渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

日本刀の刃文のような雲

2021年07月28日 | open


匂い口しまる。

桜山城 〜広島県三原市〜

2021年07月28日 | open


トンネルを抜けるとそこは桜山。


桜山頂には中世に山名氏の桜山城があっ
た。
現在でも曲輪の土塁や井戸の遺跡が残っ
いる。
この山のふもとまでが海だった。
毛利一門はこの城のあるエリアを押さえる
戦略を立て、備後東部でイクサで攻めて、
次々に城を攻略して行った。
中世戦国時代の城は山城が中心であり、
城下町は形成されていない。
国内で初めて城下町を作り、その町を都市
として経済物流を計画実行したのは織田
信長だった。天守建築も信長が史上初。
そして、山城からやがて平城の時代を迎
え、そこに武士や商人、工人、町人たちの
市民を集住させ、日本に「町」が誕生し
た。
毛利一門の小早川氏が築城した三原城は、
そうした中世末期から近世初期の平城へ
の以降の過渡期に、海上の小島を結び埋
め立てて作られた当時国内最先端の海上
都市だった。海から見たら洋上に城がある
ため、「浮城(うきしろ)」と呼ばれた。

江戸期のこの三原城図で最上端の山林部
が桜山。山すそ南面一帯は武家地で、高台
には山ノ手通という路があった。現国立
広島大学附属幼稚園・小学校・中学校と
三原市立三原小学校を結ぶラインに存在
したが、現在は道路改変により山ノ手通
は消滅している。


神島(こうのしま) 〜岡山県笠岡市〜

2021年07月28日 | open

岡山県笠岡市神島(こうのしま)。

ベイファームのエリアが干拓埋め立てされ
たので、島ではなく陸続きになった。
片岡義男原作『彼のオートバイ、彼女の
島』の舞台である白石島に行くには、ここ
から船に乗る。また長浜の奥からも便が
ある。


連絡便の船。




残念ながら高島に隠れて、白石島の全景
は見えない。
白石島は、源平合戦で敗れた武士を悼む
「白石踊り」が残されている。盆踊りの
ようだが、所作は水上合戦での様子を表
現したもので、穏やかな円運動ではなく
直線的な動きをする。


奈良時代初期に創建された神社。
神武天皇が祀られている。












神島の海岸線を東に回り、笠岡の長浜の
海沿いに入る。




島と島を繋ぐ県道の大橋が見える。


神島もそうだが、今では右手の横島も本州
と陸続きになっている。




橋を渡り、ぐるりと回って西方にまた向
かうと横島の海岸沿いに「カブトガニ
博物館」がある。




先ほどの神島からの湾内撮影場所を対岸
から撮影。


海を埋め立てて広大な農地に転じたベイ
ファームエリア。道の駅もある。






道の駅のこのアスファルト部分もかつて
は海だった。向かいの山が神島。




ベイファームエリアは、サトウキビ畑が
一面に広がり、沖縄に似た印象を受けた。
衛星画像からも、広い海洋部分を埋め立て
て平地を造成した事が判る。西隣りの埋め
立て地は広島県福山市の工業地帯だ。
旧日本鋼管などの製鉄会社がある。
ベイファームはその名の通り、とんでも
なく広い農地にした。
岡山県は水島に零戦も作っていた古くか
らの埋め立て工業地帯があるので、この
ような広大な農地造成は、一つのモデル
ケースとして面白いと思える。


青い衝撃波

2021年07月28日 | open

都内上空を飛ぶブルーインパルス。
後輩が1眼レフ450ミリレンズで撮影。

こちらも都内から別人がスマホ撮影。
速いので捉えるのが一苦労みたいだ。


燕の子

2021年07月28日 | open

昨日の岡山県笠岡、道の駅ベイファーム
燕の子。

こちらも。


巣立ち間際だ。かわいくて、しばらく
観ていた。


こちらは巣立ったあとの巣。


こちらも。

ツバメの巣の撤去は、ヒナが傷つくと鳥獣
保護法違反となる。ツバメの巣の不用意
な撤去は望ましくない。
また、ツバメは飛行中に虫を捕食して摂餌
する鳥のため害虫駆除の益鳥でもある。
日本列島の西日本には、冬に日本で越冬
するツバメもいる。



吉備路

2021年07月28日 | open


道を走っていて、「ここ、古い街道だろう
な」と思って地図を確認したら、やはり
古代山陽道だった。
町並みと道のレイアウトですぐにそれと
なく分かる。

この先、間もなく備後国に入る。


現在の国道とは少しずれていて、地図上
では国道と並走してずっと備中国分寺から
備後国分寺まで走っているので、容易に
古代吉備路は見つけられる。
バイパスや新国道のようにまっつぐでは
なく、うねうねのまま現代でも路があり、
その両脇に庭無し建物が並んでいたら、
まずほぼ旧街道だ。
そして、大抵は道幅は古代路のまま。

昔の人は凄いねえ。
歩いて行くんだよ。九州からでも奈良へ。
もっとも、好き好んで歩いて行くのでは
なく、強制的に朝廷によって歩かされて
たのだけど。
租庸調の庸の労役とは別の軍事徴用では、
人民に課した命令必携品が一つあった。
それは、砥石。
武具はお仕着せだが、刀剣の刃は自分で
付けろ、という事だ。
全国の人民は重い石を持って徒歩にて都
に集められた。
それからまた、防人などは赴任地へと歩
かされた。馬は荷駄を引く為。人などは
乗させない。人で乗るのは上級官人のみ。
古代街道約10数キロごとに設置された
駅家(うまや)なども、そこで宿泊休憩が
できるのは上級官人のみ。一般人民はそこ
らの路傍で各自勝手に寝とけ、という命令
だった。逆らうと獄入りか仕置きか殺され
る。
「朝廷」とはそういうものだったし、徴用
というのはそれだった。

つい数十年前の昭和にも徴用があり、国民
の殺生与奪権が天皇に委ねられた。
軍人ではない者たちを兵隊にして戦争に
刈り出した。
気のいい八百屋のおっちゃんや酒屋や
百姓や漁師のお父さんたちが赤紙一枚で
に取られて、殺生与奪権が国家に集約
れた。
そして、多くの国民が国家によって現実
的に殺された。
殺したのは敵国ではない。自国の国家が、
家族を引き裂いて勝手に軍事徴用で民間人
を軍に捕り、そして「お国の為に死んで
来い」だったのである。
事前にその事に疑問を抱かなせないような
国民洗脳は完璧に完了していた。
逆らうと片っ端から特高がひっ捕らえて、
拷問で殺した。
また、密告社会を作り、国民同士を疑心
暗鬼にさせ、人の心に闇を作った。
準備が出来てから、開戦に臨んだ。
日本はそんな国だった。
その残像は今でも根強く残っている。
残滓を滓とは思わずに、「美しいものだ」
とする人々によって。
人を殺せば殺す程「勲章」が貰えた事を
誇らしく思う人たちによって。


嫌がらせ

2021年07月28日 | open




まあ、日本にもネラーやSNS馬鹿のような
クズどもがわんさかいるんだけどね。
やってる事は一緒。
国は関係なくクズはクズ。

うどん むらさき 〜岡山県井原市〜

2021年07月28日 | open


本日再び岡山県井原市に。
江戸期初期から幕末まで続いた刀鍛冶の
備中水田国重一門の鍛冶場があった場所
そば。

昼にセルフの讃岐うどんを食べてみる。












面白い味。
可もなく不可もなく。
全く美味しいうどんではないが、全くまず
いうどんでもない。
一言でいうと、そこらのスーパーのパック
うどんのような味。コシは一切無い。
うどんマニアのワイルド7の飛葉ちゃん
だったら、「こんなのうどんじゃねえ」
とか言いそうに思えるが、飛葉は言わず
に黙って食うだろう。
そして、馴染みとなったら、店のおばちゃ
に会いに通うだろう。
イコの店VONだって飛葉ちゃんは「まずい
コーヒー」と言ってたくらいなのに他の
メンバーと共に常連だった。
飛葉はそんな感じ。

天神峡

2021年07月28日 | open


天神峡。岡山県井原市芳井町。
















古刀備後三原鍛冶の末裔は備中青江鍛冶
の流れの一つと合流して安土桃山以降の
新刀期の鍛冶流派を形成した。
日本史における歴史区分と日本刀史に
おける区分は合致しておらず、日本史に
おける近世の開始の織豊時代は、日本刀
の世界ではまだ「古刀」という期間に分類
する。
「新刀」の開始は慶長以降というのが
日本刀界での定義となっている。
また、日本刀界の概念的区分では、桃山
文化というのは江戸初期まで流れ込む。
そのため、刀装具などでは製作時代は江戸
時代初期であっても、桃山文化の範疇と
して規定する作品群がある、という事に
なる。
そもそも歴史とは、現代の学校の学年の
年度替わりのようなきっちりした区分な
どは存在しない。連綿とした時間の流れ
があるのみなので、時代区分分けは全て
後世の「定義づけ」でしかない。

古刀三原鍛冶と青江鍛冶が合流して形成
された鍛冶集団に苗字を大月とする一族
がいる。
備中国水田に住した。
そして、鍛冶銘を国重と名乗ってから四代
目の国重から作法をそれまでの備後備中伝
から相州伝に転じた。
新刀水田派の一部は大阪や江戸にも移住
して駐鎚した。それのみか、各地を古代
鍛冶のオロチ=オロチョンよろしく転々
と周遊して鍛刀した。
また、備中本国でも水田鍛冶は幕末まで
存続した。苗字は大月のままだ。
幕末には大月源という記録上史上初の
女性鍛冶が誕生している。
幕末の大阪の水田派の池田鬼神丸国重は、
新選組の斎藤一も愛刀としていたとの説
もある。

今では信じがたい事だが、江戸初期の水田
国重のうち、大月与五郎の国重作は大与五
と呼ばれて、江戸期の古剣書を見ると虎徹
興里よりもずっと高額で売買されている。
それほど、出来栄えの良い利刀を水田派は
作っていたのだろう。
一方、幕末の水心子正秀は、水田国重派
を蛇蝎のように嫌っていたフシがあり、
各地で水田国重が折損したという情報を
集めまくって弟子たちと共に嘲笑し、それ
の侮蔑ぶりを記録(刀剣実用論)に残してい
る。正秀、人的性格がかなり悪い。
高邁ぶっていても、弟子に執拗に金の無心
を繰り返していた人物が水心子なので、
推して知るべし、なのだが。
刀鍛冶の中にも、弟子の妻を寝盗ったり、
弟子に自己が属するカルト宗教への入信
を強要したり、執拗なパワハラをしたり、
他人の作の刀で鉄斬り成功とねつ造したり
等、ろくでもないのはいつの時代でも大勢
る。
一方、馬鹿なの?という位に馬鹿正直な
生真面目な刀鍛冶たちもいる。

水心子正秀の場合は、折損事故のあった
国重が果たして正真かどうかの真贋鑑定
など抜きにして、そうした事をやって喜
んでいた。
薩摩藩などはそれを盲信し、家中に水田
国重の所持を禁じた程だった。
虎徹でさえ、存命中にすでに贋物が出回っ
ていた程である。虎徹よりも高額取引され
ていた水田国重の擬物が大量に存在した事
は類推としてまず確実だろう。

しかし、そうした「水田国重は折れ易い」
とする水心子がねつ造した創作話を打ち
消すように、幕末のある志士は断じた。
「国重は折れ易いというが、それがしの
国重は刃ささらの如くなりしも一向に折
ず」と。
実際の剣戟の斬り合いで散々使ってもその
国重は折れはしなかったという事実を示し
た。多分、正真物なのだろう。
また、新選組の斎藤一が池田鬼神丸を使用
していたというのが事実ならば、やはり、
実戦刀として不足は無かった事にもなる。
ちなみに、我が家の家伝刀には備中水田
の山城大掾大月伝七郎源国重作の水田国重
と個人名不詳の水田国重がある。
その国重は、戦後、私の叔父が玩具にし
て、城下からほど近い野山に行って散々
木の枝を切断する切り遊びをした、とい
う。刀身は何ともなかったとの由。
ナカゴ部の重ねは9ミリ程ある。

「水田国重が折れ易い」というのは一概
には言い切れない。
水心子のフレームアップのねつ造恐るべ
し、という実態が実は歴史の中であっ
のではなかろうか。
もしかすると、あたかも日本全国鍛冶宗匠
のような立場にあり、日本刀の製作方法が
途絶えていた時期に全国鍛冶が正秀に弟子
入りしたが、備中水田一門はなびかなかっ
たので、その腹いせかも知れない。
とにかく、執拗に水田国重のみを狙い撃ち
にして水心子正秀は排撃している。記録を
読むと、その尋常ならざる異様さが浮かび
上がって来る。
まあ、現代でも似たような事はあるんです
けどね(笑

その備中水田国重一門が新刀期に住した
場所(現在の岡山県井原市)から10km程
北に上がった所に小田川上流の天神峡が
ある。
さらに上流には「三原」なる土地があり、
付近には鉱山もある。
ここいらも赤目(あこめ)砂鉄の産地だ。
赤目は出雲の真砂砂鉄よりも刀剣作製に
質性が良いのでは、と私は踏んでいる。
備前、備中、備後の刀剣が中世において
実用的に極めて優れた利刀でならしたの
は、原料にも大きなファクターがあった
のではと私は推察している。

そして、かなり瞠目するのが東北の鐵だ。
質性が全く出雲とは異なる。
現代刀鍛冶たちは、日刀保たたらの商品名
「玉鋼」という砂利のような鋼でよく刀の
形にできるなあと感心する。
実際に切る事を一切想定していない現代
美術刀剣という戦後の新ジャンルに属する
からできるのだろうが。
現実的には包丁の刃先のようになり、簡単
に現代刀は折損する。むしろクズ鋼と見下
されている日刀保B2鋼のほうが斬鉄刀が
出来たりする。
これは、金属的に素晴らしい出雲の鋼の
普及によって日本刀が一気に変容して刀剣
としての実用性を著しく欠いた現象が発生
した新刀初期の再現ともいえる。
今の和包丁の刃先はすぐ欠けるでしょ?
それには意味があるんです。物理的、金属
学的な。
介在物は「不純」ではないのよ。特にα系
介在物は。それに方位性を持たせて連結
させると、コンクリート建築の鉄筋と同じ
になる。アンコで別鋼を中にいくら入れて
も刀は駄目なのよ。鋼その物が純過ぎる
と。
土壁だってシュロを中に入れないと崩れて
しまうんだしね。

斬鉄剣作者刀工小林康宏が作刀に用いる
鐵の一部。自家製鐵。




邪馬台国 山都

2021年07月28日 | open

(山都)


邪馬台国の場所の比定は江戸期から大和国
説と九州説に分かれて論争となっている。
ただ、近年固められようとしているヤマト
王権=邪馬台国=奈良説だと、九州にあっ
た夥しい鉄器文化は一体何?となる。

明治以降も東京帝大と京都帝大の研究者
の間で大論争となっている。
東京帝大の白鳥庫吉博士は邪馬台国九州
阿蘇説を主張した。




阿蘇に山都あり。
卑弥呼は日巫女であると同時に火の巫女
ではなかったか。

ただし、邪馬台国を阿蘇山都とすると、
南方のククチ=菊池と争っていたという
事実に不整合が出てしまう点はある。
菊池の位置は山都の北部だからだ。


だが、日本創生の頃の文明文化の発祥地
が九州である事は間違いないだろう。
畿内の王権文化にしても、突然大和に降っ
て湧いたような事はあり得ない。
降って湧く日本神話においても、天孫降臨
の場所は九州だ。
多分、文化を持った一団が半島から九州
に渡来したのだろう。
稲作とロクロによる焼き締め新土器の文化
持って来て。
それは、太陽信仰を主とする部族が。
さしあたり、日本の製鉄開始が6世紀から
などとする現在の中央政府発表などに拠る
限り、説明は一切つかない。
縄文末期から国内製鉄の様子は遺跡から
発掘されているのに、認めようとはしな
い。
赤土から鉄を作った原初古代製鉄を認め
ようとしないからだ。
6世紀以降の製鉄は、大和朝廷の砂鉄製鉄
の事だろうに、製鉄=砂鉄という大和朝廷
神格化により、それ以前の日本列島の産鉄
文化を認めようとはしないのが御用学者
たちの態度だ。
きっと、歴史の真実が明らかになると、
大和朝廷の数々の全国制覇の所業の事実
も同時に明らかになる事なので、「美しい
日本」説が崩れるから絶対に認めようと
しないのだろう。

鐵とは金(てつ)の王哉(おうなり)である。
鉄を制した者が世界を制する。
鉄器は、武器だけでなく、穀物増収に関し
て爆発的な増産が可能だからだ。
そして、日本は石器の石包丁から鉄器導入
により一気に国内統一へと向かった。
最初は連合王権として。
邪馬台国の時代には卑弥呼を共立する事で
倭国騒乱は収まった。反抗するククチ以外
は。
そのパターンをヤマト連合王権も為して
る。
邪馬台国とヤマト王権が同一か否かはまた
学術界で論が分かれるが、古墳遺跡研究
のみの偏重がもたらす鐵の存在を無視し
た観点からの古代王権の遷移をみる事は、
愚に等しい。

日本刀の発祥地は鳥取県である、とする
鳥取県の行政の主張などは論外。
おらが村のカッパ伝説じゃないんだから。

上野由岐子選手 〜ソフトボール〜

2021年07月28日 | open



武芸者のようだ。
最近は武術、武道の世界では殆ど武芸者
おらず部外者ばかりだが、彼女は本物
だ。