渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

発音、イントネーションで判る出身地

2021年07月14日 | open



映画『彼のオートバイ. 彼女の島』
では、未来において主人公の橋本巧
(はしもとこう)が過去を振り返って
ナレーションで語る回想録としての
表現描写を採っている。
作品でこのコオの未来の声をナレー
ションしているのは映画評論家で
CMディレクターの石上三登志さん
だ。

語りを聴いていると、どうにも東京
言葉や標準語ではないイントネーション
が非常に多い。
九州弁に似ていると感じた。
石上さんの来歴を見てみると、1939年
に東京世田谷に生まれているが、高校
は福島県の高校を卒業している。大学
は東京の明治大学だ。

あのイントネーションは福島訛りなの
だろうか。
九州イントネーションと東北地方の
イントネーションは非常に似ている
部分が多くある。
上掲の画像のシーンでは「僕は彼女
を捕まえた」の「捕まえた」がまるで
東京≒標準語イントネーションでは
ない。
東京式ならば「つ- か- ま- え- た-」
の抑揚なのだが、石上さんのイントネー
ションは「つ_ か- ま‾ え- た_」になる。
これは広島弁でも同様のイントネー
ションとなる。

日本語の場合、発音はともかくイント
ネーションは育った地方の訛りが
なかなか取れない。
出生地ではなく育った出身地の言葉の
訛りが。
例えば、中国地区の人間は「二千円」
というイントネーションは標準語で
発声するのが困難であり、すぐに
出生地が判ってしまう。
標準語では「に- せ- ん- え- ん-」で
あるところ、広島をはじめとする
中国地区では「に- せん‾ え- ん_」と
必ずなってしまうのだ。
また、中国地方出身者は標準語の

「鯨」のイントネーションでの発声が
なかなかできない。
大工道具の「ノミ」等、二字単語の
場合もこのケースがとても多い。
標準語の「ノミ」は「の_ み‾」で
あり、広島弁のような「の‾ み_」
ではない。
だが、イントネーションは出生地の
訛りがなかなか抜けず、標準語の
つもりでも標準語をこなせないケース
が多くみられる。
一般人の一般生活では支障はないが、
これが俳優や声優の「仕事」として
首都圏の人間を演じる時には大きな
障壁となってくる。

ただし、東京弁も江戸エリア育ちの
人たちは江戸訛りとなり、発音その
ものが正確に発音できないこともある。
例えば、「康宏」という単語などは
本人は「やす
ひろ」と言っている
つもりでも、客観的
には発音は「やっ
ちろ」に聴こえるケースがある。

また、本人は「ひびや」と言っている
つもりでも「しびや」と聴こえる発音
になってしまうのが江戸弁の特徴だ。
東京人にとって「は行」が「さ行」に
聴こえる発音しかできないのは有名
な特徴だが、厳密には「ひ」は「し」
ではなく、「『ひ』と『し』の中間音」
として発声されている。だが、サラッ
と聴くと「人」は「しと」に聴こえる。

また、言い回しも東京江戸弁は標準語
とは異なるケースも多々ある。
例えば「女郎屋」は「じょろや」では
なく「じょうろうや」となる。イント
ネーションは全音平坦だ。「じょろや」
の場合は抑揚がつくが、「じょうろうや」
はすべて横並びの音階で江戸弁では発声
する。

言葉そのものが標準語とは異なる場合も

やはり東京弁にも多い。
「やめろと言ってるだろ」の標準語は
東京江戸弁だと「やめろっつってんだろ」
になる。
この東京言葉は日本語に不慣れな外国人
は結構とまどうらしく、「~じゃない」
という単語も「~ではない」という
語句の東京口語であることに不知だと
言っている事が意味不明だったりも
するようだ。横浜の「じゃん」よりは
「~じゃない」は標準語的に国内では
一般化してきてはいるのだが。
さらに江戸寄りに訛ると「じゃない」は
「じゃねえ」の伝法な訛りに
変化する。
岡山弁が同様の変化形態を見せる。

最近では東京限定だった語尾の「~さ」
大阪人でも使うようになってきており、
30年前には想像できなかった言語拡散
の現象もみられる。

役者などの場合、標準語を標準語の発音
とイントネーションとして発声できない
となると、かなり役が狭められるので
仕事の領域が狭まる。
それを自由自在にこなすのがプロなの
だが、なかなか本物のプロは少ない。
映画『彼のオートバイ.彼女の島』で
も、竹内力は九州から出てきたばかり
(淡路に勤務経験はあるが)なので、
台詞を言う時に東京のスタッフに「これ
でいいですか?」と訊きまくったと
製作秘話を明かしている。
余談だが、困ったのは、台本は丸暗記
してすべて一言一句間違いなく覚え
込んできたのだが、撮影現場でコロコロ
と台詞を変えられたので、とても困惑し
苦労した
とインタビューで語っている。
そして、本作においては田村高廣の尾道
弁がかなり
本格派だった。活舌がはっきり
しすぎ
ているが、違和感は無い。
ただ、私は東京出身者なので、真実の

真偽には理解が及んでいないかもしれ
ない。地元の尾道の人からしたら、田村
高廣の発声も本物ぽくは聴こえないの
かも知れない。

標準語を自分自身の基語としている
エリアで育った人が俳優になった場合
は、標準語の台詞はごく自然に話せる
が、方言には方言指導の担当者に徹底
的に学ばないとなかなか方言の台詞
は本物ぽく話すことはできない。
最近のアニメで聴いているだけで腹が
立つのは、たぶん東京出身者の声優
だろうが、でたらめな関西弁、大阪弁
を話していながら関西人役をやって
いる声優が多い事。
プロとして研究不足が過ぎる。
特に『名探偵コナン』などではよく
出てくる。妙ちくりんなイントネー
ションの大阪弁のつもりの声優が。
声優とは声の俳優なので、プロとして
もっと研究してほしいと願う。

市川雷蔵さんもねぇ・・・、どうしても
眠狂四郎の台詞回しが江戸弁ではなく
ってねぇ・・・。

モノマネ芸人が秀でている面は、徹底的
に声帯模写や形態模写を完成させる事だ。
プロだから当然というハードルがある中、
モノマネ対象の人物のしぐさの特徴や
台詞回しを完璧にコピーする。
一般的な俳優や声優は、高みから芸人たち
を見下していないで、その取り組みの姿勢
を学ぶべきではなかろうか。
「表現者」のプロとして。


狼雲

2021年07月14日 | open


先ほどの西の空。
龍雲というのはよく見るが、狼雲という
のは初めて見た。
友人撮影。

こういうワンチャンスショットはなかなか
撮ろうと思って撮れないので、タイミング
に幸運が要る。
巡り合わせ。

生きている地球に生きている。



メディア版の錯誤『彼のオートバイ.彼女の島』デジタルリマスター版DVD

2021年07月14日 | open



先に角川ビデオ版DVDの字幕についての
明らかな誤りについて指摘した。
だが、デジタルリマスター版DVDの字幕
では、この映画を根底から台無しにする
誤りを犯してしまっている。
それは、二人でのツーリング中コオが先
にドライブインに到着して待っていたら、
トラックドライバーたちが女性ライダー
がすぐそこで大事故で即死したという
話をしているのをコオが耳にする。
それがミーヨなのではと悪い想像がコオ
の頭をよぎる。
そして、慌てて外に出て行くのだが、
その時、ミーヨが遅れて土砂降りの雨
の中、ドライブイン一美に到着するのだ。
「ごめんね。遅れちゃって」と笑顔で
言うミーヨ。
そしてコオは安堵して呟く。
「ミーヨ・・・」

その「ミーヨ・・・」と名前を呟く時の
字幕が「いいよ・・・」になってしまって
いる。
これ、全然あかんやつだと思いますよ。

結局、この映画作品は、まず初っ端に
題名が作品オープニングにある「彼の
オートバイ.彼女の島」ではなく、映画
ポスターやパンフレットやビデオやDVD
等で「彼のオートバイ 彼女の島」と
している時点で大きな間違い。
間違いというか超適当な出鱈目を
かましている。
そして、DVDでは角川ビデオ版DVDでも、
デジタルリマスター版DVDでも字幕は
手ケトン大魔王という事が現実として
存在している。

1986年に映画評論家が指摘した「瑕疵
ある作品」というものは、販売メディア
の商品となっても作りが手抜き出鱈目
でいい加減なものになっているのだろう
か。
それにしても、ラストのコオの台詞を
別物にしてしまうのは非常にいただけ
ない。

斬鉄剣小林康宏の真剣日本刀を使用
した藤岡弘、さん出演の『SF ソード
キル』でも超トンデモの字幕があった。
それは氷漬け仮死状態から現代に蘇った
戦国時代の武士が、米国で逃亡の末
最後にはすべてを理解して自ら入水
して死ぬシーンのラストの台詞だ。
「武士の道は理じゃ」とマカベ一族の
サムライ藤岡は叫んで水に飛び込む。
だが、それが字幕では「武士の道は
死じゃ」になってしまっているのだ。
さらに、明らかに「理じゃ」と言って
いるのに、30年後にDVD版になった
際に藤岡さんがボーナストラックで
音声解説している時、「この武士の
道は死であるというところが」など
と言ってしまっているのがなおさら
お粗末に拍車をかけている。

この『彼のオートバイ.彼女の島』
は、メディア版がかなり残念な
製作者の仕事として具体的に実害
が現れている。
そこを踏まえて鑑賞すべき映画だ。

コオの学友の川崎ナンバー(川崎せ205)
の CB400Four はスポークからコムス

ターホイールに換装している。たぶん
形状からしてヨンフォアの次に出た
CB400T ホークの物だろう。ショート
ストロークで嘘みたいにヒュンヒュン
回るエンジンの。


コオの音大生の友人はCB250R(ナンバー
川崎す4820)も所有し、それを最初に
ミーヨ
に貸し出した。
ミーヨがコオから盗んで乗り逃げした
カワサキW3のナンバーは品川く7751だ。
但し、新宿区は練馬ナンバー管轄となる。
作品表現に整合性があるならば、橋本巧
のアパートは新宿区ではないという設定。

ちなみに品川ナンバーが付与される地区
は、品川、渋谷、目黒、港、千代田、
中央、大田の各区内。
山手線を時計盤で例えると、皇居を中心に

皇居周辺一体とそこから放射状に5時から
8時に広がるエリアだ。


葡萄

2021年07月14日 | open


庭の葡萄がホンニャラヘーと伸びて来て、
実が成っている。




毎年成る。

こんな感じの葡萄。結構うまい。


ピストン

2021年07月14日 | open

灰皿に流用するため人から貰ったスズキ
単気筒199ccの廃棄済みピストン。

ヘッドは綺麗なものだが、


側面はあららとなっている。


こちら側は、もう完全にアウトである
事が現れている。


このエンジン個体は、ロッドが足が出て
エンジン自体がオシャカになった。
全バラしたのを見たら、中が複雑骨折だ
らけのよなエンジン内部になっていた。
まあ、ピストンがこうなのだから、そう
だろうなあ。
シリンダーとピストンはアルミの切り粉
を噛んだのではなかろうか。
エンジンが止まる直前の音を聴いたが、
ギャンギャンガラガラガギョーンみたい
な音をさせていた。
ドラム缶を鉄棒で叩いたような音。

なぜそういう状態に至ったかは、推定原因
がいろいろあるが、どれが該当するのかは
分からない。
載せ替えた中古エンジンは好調のようだ。
フツーに外装カスタムして通勤で使って
いる。
外装カスタムは、外見はどう見ても軍用
車(笑

趨勢

2021年07月14日 | open


今シーズン、なんだかやけにまだ首位の
座を保っている(笑




梅雨明け

2021年07月14日 | open








梅雨が明けた。
これからは夏競馬(笑

物語の整合性『彼のオートバイ.彼女の島』

2021年07月14日 | open



役者の稚拙な演技と取って付けたような
台詞が学芸会以下で観るに堪えない映画
作品なのだが、それでも何度も観てしまう
大林映画の作り込みがこの作品にはある。
ここ数日で6回観ている。
毎回新たな発見がある。

先ほど、ふと気づいた。
ミーヨがナナハン免許を取り、コオの
カワサキW3と共に消えた。瀬戸内の
島に帰ってみようと思うという書置き
を残して。
そして、コオは何日か過ぎて、スナック
「道草」で大学の仲間から「ひとっ走り
彼女の島へ会いに行ったらどうだ」と
言われる。「表に俺のCBがある」とキー
を渡されて。
コオは再び彼女の島を訪れる。
だが、これ以前「そして秋がやって来た」
とナレーションが入るシーンがある。
以前、コオがミーヨの島に行ったのは
夏の盆踊りの時だ。
(原作では岡山県の白石島。源平合戦で
敗れた武士を悼む白石踊りが残っている。
映画では広島県尾道市の岩子島で撮影)
そして、「島では ほとんど予期したよう
にミーヨが待っていた」というナレーション
と共にコオはミーヨと再会する。
それが上掲のシーンだ。

ちょっと待て。
なぜ秋深まる季節に盆踊り?
秋祭りの発祥は東京(旧江戸)の烏森神社
の祭りだ。全国的な普及が江戸期以降仮に
あったとはいえ、このシーンでの島民たち
の踊りと御詠歌の伴奏歌は夏の「盆踊り」
とミーヨたちが言っていたものと全く同一
だ。
これ、映画を観ていたら違和感はなかった
のだが、論理的整合性としてはおかしくは
ないか。

ただ、コオは「風が去年と同じだ」と言う
ので、出会っていろいろあったのは昨年
という設定なのかも知れない。
最ラストは1986年4月の日付の写真なの
で、出会いは1984年という事になる。
整合性を正すとそうなる。
となると、この映画の設定は1984年夏
から1986年4月までの物語、という事に
なる。

撮影は、岩子島の島民をエキストラで
集めての盆踊りのシーンは、一度だけで
二つの季節のシーンをダブルで撮影した
のだろう。
未着手だが、細部を詳細に現認すれば、
たぶん二つのシーンは映像の中で同じ
ような着付けや島民の同じ配置等が
確認できるだろう事が予測できる。

流して作品を観ていたら今まで気づかな
かったが、物語の組み立てとしてはおか
しい点があちこちにみられる。
1986年のキネマ旬報では、ある映画評論家
は本作品についての記事において、「瑕疵
多き作品」と評していた。
然り、である。
映画というものは、製作者の映像的な撮り
のミスが実に多い。どの映画でも整合性
が欠落している事が多くある。
古くは『ローマの休日』に見られた。
階段のある広場でアイスクリームを買いに
行くシーンでバックに時計台が映り、それ
がワンカット移ると何時間も経っていたり
する。アイス買いに行くのに何それ?な
のだが、そうした事は撮りの配慮のミス
だ。
世界のクロサワ映画でも『七人の侍』で
は、カットにより侍の刀の鍔がまるで
別物になっているシーンがあり、天下の
クロサワでもやらかしている。
そうしたことが映画ではよくあるので、
そのミスだけは絶対に避けたいと言明
していた山田洋二監督は『たそがれ
清兵衛』
にて大杉漣さんと真田広之の
決闘シーン
で大杉さんが左手に大きな
楕円形の指輪をした
ままだったのに
気づかず、気づいてから
は役者のスケ
ジュールが合わずに撮り直し
不能と
なったためそのまま作品にして
しまっ
た、というエピソードもある。
映画ではそういう撮りミスは実に多く
ある。どの映画でも一ヵ所はある。
アクション映画で多いのは、拳銃の

ハンマーを起こしているのに、次の
瞬間ハンマーが下りていたりとかが
多くの映画で見られる映像だ。
『プレデター』では軍用ブーツで踏み
つぶしたサソリが足を上げると逆向き
で潰れていた、とか。
なぜそういう事が起きるのかというと、

映画は物語の流れ通りに撮影時間は
進まず、いきなりラストシーンから
撮影という事もある。
そして何度も何度もテイクをする。
その際、物語の流れを視覚的に正確
に繋げる事に対して間違いが起きる
のだ。カットが移ったら瞬時に人の
配置がまるで異なるなどはよくある。
本来は映像作品としては「あっては
ならない事」なのである。
特殊な映像視覚効果の映画以外は、

本来は舞台劇のように時間の流れが
継ぎはぎではなく繋がる表現描写で
ないと、動く写真、活動写真として
はおかしいことになるのだ。
私が高校の時に撮った映画作品(東大
の五月祭で上映された)では、
東京
赤坂の街を主人公が駆け出したら

次のシーンでは湘南の夕陽の浜辺に
いた、という描写があるが、これは
心象風景を描いたものだからこれで
よい。意図だからだ。
そうではなく意図せずの不整合が
映像に現出するのは、映画としては
雑であり、瑕疵になるのである。

多くの映画に見られる映像上の不整合
というこれらは「撮りのミス」だ。

この『彼のオートバイ.彼女の島』では
まず題名表記が統一されていない事が
不整合の代表選手として挙げられる。
他にも撮りミスは多く見られるが、
コオと彼女である冬美
の兄との決斗の
シーンで、立会人の役者
がバイクに乗れ
ないためスタッフが
後ろからバイクを
手で支えているのが
映像に映り込んでいる。
明らかに撮りのミス、作品としての瑕疵
である。
この役者がバイクに一切乗れないのは、

乗り出しの動く映像の姿勢や、ブレーキ
をかけて停止の際に前輪をロックさせて
超絶ダイブさせてしまっている点などから
すぐに判断ができる。


こうしたものは撮影上のミスだが、
プロット自体の不整合が映像として
使用されるというのは、果たして
映画としてはどうなのだろう。
それが上述の「秋なのに盆踊り」と
いう「彼女の島」での二度目の対面
の場面だ。
さらりと流していたが、これは非常に
おかしい描写という事になる。

評論家の言う「瑕疵ある作品」なのだ。
だが、それでも何度も観てしまう。
そうしたスルメイカ映画であるのが
大林マジックなのだろう。
意義ある作品ではなく意気ある作品、
心意気の作品だ、と大林監督は本作
を指して言う。
そして、「僕はこの『彼のオートバイ.
彼女の島』は好きな映画ですよ」と。
自作を客観視して明言している。

大林作品の特徴は、映像の絵がまるで
純文学のように美しい事だ。
それを見る。その事を観るのが大林
映画に何度も回帰する事の背景のよう
に思える。
役者の演技がこれほどひどい作品も
日本映画史上稀有である『彼のオートバイ.
彼女の島』であるのだが、なぜ何度も
観ようという気が起きるのか。
それは「不完全なもの」=人間の本質を
大林宜彦監督はきっかりと描き切って
いるからだと私は感じる。
人間不在の映画作品など、人をして観る
を起こさせしむるか。
否、だろう。
大林映画は、良い。