと言っていいくらいの団体だと思う」
 内部告発を受けた維新の会の市議が、6日朝、事実確認のため交通局に出向きました。
 大阪維新の会の市議:「はっきりとした恫喝(どうかつ)ですよね」
 大阪市交通局・総務課長:「(リストを)ざっと見る限り、(交通局に)在籍している職員。職員コードもほぼ間違いない」
 リストには交通局職員の3割にあたる1867人が並び、政治活動が制限されている管理職もいます。総務部しか知らないはずの非組合員のコード番号も記され、組織ぐるみの疑いが強まっています。

■参院選でも職場まで圧力の自治労
 組合幹部は「事実無根」などとおっしゃいます。しかし、さとうしゅういちに言わせれば「バカを言え」です。
わたくし、さとうしゅういちは、今回の朝日新聞の報道は二万パーセント真実だと保障しても構いません。

大阪と広島で場所の違いはありますが、「自治労(ないし連合系の公務員労組)なんてそんなもんだよ。なにをいまさら。」というのがわたしの思いです。

自治労は、2010年の参院選では、民主党から立候補した全国区の組織内候補が苦戦。それを受けて、思想調査を全組合員に行っています。

広島では、自治労は柳田稔候補を推薦しました。当時はまだ民主党員だったさとうしゅういちは、連合推薦の柳田さんでは、しがらみにとらわれて、原発推進をラジカルに進めるだろうし、医療や介護現場の改善も期待できないと考え、民主党二人目の中川けいさんを支持。選挙期間中に、仕事中に、組合役員から、電話が職場までかかってきて「中川のような右翼を応援するとはけしからん」と恫喝されたのを記憶しています。

連合・自治労幹部なんて、ヤクザみたいなことを平気でやる。これは常識です。こんなことをなんどもわたしは書いてきましたが、名誉棄損で訴えられたことはありません。なにしろ、事実ですから訴えようがないのです。

電力総連あたりもひどいものです。電力総連組織内の広島県議は、すぐ、県職員の仕事に横やりを入れてくることで、悪名が高かったのです。連合の組織内だからということで、偉そうな顔をされていたのです。仕事もせずに爆睡する自民党議員も問題ですが、やくざのようなことをする比率はむしろ民主党・連合の県議の方が高いように、さとうしゅういちの県職員時代の経験からは推測されます。

こんなことがありますから、もう、今回の報道など、驚くに値しません。良く今まで表ざたにならなかったなとあきれているくらいです。

橋下市長は、自治労など大阪市の労働組合に対して市から借りている市役所内の組合事務所を市に返すようおっしゃっています。
わたしは、一瞬、冗談抜きでTV画面の「組合事務所」が「組事務所」に見えたくらいです。

■若手中心に組合から離反する心
 公務員でもとくに若手は、連合・自治労に対して辟易しています。特に、最近の若手公務員は、昔なら民間に行っていたような優秀な人も多い。それはそれで官民格差の拡大でまずいのですが、それはそれとして、そうした若手公務員から見れば、年配の労組幹部はヌルいし危機感がない。そして、物事を頭ごなしに押し付けてくるだけの「うざい」存在に見えるのです。実際、組合で署名を集めても賛同するのは3割程度です。組合幹部は、「これは組合幹部で決めたのだからやるんだ」と顔を真っ赤にして怒りますが、逆効果です。かくて組合から組合員の心は離れるばかりです。

 大阪においても、橋下市長を「解放軍」」とみなす若手職員もすくなくない、とインターネット上の若手職員の発言から推測できます。これは、一切合財、連合・自治労が招いたことです。

 広島県では、職員が知事に直接政策提案できる制度ができました。しかし、自治労広島県職員労働組合はこれに反対しています。職員を抑圧しているのは、当局ではなくむしろ組合ではないか、と思えて仕方がありません。

 また、管理職昇進にあたっての試験も廃止して久しいものがあります。労働組合は、「労働者階級の分断につながるから試験はだめ」と言いますが、試験がないことで横行しているのは、県議などの影がちらつく不透明な談合人事です。とくに女性職員にとっては、管理職になるチャンスは、試験の方が公正に保障されます。広島県で女性管理職が本格的に増えるのは湯崎現知事の当選を待たなければなりませんでした。

■自治労ある限り橋下市長は安泰
 わたくし、さとうしゅういちは、橋下市長は支持しない。しかし、自治労と電力総連の「患部」が完全打倒されるまで「橋下人気」は続くだろうと二万パーセント断言できます。
皮肉ですが、連合・自治労・電力総連が「ヤクザ」である限り、橋下市長、大阪維新の会の議員は枕を高くして寝られるでしょう。

 いわゆる左翼の友人の中にはわたしが街頭演説などで「民主党・連合・自治労を打倒しよう!」を叫ぶと、いい顔をしない人もおられます。しかし、そのことにわたしは全くひるみません。いまや、連合・自治労こそが、我が古巣の広島県庁をも真っ暗闇にしてしまう。次期国政選挙・地方選挙において、公務員・県民双方を「やくざ」まがいの集団から守るため、皆さんと一緒に連合・自治労「患部」とその傀儡(かいらい)県議や傀儡政権を絶対に「完全打倒」しなければならない。このような確信は一層揺るぎのないものになりました。

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さとうしゅういち記者のプロフィール

佐藤周一。1975年11月12日広島県福山市生まれ、東京都育ち。現在の本籍地は広島市安佐南区祇園。
1999年3月、東京大学経済学部卒業。2000年4月、広島県入庁。県庁時代は、労働、医療、介護、男女共同参画などの行政に携わる。一方で、反貧困、野宿生活者支援、女性、若者、非正規労働者支援、男女共同参画、瀬戸内海の環境問題などに関する活動に従事。
2011年1月31日広島県を退職。同4月10日執行の広島県議会議員選挙(広島市安佐南区選挙区)立候補、4278票を獲得するも及ばず。同6月20日~医療・介護関係の会社員。
所属政党 民主党(2011年1月まで)→無所属→みどりの未来(2011年8月から)
2010年度・労働組合・生存のためのメーデー広島実行委員会(略称:生存ユニオン広島)委員長。http://d.hatena.ne.jp/lifeunion/
1996年~広島瀬戸内新聞社主 http://hiroseto.exblog.jp/
TWITTER:http://twitter.com/hiroseto/


小池正春さん  父子の帰農

2012-02-11 18:07:04 | 友人たち

2月11日(土)☼

昼前に狭山の智光山公園に連れて行ってもらった。木々の芽は硬いが春を迎える準備を密かに進めている。

阿佐海岸鉄道で鉄道・バス両用車の試運転が行われたという。徳島県の牟岐(むぎ)から室戸岬まで乗り換えなしで行けるようになるのかな。楽しみ。

  阿佐海岸鉄道●http://www.mbs.jp/news/kansaiflash_GE120211114200538973.shtml 

JANJANに古い友人の小池正春さんの投稿があった。お子さんが新潟県上越市の父の故郷で農民になったようだ。全くの都会っ子だ。正春さんも時々帰省して新しい生き方をみつけようとしている。

僕に言わせれば時代の先端を行く生き方だ。日本海から吹き付ける風雪が厳しいところだろう。あえて新たな人生に挑戦するお二人に力強さを感じる。

大雪注意報の上越市(吉川区)に帰省した

実家に向かう途中の積雪状況。昔の積雪からするとそれほどでもありません。

新潟県上越市吉川区(旧吉川町の人口)

(2011年12月31日現在)

1535世帯

男2350人

女2523人

合計 4873人

高速バスで吉川に帰省した。テレビでは連日、新潟の大雪被害を報道している。高齢者が屋根から落ちて死亡した話や除雪車の下敷きになった話。だから川口の叔母から昨日の朝早く、安否を気遣う電話が入る。吉川に2005年に東京から移り住んだ新農民(長男)に携帯メールを送るが返事がない。仮にあったとしても、おそらく正確な情報は分からないだろう。庭の積雪、屋根の積雪、道路の積雪……長岡、柏崎、柿崎、直江津……。

練馬区役所午前9時出発、バスは8割程度の乗車率。関越道を走り、途中、上里、越後川口SAに寄り、午後1時45分に柿崎停留所に着く。高速道は関越トンネルまでは雪がほとんどなく、晴天。トンネルを抜けると越後湯沢、道の脇は2mほどで、後は、ずっと道は除雪されていて最後まで順調だった。但し、雪が降ったり止んだりの天候。どちらかというと、雪がやっと収まったのだという。

高速バスの運転手さん情報によると、「本日は、高田で一斉除雪日に当たっており、渋滞が発生するかもしれません」とのことだった。

さて、肝心の実家の雪は、昨年のピークと同じぐらいだった。積雪と屋根から降ろした雪で3mほどになり、新農民と軒下をスコップで空けていく。汗だくだ。

除雪車の運転手さんのギャラは結構なものだそうです。大雪で1年分、稼ぐとか。

 大雪注意報の2月にもかかわらず、実家は書類の山だ。一見、これといった特徴のない寂れた集落なのだが、総合事務所(旧町役場)、えちご上越農協、そして町内会の活動は冬眠しているわけではないのだ(?)

例えば、

・広報上越

・上越市議会だよりNO170

・「まちづくり吉川だより」:みなもと地域づくり会議で新年祝賀会開催、東田中地域づくり「雪の祭典」、新春落語寄席の案内(まちづくり吉川)

・農業所得申告支援システム帳票の案内(JA)

・「畑作物の所得補償交付金における数量払の交付申請書」の提出:そばの転作に伴う補助金交付(上越市農業再生協議会:JA)

・貯金口座ご利用のお願い:農協に僕自身名義で作った口座に関して、利用がないのでこのまま取引がない場合、「別途お手続きが必要」というお知らせ。母親宛に届く(?)

・平成24年水稲生産実施計画書及び営農計画書(えちご上越農協)

・新品種「みずほの輝き」栽培希望とりまとめについて(JAえちご上越)

・平成23年産米コシヒカリ・五百万石成分分析結果について(JA)

・三ケ字町内会「さいの神」の報告

・22年産米 歩留増最終精算通知書(JA)

・酒米栽培研修会及び平成23年産作柄検討会の開催について

・新潟県交通災害共済加入申込みについて

※JA関係が圧倒的に多い。地元に住んでいればなんのことはないのかもしれないが、2週間、家を空けただけで、様々な手続が後手に回る。

吉川町のシンボルです。尾神岳といいます。頂上まで車でいけるんですよ。

 2004年に父親が亡くなり、それまで高校を出てからずっと東京住まいだった私は、いきなり、コメ作りをすることになった。素人が簡単にできるわけもない。以来、8年間、月に2度、週末を利用して故郷と東京を行ったり来たりする生活のなかで、集落の人々とのコミュニケーションも少しずつとれるようになってきた。

 翻ってみれば、教員としてスタートした仕事が、気づいてみればいつの間にか、ライター(記者)&編集者生活26年。しかし、この拙いスキルも、最初は稲作を初めとして集落で必要とされる知識や経験や能力とは無縁のもののように思ってきたが、雪国の限界集落の変わらぬ暮らしを外部の視線をもって眺めてみれば、美しい自然と四季、味わい深い神事や数々の大小のコミュニティイベント、稲作など農業の奥深さ、集落の絶妙な運命共同体としての仕組みと個人生活との間合いなど、吉川区内(旧吉川町)は無論のこと、上越市、新潟県、日本に向けての情報発信によって、“吉川”をフィーチャーできる、リスペクトできるのではないか?

 2003年から約6年間、韓国で起業されたインターネット新聞「オー・マイ・ニュース」にインスパイアされ、日本でスタートしたインターネット新聞「JanJan」でデスクとして仕事をしながらインターネットメディアの可能性と、事業としての限界を垣間見たが、今日はブログ、ツィッター、ミクシー、フェイスブック、ユーチューブ、ニコニコ動画とツールは進化し、情報発信能力は格段に飛躍した。

 すでに誰もが持つインフラ(PC)で、マスメディアから一方的に与えられる情報に依存するのではなく、吉川市民(1535世帯4873人)自らが情報を受発信する。マスコミや地元行政や農協などの“大組織”から自立した情報コミュニティ……限界集落に文化の炎を点せないか。

小池正春記者のプロフィール

※市民記者参加型ローカルインターネット新聞について模索中。ブログ「吉川タイムズ」を始めました。


病状

2012-02-11 06:09:38 | 病状

2月10日(金)☼

10時前に癌研有明病院西尾主治医の診断がありました。

血液検査  抗がん剤「イレッサ」の後遺症である肝機能障害は改善された。ほかの数値にも大きな問題はない。

CT検査   イレッサの服用を中止して2箇月、右肺に転移したガンはかなり大きくなっており、新たな抗がん剤治療が必要である。このとろ体重が5Kgほど減少しているのもこのことと関係があるのかもしれない。

治療方針  抗がん剤「タルセバ」の服用を開始する。間質肺炎などの副作用を警戒するため2週間の入院を伴う。「イレッサ」と同系統の抗がん剤だが肝機能障害が軽くて済むかもしれない。湿疹などの副作用は「イレッサ」よりは出る場合が多い。

入院     2月15日以降。ベッドが開き次第。

 

 去年8月以来の入院です。「タルセバ」に薬効があり、目立った副作用が無く長続きすることを期待するばかりです。「イレッサ」は薬効もあり、自覚できる副作用もあまりなかったのにもかかわらず、肝機能障害を引きおこしてしまいました。僕にとっては思わぬ誤算でした。

これで2月いっぱいは入院生活です。寒さの2月ですからこれもいいかな。

入院までの数日、なるべく散歩などで体を動かして体力を付けようと思います。  

     

 

 病院の帰りに経済産業省前の「テントひろば」を訪ねてみました。テントは健在で同世代の方と見受けられる3人がおられました。わずかばかりのカンパと記帳をしました。

 経産省の食堂で昼食にしようとしたら「入場禁止」。入口に飛行場の搭乗口のような関所が作られていて警備員がブロックしています。

「国民が政府の庁舎に入るのを許さないとはいかなる理由によるのか」と聞いてみましたが、黙っているばかりです。

枝野経済産業大臣というのは本当に困った人です。

40年前の「チッソ」東京本社の水俣病患者さんに対する対応を思い出しました。チッソ東京本社の入口に鉄格子を設けて自由な出入りを禁じたのです。

東電・御用学者・マスコミなどとつるんで原発利権を貪り続けてきた経産省の高級役人たちのロボットになってしまったのです。このような国民に対する仕打ちにはいつか必ず天罰が下るでしょう。

「枝野よ、覚悟せよ!」

 

 

 

 

 


脱原発への提案  自民党エネルギー政策議連

2012-02-09 21:09:56 | 自然と人間(震災・津波・原発事故)

2月9日(木)☼

 川越公園の落ち葉の道を歩きました。久しぶりなのでいつもよりいっそうよたよたです。「ケイスケ殺すにゃ刃物はいらぬ。寒さの3日も続きゃあいい」。

日当たりの良い広場にはイヌノフグリがかわいい花を咲かせています。

    

 

福島第二原発もメルトダウン寸前だったことが所長の記者会見でわかりました。

    ●http://www.j-cast.com/2012/02/09121688.html?p=1

恐ろしい話です。

近くすべての原発が定期検査などのために停止するということです。この際、数年間は原発の再稼働はやめ、国会をはじめ、全社会でエネルギー政策について議論する機会にすべきです。

 自民党の河野太郎議員たちのグループがエネルギー政策の提言をまとめたとのことです。

 

    電力の5割、再生可能エネルギーに…自民議連

 自民党の河野太郎衆院議員らがつくる「エネルギー政策議員連盟」は9日、〈1〉2050年までに現在の電力需要量の50%を再生可能エネルギーとする〈2〉青森県六ヶ所村の使用済み核燃料再処理工場の廃止〈3〉高速増殖炉「もんじゅ」(福井県敦賀市)の廃炉――などを柱とする提言をまとめた。

 党の「総合エネルギー政策特命委員会」(山本一太委員長)に提出し、同委が近く公表する「中間とりまとめ」に反映するよう求めた。(2012年2月9日17時42分  読売新聞)

 

河野太郎議員のブログに全文が掲載されています。これが自民党でどれだけの支持を集められるのか?

11日には反原発の大きな集会が予定されているようです。右派の陣営の人たちのなかにも反原発を闡明した人もいるようです。

人類だけでは無く、いきとし生きるもののための地球です。各党各派はもとよりすべての私たちが議論に参加し、当面のエネルギー政策を確立しなければなりません。


民党エネルギー政策議連提案

2012年02月09日 18:14

自由民主党エネルギー政策議員連盟の提案です。

この提案にご賛同いただける自由民主党の国会議員、都道府県会議員、および自民党籍をもつ市町村議員を募っています。

どうぞ、ご連絡ください。

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新しい日本のエネルギー政策の提案

自由民主党エネルギー政策議連

大きな方針

原子力ムラを解体し、現実的な脱原発を実現する。

エネルギー分野で多様な主体による分散型技術革新を実現する。

将来の化石燃料の価格高騰にも対応できる、世界に先駆けた再生エネルギービジョンを実現する。


原子力の規制に関して

原子力規制庁は三条委員会として新設し、原子力安全基盤機構および中央官庁の核、放射能関連部門を原子力規制庁に統合する。

原子力関連予算を組み替え、再生可能エネルギーやスマートグリッドの普及拡大、シビアアクシデント対応および高レベル放射性廃棄物と使用済み核燃料の中間貯蔵と最終処分等に予算に集中する。

環境関連法令の適用除外を削除し、原子炉由来の環境汚染について環境省も所管する。


原発再稼働に関して

再稼働は、政府・国会の事故調査委員会の結論を待って、原子力規制庁の下で行う。

再稼働は、安全性の高い原子炉のみを対象とし、電力の安定供給のために最低限必要な数までに限る。

再稼働の前に、電力各社の経営の隠蔽体質の一掃を求める。


今後の原発のあり方について

商業用原子炉の新増設、更新は今後、行わない。

運転開始後40年を経過した原子炉は廃炉にする。

原子炉の輸出に関する政府の支援は行わない。

NPTに加盟していない国との原子力協定を速やかに見直すとともに、NPTに加盟していない国々に対する原子力関連物品、サービスの提供を禁止する。

使用済み核燃料の原子力発電所内での乾式貯蔵を始める。

使用済み核燃料の乾式貯蔵による長期貯蔵施設を建設する。


電力供給体制に関して

電力会社の地域独占を廃止し、電気事業を自由化する。総括原価方式は廃止する。

電力会社の送電部門を分離独立させ、送電網会社を設立する。送電網への発電会社からのアクセスの平等性、公平性を担保する。

全ての原子力発電所および関連事業、使用済み核燃料およびその処分責任を電力会社から国に移管する。

東京電力には公費の追加投入をせず、債務超過になった時点で破綻処理を行い、一時的な国有化を行う。ただし、燃料の購入その他事業の継続に影響が出ないように資金繰りは政府が全面的に責任を持つ。国有化後に、発電部門、送電部門、福島第一・第二原発処理部門に三分割し、発電部門は再上場、送電部門は新送電会社に統合する。


バックエンドについて

「もんじゅ」を廃炉にする。地域への財政および雇用に関する支援を当面、国が行う。

商業用高速増殖炉の開発は、現存の軽水炉が廃炉になる時期に間に合わないので中止する。

六カ所再処理工場は稼働させずに廃止する。地域への財政および雇用に関する支援を当面、国が行う。

再処理を前提とする現行の特定放射性廃棄物の最終処分に関する法律を改正する。

プルトニウムを国際管理する仕組みを提案する。

核廃棄物を、より半減期の短いものに転換するような研究を継続的に実施する。

日本原子力研究開発機構を改組し、福島原発の廃炉管理、放射性物質の除洗技術の開発、使用済み核燃料および高レベル放射性廃棄物に含まれる放射性物質の半減期をより短くするための研究開発を実施する。


再生可能エネルギーについて

再生可能エネルギーの固定価格の買取制度を充実させる。再生可能エネルギー普及のための規制緩和並びに法改正を速やかに実施する。

企業の生産性と国民生活の利便性を損なうことなく、2020年までに現在の国内の電力需要量から20%削減、2050年までに40%削減を目指した省エネ目標を設定し、必要な法令改正および研究開発支援を行う。

スマートグリッド導入に関する検討を進め、必要な法令改正を実施する。

2020年までの再生可能エネルギー(水力含む)の導入目標を現在の電力需要量の20%、2050年までに50%とし、その達成に必要な法令改正および研究開発支援を行う。

国内の周波数問題の解消に向けての戦略を定める。

アジア自然エネルギー共同体構想を進める。

 

出典●http://www.taro.org/2012/02/post-1163.php


「原発マネーに負けなかった男」島岡幹夫さん

2012-02-09 06:05:29 | ふるさと 土佐・室戸

このところ寒い日が続き閉じこもっている。昨日はツイッターというものをやってみた。良くはわからないが時時刻刻経産省から伝えられる情報を読んだ。確かに市民にとって便利な情報伝達メディアだろう。

 JANJANで高知・窪川(四万十町)の島岡幹夫というオンチャンの記事を読んだ。こういう方がいて窪川原発を阻止することが出来たのか。

 言っちゃあ悪いが、反原発をリードする人が「大江健三郎」などの文筆業の「知識人」である限り、勝ち味はない。真実味がないのである。島岡さんのようなオンチャンが先頭に立ってくれるとだいぶ違ってくるのではないかと思う。ぼくのような閉じこもりでもこのオンチャンの話を聞いていると元気がでてくる。

 三つ年上だという。えらいものだ。

 

原発マネーに負けなかった男 (高知)

 高知県民は、過去の放射能との困難な戦いで、実に3連勝している。窪川原発と(1988128 窪川町)、高レベル放射性廃棄物(2007422 東洋町)、低レベル放射性廃棄物(200924 大月町)をその入り口で追い返した。最初の窪川原発については、私はほとんど何も知らなかったが、昨年1130日に高知大学で行われた島岡幹夫さんの講演を聴き、その直後に1時間ほど彼と話す機会があり、さらに執筆を開始してから確認の電話を5回したので、およその経緯を知ることができた。それは、語るに値する「サクセス・ストーリー」であった。

      ○ 島岡さんたちの反対運動が、豊かな自然を残した。(原発候補地になった旧窪川町興津海岸か?けいすけ註)

1975年、旧窪川町に原子力発電所建設計画が持ち上がった。島岡幹夫さん(当時38歳)は、この時、高知県窪川町自民党支部広報副委員長だった。25歳までは大阪府警の警官だった人である。この種の話は、一般の人が知る前に保守系の有力者の間で根回しされるのが常である。ある会合で計画を打ち明けられた時、町の有力者がだれも反対しない中で、彼だけは、「ちょっと待ってください!」と異議をはさんだ。放射能が気がかりだったのである。その時、放射線治療の末に52歳で亡くなったお母さんの死体を思い浮かべたと言う。有機農業をやっていたから生理的に放射能を嫌ったということもあったかもしれない。

「窪川町には、当時、農業と畜産で80億、林業で30億、縫製工場などの加工産業を合わせると、150億近い収入があったのです。四国有数の食糧生産地なのに、たかだか20億や30億の税収に目がくらみ、耐用年数30年程度の原発のために、2000年続いてきた農業を犠牲にするのは、愚の骨頂であります」というのが、島岡さんの主張であった。しかし、窪川町自民党支部の中で、彼のこの正論に同調する人はなく、彼は孤立感を深めていった。

 

島岡さんは、孤立して思案に暮れる人ではなかった。彼は、共産党の反対集会に乗り込んで行って、こう言った。「この町の有権者は13000人、革新は3000人、保守は10000人、革新が運動を主導したら、原発は建設されてしまいます。この反対運動は、私のような保守系の人間が中心にならなければ、大きな力になりません。私を反対運動の代表にしてください」 そして、彼は、窪川町原発反対町民会議の代表になった。まもなく、彼は、自民党窪川町支部に呼び出され、除名処分を言い渡された。

賛成派と反対派、町を2分しての骨肉相食む長い闘いが始まった。賛成派は、13億の宣伝費、接待費を使ったと言われている。一方、島岡さんは、「郷土懇談会」と名付けた学習会を毎週のように開き、住民といっしょに原発を学習することから始めた。「岩波新書の『原子力発電』(武谷三男)を教科書にして勉強しました。あの本は、私たち反対派のバイブルになりました」と当時を振り返る。

 

 

原発は未来に禍根を残す。原発反対町民会議は、任期4年の町長や町議会に建設の議決を委ねず、全町民有権者の投票によって決する住民投票条例の制定を要求した。先駆的な試みであった。「その時の町長は、当選して1年半後、公約に反し、賛成派に回っていたのです。その町長は、私の家内のいとこでしたが、私はリコール運動の先頭に立ちました。1981年3月の解職投票で、賛成6332、反対5844で、私たちが勝ちました。しかし、私たちに油断があったのでしょう。その後の出直し選挙では、私たちの立てた候補者が899票差で解職町長に負けてしまったのです。1票5万円だったと言います。当時の窪川町の民度は高かったですが、浮動票がかなりあり、金をもらったら、そちらに投票する人もいたのです。私たちは再び危機に陥り、町は一層混乱していきました」

住民投票条例は、出直し選挙の年に成立した。町長が出直し選挙の公約にしていたからである。しかし、町長は賛成派であった。では、町議会の方がどうなっていたのかと言うと、24議席の内、賛成-20、反対-4という状態であった。そこで、島岡さんは、1983年2月1日、町議会議員になり、「議会改革」に乗り出した。「議員としての収入は、女房には申し訳なかったけれど、すべて原発反対運動に使いました。日本全国の原発を訪ねて、住民の意見を聞き、原発の問題点を調査研究しました。その研究成果を議会での質問に使ったのです。だから、町長も大変だったでしょうね」と当時を振り返る。彼は、原発建設を阻止するために急きょ町議会議員になったのだが、7期28年間務め、終わりのころの2年間は町議会議長を務めた。彼の奮闘があって、22議席のうち、賛成―12、反対10まで追い上げたが、やはり、反対派は議会内では劣勢のままであった。

私は、東洋町の高レベル放射性廃棄物の反対運動の時(2007・4・22)も、1票に5万円が動いた、と聞いた。東洋町の町長選挙の出陣式の日、私は、2mほどのブロック塀の上に登って写真を撮っていたが、下を走る車の中が丸見えであった。鋭い目つきの男の隣には誰も座っていなかったが、5万円くらいに小分けされた1万円札の束の山が無造作に積まれていた。

選挙では勝てなかったが、島岡さんたちの学習会をベースにした地道な反対運動は、徐々に反対派を増やしていった。県原発反対漁民会議は、「海洋調査が強行されるなら、5000隻の漁船を動員して、海上封鎖する」と宣言していた。そして、島岡さんたちの反対運動に順風が吹いた。1986年4月、レベル7のチェルノブイリ原発事故が起こったのである。・・・。1988年1月、反対の世論に包囲された藤戸進町長は、「窪川原発は今日的課題ではなく、海洋調査を棚上げにする。私は、公約の責任をとって辞任する」と発表した。こうして13年間に及んだ窪川原発建設計画は、原発反対町民会議の地道な活動によって、阻止されたのであった。

 

 

○ 焼肉パーティーを兼ねての学習会風景。和子夫人の「ちらし寿司」も活躍した。(以下の写真は島岡さん提供)

島岡さんが原発反対運動に走り回っていたのは、13年間である。急発進した車を道路に転がってかわしたこともあった。その筋の人たちが10人ほど町に入り込んでいたのである。柔道、剣道の有段者である彼は、呼子をいつも首からつるし、暴力にも屈することなく、己の正義を貫いた。「島岡幹夫なくして、窪川原発は阻止できなかったであろう」 多くの関係者に聞いたが、異口同音にそう言う。

その間、彼に代わって本業の有機農業をやっていたのは和子夫人で、「働き過ぎて背中が曲がってしまった」と言う。高校時代、彼は、2年間生徒会長を務めていた。その同じ高校の2年先輩だった和子夫人いわく 「父ちゃんはえらい。私は父ちゃんを誇りにしています」 

 

 ○ 自宅前の島岡幹夫さんと「内助の功」で反対運動を支えた和子夫人

(筆者の感想)

島岡幹夫さんは、現在73歳だが、まだ現役で、席の温まる暇がない。会えばわかるが、全身からエネルギーをほとばしらせていて、話し出したら止まらない。彼は、現在、日本国内はもちろん、韓国の反原発運動を応援しているが、韓国の空港に降り立つと、両側に公安警察がピタリとついて迎えてくれると言う。また、自宅には、月に1度、黒いスーツを着た2人の高知県警の公安が訪れると言う。日韓両国の公安が彼の動静をマークしているのである。しかし、25歳まで彼自身がその公安警察だったのである。

  ○ 韓国・光州市で開かれた反原発の集会で講演している島岡さん

また、彼は、「大地を守る会」国際局の要請を受けて、タイ東北地方のタラート村に毎年、有機農業の指導に出かけている。自ら泥にまみれて、「立体農業」を指導している。村人の笑顔が増えることを楽しみに、私費を投じて、タラート村の生活改善に貢献している。今年で14回目だと言う。

     ○ タイ国の島岡農業塾で幹部のミーチャイ君と打ち合わせ

また、彼の1枚65円の名刺には、「朝霧森林クラブ会長」とも書かれている。仲間を募って、植林の間伐にボランティアの汗を流しているのである。「窪川ジャガイモクラブ会長」でもある彼は言った。「経済を繁栄させるために農業を犠牲にしてエネルギーをつくりだそうとするのは、根本的に間違っています。私は、農業を基礎にした国づくりを考えるべきだと思います。日本の農業を破壊するTPPには、絶対反対です」

徳川封建時代が長かったからだろうか、日本では、「長いものには巻かれろ」という処世術の人が多い。いわゆる「大勢順応型」である。しかし、時々、社会の価値観に自分を合わせるのでなく、自分の価値観に社会を合わせようとする人が出てくる。島岡幹夫さんや澤山保太郎さん(高レベル放射性廃棄物から東洋町を守った)は、そういう日本人離れした怪物である。己の正義を信じて、郷土の敵に立ち向かう「命知らず」が1人いること、それが原発マネーに負けない必要条件であるように思った。

出典●http://www.janjanblog.com/archives/60796

 


2・8独立宣言

2012-02-08 10:25:33 | 在日コリアン

2月8日(水)☼

2月8日と言えば反射的に「2・8独立宣言書」を思い出します。1910年の「併合条約」から9年、東京に留学していた朝鮮人学生らが神田の基督教青年会舘に拠って独立を宣言したのです。

この宣言書はやがてソウル(当時は京城と改称されていた)の「3・1独立宣言」となり、中国の五四運動にも影響を与えたといいます。

 遠い昔、この宣言書を初めて読んだとき、「敵国」の首都のど真ん中で独立の声を挙げた青年らの勇気に深い感動を覚えたものです。 

 1945年8月、朝鮮は解放されましたが米ソなどの外勢によるもので、独立を自力で勝ち取ったとは言えません。そのために今日に至るまで南北分断を余儀なくされ、「反日」がまるで痙攣のように繰り返されています。

 この「不幸」そのものの歴史を知らないため、日本人はただただ戸惑い「嫌韓感情」に支配されたり、「贖罪意識」に絡みとられてしまったりしています。

 20世紀初頭の東アジアに身を置いて日本と朝鮮の関わりを学んでみることが私たちには必要です。この文章も歴史的文書として学びの対象から欠かすことはできません。


★「2・8独立宣言書」全文 (1919.2.8 朝鮮基督教青年会館)

 朝鮮青年独立団は,わが二千万の民族を代表して,正義と自由の勝利をえた世界万国の前に,われわれの独立を期成することを宣言する。

 
四千三百年の長い歴史を有するわが民族は,実に世界最古の文明民族の一つである。時には中国の正朔を奉じることがあっても,これは両国王室の形式的な外交関係に過ぎず,朝鮮はつねにわが民族の朝鮮であり,いまだかつて一度たりとも統一国家を喪い,異民族の実質的支配を受けたことはなかった。

 日本は,朝鮮が日本と唇歯の関係にあることを自覚していると称し,一八九四年,清日戦争の結果をもって,朝鮮の独立を率先承認した。アメリカ,イギリス,フランス,ドイツ,ロシアなどの諸国も独立を承認するのみでなく,これを保全することを約束した。

 朝鮮もその恩義に感じ,鋭意諸般の改革と国力の充実とを図ってきた。

 出所)写真「独立宣言書」が読み上げられた当時の朝鮮基督教青年会館(左)と現在の在日本韓国YMCA会館(右)

 当時ロシアの勢力が南下し,東洋の平和と朝鮮の安寧を脅かしたとき,日本は韓国と攻守同盟を締結して露日戦争を始めた。東洋の平和と韓国の独立保全とはこの同盟の主旨であったから,韓国はいよいよその好誼に感じ,陸海軍の作戦上の援助はできなかったけれども,主権の威厳さえ犠牲にして可能なあらゆる義務を尽くし,東洋の平和と韓国独立の二大目的を追求したのである。

 ついにその戦争が終結し,当時のアメリカ大統領ルーズベルトの仲裁によって講和会議が開かれると,日本は同盟国である韓国の参加を許さず,露日両国代表者の任意で,日本の朝鮮に対する宗主権を議定した。日本は優越した兵力を恃み,韓国の独立を保全するという旧約に違反し,ひ弱な韓国皇帝およびその宗主権を威嚇,欺瞞し,国力が充足し独立をえるべき時期までという条件で韓国の外交権を奪い,これを日本の保護国となし,韓国をして世界列国と直接外交する道を断ち,相当の時期までという条件で司法・警察を奪い,さらに徴兵令実施までという条件で軍隊を解散させ,民間の武器を押収して日本の軍隊と憲兵警察とを各地に配置した。甚だしきは皇宮の警備までも日本人の警察を使用するに至った。

 こうして朝鮮を無抵抗なものにし,わが明哲の誉れある光武皇帝を放逐して,精神の発達が充分でなかった若年の皇太子を擁立して利用し,日本の走狗をもっていわゆる合併内閣を組織し,ついに秘密裡に武力をもって合併条約を締結した。ここにわが朝鮮民族は,建国以来半万年にして,われらを指導し援助するという友邦の軍国的野心の犠牲となった。実に日本の韓国に対する行為は,詐欺と暴力から出たものであり,このような大がかりな詐欺の成功は,世界興亡史上に特筆されるべき人類の大恥辱といえよう。

 保護条約を締結するとき,皇帝と賊臣に非ざる幾人かの大臣はあらゆる反抗手段を尽くし,その発表後も全国民は素手で可能な限り反抗をした。司法・警察が奪われ,軍隊が解散されたときもまたそうであった。こうして合併時にあっては,身に寸鉄の武器を帯びないにもかかわらず,可能な限りあらゆる手段を尽くして反抗運動を試みたが,精鋭な日本の武器により犠牲となった者は数知れない。来十年間,独立を回復しようとする運動で犠牲となった者の数もやはり数十万に達した。かの悪毒な憲兵政治のもとに手足と口舌をかんじがらめにされながらも,継続して独立運動の絶えたことはなく,これをみても,韓日合邦が朝鮮民族の意思ではないとを知ることができる。


 このようにわが民族は,日本の軍国主義的野心の詐欺暴力のもとに,民族の意思に反する運命に負わされたので,正義により世界を改造するこの時にあたり,その匡正を求める当然の権利がある。また,世界改造の主人公であるアメリカ・イギリスは,保護と合併とを率先して承認したという理由をもって,この時にさいしてその旧悪を贖う義務を有する。

 また,合併以来の日本の朝鮮統治政策をみると,合併当時の宣言書に反してわが民族の幸福と利益を無視し,征服者が被征服者に対する古代の非人道的政策を襲用し,わが民族に対し参政権,集会・結社の自由,言論・出版の自由などを許さず,甚だしくは信教の自由,企業の自由までも少なからず拘束している。行政,司法,警察などの諸機関は,朝鮮民族の私権までも侵害し,公私にわたってわれわれと日本人との間に優劣の差別を設け,わが民族には日本人に比して劣等の教育を施することにより,わが民族を永遠に日本人の使役者にしようとしている。

 さらに,歴史を改造してわが民族の神聖な歴史的伝統と威厳を破壊,凌辱し,少数の官吏を除いては政府の諸機関と交通,通信,兵備などの全機関において,全部あるいは大部分日本人を使い,わが民族に対して永遠に国家生活の智能と経験をえる機会を失わせた。われわれは,このような武断専制,不正,不平等の政治のもとでは生存と発展を享受することができない。

 それだけではない,元来人口過剰な朝鮮に無制限の日本人の移民を奨励,補助したため,土着のわが民族が海外に流離するほかないようにしむけた。また,政府諸機関はもちろん,私設の諸機関にまでも日本人を使用し,その一方で朝鮮人の富を日本に流出させ,商工業においても日本人にのみ便益を与えて,わが民族に産業勃興の機会を失わせた。このように,どの方面からみてもわが民族と日本との利害は相互に背馳し,その被害を受けるのはわが民族なのであるゆえに,わが民族は,生存の権利のために独立を主張するものである。

 最後に,東洋平和の見地からみるならば,最大の脅威であったロシアはすでにその軍国主義的野心を抛棄し,正義と自由と博愛とした新国家の建設に従事している最中であり,中華民国もまた然りである。その後に国際連盟が実現して,再び軍国主義的侵略を敢行する強国はなくなるであろう。

 そうであるならば,韓国を合併した最大の理由が消滅したばかりか,これにより朝鮮民族が数々の革命の乱を起こしたならば,日本に合併された韓国はかえって,東洋平和の禍根となるではないか。わが民族はただ一つの正当な方法によって,わが民族の自由を追求しつづけるものである。
もしこれが成功しなければ,わが民族は生存の権利のために自由な行動をとり,最後の一人に至るまで必ずや自由のために熱血を注ぐであろう。これがどうして東洋平和の禍根とならないであろうか。わが民族は一兵ももたないので兵力をもって日本に抵抗する実力がない。日本が万一,わが民族の正当な要求に応じないならば,わが民族は日本に対して永遠の血戦を宣言せざるをえない。 

 わが民族は久遠な高尚な文化を有し,半万年にわたって国家生活の経験をもっている。たとえ多年の専制政治下の害毒と境遇の不幸が,わが民族の今日を招致したにせよ,正義と自由にもとづく民主主義の先進国の範にとり,新国家を建設したのちには,建国以来,文化と正義と平和を愛好するわが民族は,必ずや世界の平和と人類の文化に対して貢献するものと信ずる。
 
出所)写真「2・8独立運動」の志士たち

 ここにわが民族は,日本および世界各国がわが民族に民族自決の機会を与えることを要求する。万一然らざれば,わが民族はその生存のために自由の行動をとり,独立を期成することを宣言するものである。

 西紀一九一九年二月八日

   在日本東京朝鮮青年独立団代表
      崔 八 金 度演 李 光洙 金 寿 白 寛洙 尹 昌錫 
      李 根 宋 継白 崔 謹愚 金 尚徳 徐 椿

出典●http://pub.ne.jp/bbgmgt/?entry_id=1997358


東京ゲートブリッジまもなく開通

2012-02-07 10:30:25 | 東京・関東

 2月7日(火)☂

昨日は癌研有明病院で血液検査とCT撮影がありました。10分程度の検査のために往復5時間かかります。西尾主治医の診断は金曜日です。

癌研の病棟からよく見えた東京ゲートブリッジが12日には開通するそうです。これで江東区新木場方面から大田区方面への湾岸道路のバイパスが完成し、東京港のあちこちにあるコンテナ基地からの輸送がスムーズになるということです。

photo         東京ゲートブリッジの完成を記念して橋をランニングするランナーら=東京都江東区若洲沖の東京湾で2012年2月4日午前、本社ヘリから 

5日には開通前にゲートブリッジを走ったり、歩いたり、サイクリングしたりするイヴェントが行われたようです。僕の生徒だったマユコさんが走り終えて若洲でとった写真を見ました(右側)。二度とありえない(?)貴重な体験でさぞ爽快だったことでしょう。

     

ちなみに橋に歩道はあるが若洲からの往復のみが利用可、自転車の通行は不可とのこと。中央防波堤内側埋立地に「海の森」公園が開園(2016年)すれば事情が変わるのかな。元気があるうちに歩いて往復することが出来るか?

海の森●http://www.uminomori.metro.tokyo.jp/outline_0.html

川越だより「千年の森構想は今」●

 http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/0f4539b1afcca31ea53762be57b5b26b

 

 

 


「寅次郎わが道をゆく」

2012-02-06 05:01:06 | 映画  音楽 美術など

2月6日(月) 

 21-post.jpg (70514 バイト)  昨夕、届いたばかりの『男はつらいよ 寅次郎わが道をゆく』(1978・8 第21作)を見た。

マドンナは木の実ナナ、SKD(松竹歌劇団)の踊り子役。芸名は紅(くれない)奈々子。

この映画の圧巻は恋に生きるか、芸に生きるか、悩みに悩んだ奈々子が浅草国際劇場の最後の舞台で「道」を歌う場面だろう。 


そして…奈々子は舞台で『道』を歌う


脇で踊ってくれるのは春日宏美さん千羽ちどりさん。

               

♪ひとつのセリフも無くて 泣いた日もある
人がきれいに見えて、自分を恨んだ日もある。
でも、さあ立ち上がり 夜空の星を見つめて
つらい涙ふいて この道を歩き続ける
あたしを愛してくれる 人たちがいるから
あたしは心のすべてを、信じたこの歌に託し、生きて来たの



なんと…寅が最後部座席で奈々子さんの歌を聴いている。

          


奈々子が気丈夫に舞台に立っているのを見届けた寅は
歌の途中で国際劇場を出て旅に出発する。


          


奈々子の歌を聴いているさくら。

スタッフたちや後輩たちが舞台の影から最後の公演の奈々子を見守っている。

                   

♪まぶたを閉じれば今も 今よみがえる
遠くさすらう日々の 幾人かの懐かしい人たち
時には叱ってくれた 優しい言葉であなたは
時にはつつんでくれた 温かい腕にあなたは
できるならもう一度巡り逢いたい
空を流れる雲を見つめ
若い日の夢を一緒に語りたいの


あたしを愛してくれる 人たちがいるから
もう泣かない あたしは
選んだこの道を歩き続けたいの


涙を潤ませるさくら。 

出典●http://www.yoshikawatakaaki.com/lang-jap/torajironahibi18.htm#316

 

 僕も30数年前の国際劇場の座席にいる気分で聞いた。

覚書

①SKDの華麗なる表舞台と汚い(?)裏舞台がともに映し出されている。SKD出身の倍賞千恵子の古巣だ。SKDも浅草国際劇場も歴史の彼方に消え去った今となっては「文化財」級の映画。一度は実演を見てみたかったなあ。

 

出典「浅草国際劇場」●http://vintaka.fc2web.com/kokusai.html

②SKDの舞台に「よさこい鳴子踊り」が登場したのには驚いた。寅さんシリーズでついにロケ地に選ばれなかったのは高知県だけと聞いたことがあるが、正調「よさこい」がきちんと記録に留めおかれていた。何となく嬉しい。

 

 

 

『男はつらいよ』●http://www.tora-san.jp/toranomaki/movie21/index.html


春は東三河へ

2012-02-05 10:27:11 | 出会いの旅

 2月5日(日)☼

縁あって4月初旬に愛知県東三河地方(豊川・豊橋・田原・蒲郡など)を訪ねることになりました。昨秋、遠州・浜松の村上くんに世話になったばかりです。今度はその西隣です。縁とは不思議なものですね。

 早速、黒い箱でどんなところか?探索して、旅の夢を膨らませています。

①御油(ごゆ)宿   

 東海道の宿場町。広重の「東海道五十三次」には旅人を奪い合う女たちのユーモラスな風景が描かれています。

次の宿場・赤坂まで松並木が残っているようです。

御油宿の松並木

②為当(ためとう)稲荷神社の春の大祭

お目当ては4月8日のこの神社の「花の撓(とう)」という神事です。吉凶を占い五穀豊穣を祈る祭りです。さて‥?

 

為当稲荷神社花の撓・●http://www.tametou-inari.com/gyoji.html

 


早春賦(そうしゅんふ)

2012-02-03 20:32:59 | 映画  音楽 美術など

2月4日(土)☼

寒い日が続きますが今日は立春です。冬至と春分との真ん中で暦の上では春が始まる日だとか。

この頃になると決まって思い出すのが「早春賦(そうしゅんふ)」です。

こんな曲です。

 早春賦●http://www.youtube.com/watch?v=BlhV3BwDgvI

吉丸一昌の詩を声に出して読んでみましょう。「角ぐむ」は葦(あし)が芽吹く様子を表現した言葉です。

 

 早春賦(そうしゅんふ) 作詞:吉丸一昌 作曲:中田 章

春は名のみの 風の寒さや 

谷の鶯(うぐいす) 歌は思えど 

時にあらずと 声も立てず 

時にあらずと 声も立てず


  氷融(と)け去り 葦は角(つの)ぐむ 

  さては時ぞと 思うあやにく 

  今日も昨日も 雪の空 

  今日も昨日も 雪の空   




春と聞かねば 知らでありしを 

聞けば急(せ)かるる 胸の思いを 

いかにせよとの この頃か いかにせよとの この頃か


 吉丸の詩想は信州・安曇野で生まれたといいます。昨春、「きいちご移動教室」でここを訪ね、春を迎える喜びを満喫したものです。 


 人生にも四季があります。青春・朱夏・白秋・玄冬。春を迎えようとする季節のワクワク、ドキドキ‥。玄冬期を迎えても忘れることはありません。世界中の青春に祝福を送りたくなります。


早春賦(安曇野)●http://www.youtube.com/watch?v=lZawuVwTxvo&feature=g-upl&context=G2e7fcc1AUAAAAAAAAAA

早春賦(東京放送兒童合唱団)●http://www.youtube.com/watch?v=n_vWpnYv2FA


勝義さんのデイケアー体験

2012-02-03 06:33:06 | 友人たち

寒い日が続きます。今日は節分、あすは立春です。寒さの中で春の準備があちこちで進んでいます。

昨日、勝義さんから「横浜だより」が届きました。2月中旬まで週3回デイケアーに通うそうです。その初日の様子が綴られていました。 

 
 
 
午前10時、日下(ひした)地域ケアプラザの2階フロアー、二教室分ほどの明るいスペースに36名の老老男女が集まったところで「朝の会」が始まります。
 
若いスタッフが「1月31日はどんな日か」にわか仕込みの知識をややたどたどしく披露、そのたどたどしさが笑いを
誘います。アットホームでいい感じ。
 
続いて「今日初めて参加の方です」と名指されて自己紹介を求められる。1か月引きこもっていたせいかやや上ずった声で型どおりの自己紹介。それでも温かい拍手が返ってきました。
 
   デイルーム
    
 
 
 
 深呼吸やら手足の軽い運動の後、交流に訪れた日下小3年の子どもら28名と過ごす。
 
唱歌「お正月」の合唱とリコーダーの合奏、唱歌「焚き火」を歌いながらの手遊び、とスムーズに進めて行きます。手遊びでぼくと組んだアオヤマ君は、少しはにかみながらも、不器用なぼくを良くフォローしてくれて、その小さな手の感触が心地よく残ります。
 
昼食の前には口の体操。口を開け閉じ動かし早口言葉に挑戦して。昼食はおおむね静かです。食事は質素だがうまい。
 
隣の席のワクさん(80代)がポツリポツリ話しかけてくれます。「私は両足が不自由です」「私の娘は小学校の教員でした」「どちらにお住まいですか」「ここへは1年通っています」 何かとアドバイスしてくれてありがたい。
 
ムラタさんは中国からの帰国者らしく、コウさんというスタッフが中国語で話しかけています。男性は2割ほど。車いすの人もいるが、多くは自立歩行。日常の動作も基本的には本人にやらせ、安易にスタッフは手を出しません。
 
入浴についてもとても鮮やかな手際です。ぼくはシャワー浴でしたが、足にビニールをかぶせ、洗髪し、体も念入りに洗ってくれるまで、あっという間で、それでいてスッキリ・サッパリの爽快感が得られるものでした。入浴後は30分ほどベッドに横になる。1か月ぶりに人々に接して少々疲れを感じます。
 
カラオケに興じる声が聞こえます。2月下旬に「のど自慢大会」があるそうで、みんなその練習に余念がないのです。ぼくも参加して1曲歌いました。
「青春時代」。久々なので声はかすれていましたが、ひたすら元気に歌い切りました。マシーンの採点は99点。「うまい」だの「若い」だの言われましたが、こういう時につい頑張ってしまう自分の「若さ」がふと気恥しくもありました。
 
 一日は短く過ぎて行きました。でもいろいろな刺激に満ちてもいました。「老い」について、「いのち」について考えさせられます。
 

日本人妻等定住支援センター発足

2012-02-02 06:57:33 | 韓国・北朝鮮

1月30日、移民政策研究所で行われた「日本人妻等定住支援センター」の発足会合の様子がNHKとTBSで報道された。

日本人妻や北朝鮮残留邦人(残留孤児)の帰国したときに日本社会への定住を支援する。センター所長には李敬宰さんが就任した。

国際移住機関の協力も得られるとのことで関係者が出席した。 

移民政策研究所の坂中代表は敗戦から67年が経つのに北朝鮮残留邦人の帰国に日本政府が何らの行動をも起こして来なかったことを強く批判した。敗戦直後北朝鮮に残留を余儀なくされた人がどのくらいいたのかさえ分かっていない。参加者は今年こそ、これらの課題を全面的に解決する強い決意を披瀝しあい、帰ってきた人々を迎え入れる体制整備を確認した。

 北朝鮮日本人妻の早期帰国を

出典 ●http://www3.nhk.or.jp/news/html/20/t10015651271000.html 


北朝鮮日本人妻の早期帰国を

1月30日 23時31分 動画あり twitterでつぶやく(クリックするとNHKサイトを離れます)

かつて在日韓国・朝鮮人の夫と共に北朝鮮に渡り、日本に帰れないままになっているいわゆる「日本人妻」の帰国問題を協議する会合が、世界的な移住問題を扱うIOM=国際移住機関も初めて参加して開かれ、支援団体などが早期の帰国に向け取り組みを強化していくことを確認しました。

昭和34年から25年間続いた北朝鮮への帰還事業では、在日韓国・朝鮮人の夫と共に日本人の妻たち1800人ほどが北朝鮮に渡りましたが、その多くが日本への帰国を認められず、苦しい生活を強いられていたと言われています。この問題について、北朝鮮から逃れてきた人たちを支援している団体が、29日、会合を開き、スイスを本部に世界的な移住問題に取り組むIOM=国際移住機関のメンバーも初めて参加しました。この中ではキム・ジョンイル総書記の死去によって北朝鮮国内の情勢が不透明になっているとして「日本人妻」の早期の帰国に向けて政府への働きかけを強めていくことを確認しました。また、帰国の実現に備えて支援環境を整備していくことを申し合わせました。支援団体の坂中英徳代表は「日本人妻はすでに70代から80代の高齢になっているうえ、北朝鮮の新しい体制でどう処遇されるのか、安否が気遣われる。一刻も早い帰国に向tけて政府に要望していきたい」と話 しています。

TBS●tp://news.tbs.co.jp/20120130/newseye/tbs_newseye4940069.html

 

 

 

 

 


勝義さん、娘さんに大事にされています。

2012-02-01 08:35:24 | 友人たち

1月30日(月)☼

私たちが泊まった「マホロバ・マインズ 三浦」というホテルは元々はマンションとして建てられたとか。部屋が広くゆったりとしています。南側は海、その向に房総半島の山の連なり。昇る朝日が見事です。反対側からは丹沢の山々、そして富士山。ロケーションもなかなかです。

          

 

ゆっくり過ごしたあと、京急で上大岡に向かい、勝義さんのお見舞い。駅からはかなり離れた丘の上のマンション。娘の響子ちゃんともども出迎えてくれました。勝義さんは車椅子です。

 やや痩せたかなと思わせますが顔色は良く、響子ちゃん夫婦に大切にされていることがよくわかります。先日はみなとみらいに遊びに行ったといいます。3階の部屋から地上までの階段の上り下りは響子ちゃんが父をおんぶしたとか。母を喪って日も経たないうちの父の交通事故による骨折です。娘の心遣いも並大抵ではありません。勝義さん、よかったねえ。

 介護認定を受け来週からはデイケアに通うそうです。お姉さんたちと一緒に歌を歌ったり、折り紙をしたりするのかな。風呂にも入れてくれるとか。

 ギブスは2月8日には取れ、翌週からは勤めにも出るということですから、短い期間ですが貴重な体験をすることになります。それを楽しみにしている風情が勝義さんらしいところです。少年のような好奇心。

 「川越だより」に触発されて『あんぽん』を読み始めたとか。さすがです。友達はいい。

響子ちゃんお手製のチキンカレーをご馳走になって、辞去しました。ここも玄関からは富士山がよく見えます。

帰りに三田の移民政策研究所により、北朝鮮残留邦人や日本人妻の帰国促進について坂中所長の話を聞きました。今年こそ、総決算の年にするぞ、坂中さんの力強い決意に僕も身が引き締まる思い。