今、そのハウスキューはナビュラ
(星雲)ステインを施してクリア
塗装期間中。
このクリア塗料は時間がかかる。
まだ砂吹きよりちょい厚程なの
で表面はつんつるてんではない。
モチーフはこれ。
今、そのハウスキューはナビュラ
(星雲)ステインを施してクリア
塗装期間中。
このクリア塗料は時間がかかる。
まだ砂吹きよりちょい厚程なの
で表面はつんつるてんではない。
モチーフはこれ。
四ツ球撞きてえ~。
日本ビリヤード協会は、正式
記述を「四ツ球」としている。
キャロムビリヤードの中の一
種だ。
私は四ツ球から始めた。
高校・大学時代に遊びで撞い
たのは別として、本格的に撞
き始めたのは社会人になって
からだった。
法律事務所のパラリーガルの
先輩に新宿アシベに連れて行
かれた。
それから上野のビリヤード肥土
(戦前にマッセ日本一だった人。
鈴亀さんの直弟子)と銀座のビ
リヤード銀座(スリーの甲斐
譲二プロの店)にあしげく通っ
た。肥土先生の店がメインだ
った。
その後、ポケットに転向した。
英語の「ビリヤード」とは
キャロムビリヤードの事を
指す。
現在日本人がビリヤードという
と思い浮かべるプールは正式
名称はポケット・ビリヤードで
あり、ビリヤードとはキャロム
の事なのだ。
1986年暮れに日本で映画『ハス
ラー2』が公開されて、爆発的
に「プールバー」が増えてから
日本人はアメリカン・プールを
「ビリヤード」であると勘違い
して誤認のまま現在に至る。
そして最近では「穴の無いビリ
ヤード台」を見て不思議がると
いう無知さ加減になってしま
っている。ポッケの若い30代の
プロまでそのような発言を動画
サイトで見せたりする。
200年前の大昔はテーブルに穴
があり、手漕ぎボートのオール
のようなメイスという器具で穴
入れ競技をするのがビリヤード
だった。
だが、やがて、玉同士をぶつ
ける非常に難しい競技が穴無し
台として分離発達し、それが
ビリヤードと呼ばれるように
なった。
一方アメリカで独自に発達した
のは穴あり台で紅白玉を落とす
ゲームだった。1860年頃までは
それ。それがのちに英国に伝わ
り(玉撞きの逆輸入)、インド
で発達し、英国は廃れた。
廃れたスヌーカーを英国にインド
から再輸入したのは1900年代に
入ってからだった。
1860年代のアメリカの南北戦争
の頃からカラーボールを使うアメ
リカ独自の「プール」=が登場
した。
キャロムはヨーロッパで大流行
したが、西欧だけでなく米国で
も格式高い紳士のスポーツと
してはキャロムが主体だった。
これはビリヤードを西欧から
米国が輸入した1740年代から
1960年頃まで。
アメリカ合衆国は1400年代末期
にヨーロッパによって侵略入植
が開始され、1776年に戦争で
勝利して西欧から独立した。
中米も南米もスペイン語圏の
アメリカだが、一般的にアメ
リカと言ったらThe U.S=アメ
リカ合衆国の事を指す。
中南米はスペインが世界最大の
侵略国家だった頃に侵略入植
したのでスペイン語を母国語
とする国家(ブラジルはポル
トガル語)群となっている。
スペインは日本も中南米や
フィリピンのように侵略して
統治しようとしたが、諦めた。
日本には世界最強の軍団であ
る武士がいたからだ。手を出
したら嘘でなく本当にスペイン
本国が滅びます、と使節団は
スペイン国王に親書を送って
いる。なので軍事制圧ではなく、
宗教制圧でスペインは日本を
間接統治しようと企てた。
だが、それも天下統一後の日本
の支配者となった徳川家により
完全シャットアウトされるに
至った。日本の宗教は為政者
に都合のよい別な外国宗教の
仏教(鎌倉以降のインスタント
葬式仏教)が利用されるように
なった。同じ外国の宗教でも、
神の下は万民平等を説くキリ
スト教は武家政権には不都合
だったが、とことん差別的な
仏教という外国宗教は利用し
やすかったので好都合だった。
それに古代神道を融合させれば
万事万端人民を手なずけられる。
ただし、一向一揆の例もある
ので、宗教への過度の民衆の
入れ込みは監視を続けた。
江戸期初期には、大名たちは
一向宗や浄土真宗にはキリスト
教ほどではないにせよ、かなり
弾圧を加えている。
(フランスではカルト性が高い
として浄土真宗は禁止。オウム、
統一協会、創価学会もフランス
では現在も禁止。民主主義に
反する危険なカルトに規定され
ている)
さて、実はアメリカでは、戦後
にプールが絶滅しそうになって
いたが、映画『ハスラー』(1961)
がプール復活に火をつけて、
以降全米選手権が復活して、
さらに全米オープンも開かれる
ようになった。
ここにきてプールこそがアメ
リカを代表する玉撞きとなった。
アメリカも日本も、映画によって
玉撞きが大流行したのだった。
その映画の主人公はどちらも
ポール・ニューマンであり、
主役のエディ・フェルソンが
日米の玉撞きの歴史を作った
のである。
カリフォルニア州オークランド
出身のファースト=疾風のエディ。
35才のポール・ニューマンが25才
の役を演じた。
60歳時点のニューマンが演じた
1986年の『ハスラー 2』。
前作の丁度25年後の公開だが、
物語も25年後の設定になって
いる。となると、50歳の役とな
る。少し実年齢と年齢が合わな
い。50歳にしては老け過ぎだ。
ポケットの楽しみは荒馬ライディ
ングのような楽しみで、四ツ球
の楽しみはカナディアンカヌー
を静かに走らせるような楽しみ
だ。
私はそう感じる。
燃える捜査網 第01話[公式]
1975年10月放送のマイナーな
千葉真一刑事ドラマ。
これは1975年夏の新宿東口。
1975年中2~中3当時の遊び場
は上野アメ横、原宿だった。
新宿デビューは翌年の1976年
の高1の時からだ。すぐに庭
となった。
高校~学生時代にかけても
新宿は慣れ親しんだ場所だ。
社会人になってからはゴール
デン街が根城になっていた。
ここに映っている高野フルー
ツパーラーは子ども時分に
母親に連れて行って貰った
事があるが、自分から初めて
行ったのは高1の時にジャン
パースカート制服のお嬢様
学校の彼女とだった。
新宿はマイタウン。かなり
長く新宿区民でもあった。
新宿区は行政がめちゃくちゃ
良い。
第一話で事件の核心となる
飛び降り自殺をする中学生
は鶴岡弥生さんが演じている。
私と同学年のリアルタイム
中学生のマイナー女優さん。
その後歌手デビューもしたが、
売れなかった。
アニソン(スーキャット)も
歌っていて、堀江美都子の
ような歌い方でなかなか良か
ったのに、コアなマニアだけ
知っていて爆発的な人気には
ならなかった。
同時代デビューの松本ちえ子
などよりずっと歌は上手かった。
Classic TV Theme: Cimarron Strip (Stuart Whitman)
ドローンさえ存在しない1967年。
どうやってこの撮影したのだと
思いますか?
ヘリだとしたら最初は真横から
なので地面に接地しそうな超
低空で馬と並走飛行という事
になる。それから上昇しても
カメラがずっと捉えている、と
いう。
今はドローンで簡単にできます
が、1967年当時はかなりの飛行
と撮影のプロフェッショナルで
ないと撮影不能です。
日本ではこうした映像製作は
無理だったでしょう。アメリカ
ならでは。
この映像を小学生の時に初めて
見た時は衝撃的だった。、
アメリカの人気ドラマの『シマ
ロン』(1967)は1972年に日本で
放送された。
1880年代、オクラホマ。
インディアン居留地とシマロン
の町の境界の「シマロン・スト
リップ」で起きるさまざまな事件
や出来事を連邦保安官のジム・
ウンが解決して行く西部劇ドラマ。
もう、ウエスタン好きのガキども
に大人気だった。みんな観てた。
連邦保安官を演じるスチュアート・
ホイットマンが使うSAAは7-1/2
インチ銃身モデルだった。通称
キャバルリー。1873年に米軍に
採用が決まったコルト・シングル・
アクション・アーミー=SAAだ。
ただ、当時は日本だけでなく米国
でも一番人気があったSAAは5-1/2
インチ銃身モデルのピースメーカー
だった。日本でもそれが大人気。
私が好んだのは4-3/4インチモデル
だった。当時はそれ好みは少な
かった。
今でこそ、米国でもカウボーイ
シューティングが人気が出て、
SAAといえば4-3/4インチバレル
が標準であるかのような風潮が
できた。
日本でもSAAならば短銃身、と
いうような風潮が出来上がって
いる。
しかし、1960年代~70年代初期
は4-3/4インチバレルのSAAより
も5-1/2インチバレルのSAAのほう
が圧倒的な人気だったという歴史
事実がある。
西部劇に出て来るタイプも、殆ど
が5.5インチモデルだった。
日本の大人気西部劇漫画『荒野の
少年イサム』(1971~1973)でも
出て来る銃は全部5-1/2インチ
銃身のSAAだった。
私が好きだったこれを好む人は
コアな早撃ちマニアくらいのもの
だった。ごく少数。
ハリウッド映画でも、早撃ち役
が持つ銃は短銃身のこれだった
が、それは静かな演出とされて
いた。『いとしのクレメンタイン
(荒野の決闘)』(1946)など
でも、そのような特別なガンマン
を表現する演出として短銃身の
SAAが登場していた。
4-3/4銃身のSAAが一般化するの
は1980年代以降の事だ。
ただ、厳密にいうと、ピース
メーカーという俗称は、歴史的
にはある米国の販売代理店が
販売戦略で商品につけたニック
ネームであり、.45ロングコルト
弾を使うモデルにつけられた
呼称だ。
一番西部開拓で流通したSAAは
実は.44-40弾使用のSAAだった。
これは西部を征服した銃とも呼
ばれたウィンチェスターM73
ライフルと弾薬が同じだった。
そのSAAが一番普及した。
それは販売店ネームではコルト
シックスシューター44-40と
呼ばれていた。通称シビリアン。
.44口径が一番実際の歴史では
大西部では流通した弾薬口径だ
った。
だが、アメリカ人はライフルと
弾薬の互換性が無くとも、.45
口径に思いを寄せる。一発で
対象をノックアウトできる強力
弾として。
アメリカ人の.45口径への執心は
他の国の人間には理解し難い。
そして、ギターでもマーティン
などは最高機種に45というナン
バーを与えたりもした。
「45」はアメリカ人の感性を
代表する数字だといえる。
それはあたかも忌避された「13」
の対極にあるような数字として。
でも私は.44-40弾の4-3/4インチ
のコルトSAAが好きなのさ。
集中力
車作りについての提言等々。
世界トップクラスのライダーで
あり、ヤマハでGPマシン開発を
やっていた世界の本間のほんま
の話。
今回も深いい話を聞かせてくれ
ている。
長瀬智也Instagramインスタ 筑波サーキット
ハーレーだけじゃない。
モータースポーツにも親しむ
長瀬智也は筑波本コースを
走る。グー!
70年代の昔、三井さんや三原
さんたちとやっていたような
レース。
MT125の純レーサーでの全日本
や富士でのMCFAJのレース以外
のこういうレースも楽しかった。
今に続く筑波オリジナルの
ローカルレースは彼らが始め
た。
本コースでの50ccだけのレース
もあって、かなり面白かった。
初参戦は黄色のヤマハGR50だ。
ノガロやハニービーの人たちは
うちのチームとも仲良かった。
皆さん全員とてもいい人。
当時はまだWGPでもコンチネン
タルサーカスの時代で、国内で
もサーキットに来る連中は皆
仲が良かった。困った時には
別チームでも相互に助け合う。
一つのコミューンとしての場が
サーキットだった。
その10年後のようにギスギスし
ていない世界があった。
初めて鈴鹿に行った時、三井さん
からいろいろ教わりながらコース
を歩いて確認した。まだ三井さん
が痩せていて髭を生やしていた
頃だ。日本のロードレース界に
大きな功績を残した人。
その年、片山敬済さんが世界
チャンピオンになった。
宿泊先ではクラスメートのチーム
メンバーとまるでグンとヒデヨシ
のようにどつき合いになり、三原
さんに「外でやれ!」と怒鳴られ
た。
クラスメートでもあった親友は、
その後ポンポンとポイントを取り、
国際A級になって全日本だけでなく
マン島も走った。
私は進学のためレース活動を一旦
停止する事にした。