渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

日本刀の鑑賞について ~刀を心に引き寄せる~

2024年03月19日 | open




日本刀は専門知識が無いと、どこ
どう観て刀剣としてどう判断す
かというのはおぼつかない。
しかし、日本刀鑑賞では決定的に
重要な事がある。これはもう絶対
不動の。
それは「刀身に現れている姿」を
正確にそのまま見る事だ。
そして、刀剣書などで解説されて
いる専門的な事をまず覚えてから
刀を観るのではなく、まず実刀を
観て、視て、見るのである。
そして、その刀身に現れたありと
あらゆる鋼の働きや刀姿や造形を
見る事によって、そこで発見した
ものを座学での専門書に照らし合
わせて合致させて行くのだ。
まず書から入ると駄目。
実物を実際に手に取って観るのだ。
手に取らず、刀屋や博物館等で実
刀を目の前で観察するだけでも
異なる。

私は名人平井千葉の研ぎは判る。
故平井先生はある技法を刀身に施
しているからだ。他の諸氏とは異
なるメッセージを平井先生は刀身
に残していた。一般的には発見で
きないが、ある部分に明瞭に平井
研ぎである事が判るメッセージを。
こうした事は刀剣書には一切記載
されていない。
理由は私が発見した技法である
事もあるが、そのような「研ぎの
観方」は解説書が存在しないから
だ。

このように、確かな所見、鑑識が
できるようになるまでは、多少時
間を要する。
私が本格的に日本刀を学習し始め
て今年で51年目だが、真に刀が見
えるようになったのは高校1年16
才のあたりからだった。

日本刀の刀身を見るには概ね順番
がある。
握り寿司と同じく、何から食べて
もそれはお好みだが、マグロの
ようなものを先に食べると、こは
だのような握りは職人の仕事が分
かりにくくなる、というような事
が日本刀にもある。
私は握り寿司は必ずコハダから食
べるようにしている。順次味が濃
いネタに移り、最後は巻物で締め
る。
刀剣鑑賞も、そのように順を追う
事で判りやすくなるというものが
ある。
これらは刀剣書に十二分に解説
されているので、事前の座学で
の予習をしても実際の実見の際
には有効に活きて来る。

日本刀はまず、表の刀姿を見る。
それにより、凡その時代を把握
する。
日本刀は偶然だが、需要と戦闘
方式の変遷に沿う形で平安末期
の平将門軍の湾刀出現=日本刀
の出現=古代の終焉、の時代か
ら姿を歴史と共に変えて来た。
それゆえ、刀身全体の姿を観察
すれば、時代が絞り込める質性
を日本刀は有するに至っている。
これは便利だ。
まず、刀身の姿を観て時代を
見る。これが日本刀鑑賞の第一
歩。
刀身を立てて表(基本は打刀の
差し表側)を上から観て下がっ
行き、刀身を裏返して観上が
り、
また切先(鋩)方向に視点
を向ける。


全体的な刀姿を観る場合、最大
の要点は「反り」の具合をよく
観る事だ。
そして身幅や重ねや鋩(ぼうし)
の形状をよく見る。ここらにも
時代特性が色濃く出ているから
だ。

そして、刀姿で概ねの時代が見
えて来たら、次に刀身の造り方
を観て行く。鉄=鋼の鉄味と
働きを先入観無く観察する。
これと時代を併せて、概ねの
街道筋を絞り込んで行く。
五箇伝(ごかでん)といわれる
「山城、大和、備前、相州、美
濃」の刀剣産地の特色は事前に
座学で完全理解しておく必要は
あるが、日本刀は実刀を観ない
と、それは鑑賞の際の本当の
「理解」には結びつかない。

そして、大切な事は五個伝を知
悉したら、五箇伝からは離れる
事だ。でないと日本全国の刀が
見えない事になる。
例えば、豊後刀や備後刀、北陸
の刀工たちは一体どこから来た
のか、というのは刀身から読み
取るのだが、それには五個伝の
伝法の現れを刀身に見つける事
が重要になって来る。
だが、そこで五箇伝に拘泥する
と「日本刀アルアル」で、日本
の5ヶ所が全国刀剣の発祥地かと
勘違いする落とし穴にはまる。
五箇伝至上主義は、日本刀鑑定
において真の鑑定鑑識観察の眼
を曇らせる。
五箇伝は必ず知っておく基本で
はあるが、それのみだと「脇物」
とされた五箇伝から外れた土地
の日本刀を見下したり格下に妄
信したりの悪しき心根が発生し、
日本刀そのものが見えなくなっ
て来る。
こうなってしまうと、日本刀は
たぶん一生「見える」事なく
人生を終わる。
日本刀の鑑賞は、何も先入観も
抱かない無垢の心にて澄んだ
境地で日本刀と対面しないと、
全く何も見えてこない。
特に日本刀は専門的な日本刀
研磨の研ぎ次第で「化ける」の
で、その研ぎの向こうまで見抜
かないと刀は見えてこない。
化粧騙しの作り顔ではなく、素
顔の如何を見抜くのが日本刀の
鑑賞だ。

それゆえ、日本刀を観るという
事は、ある程度の鑑定のごく
ごく初歩程度の鑑識眼も必要
になってくるのである。
銘やナカゴ(無銘でも決定打に
なる)を観ずに作者である刀工
名を的中させる当て鑑定がごく
日本刀鑑賞の一般的な手法とさ
れるが、それはともすると当て
っこのみで鑑識眼の優劣を競う
事が主目的に転化する危険もあ
る。
自称刀剣識者では作者当ての当
て鑑定のみが日本刀鑑賞かと勘
違いしている人たちが実に多い。
鑑賞会の入れ札で天位を獲った
からと、それが日本刀の深きを
知っている事にはならない、と
いう最重要な根幹について無知
だからだ。
例えば、ある刀剣に如輪杢が出
ていたとしよう。
作者当てなどではなく、その作
者がなぜそのような作風になっ
たかをどれだけの鑑定者たちが
正答できるというのだろうか。
また、有名な幕末の源清麿(正
しい読みはスガマロ。キヨマロ
は俗読みの通称読み。兄の真雄
もサネオが正しい。ただ、即断
しやすいように金道をキンミチ
と呼びならすようにキヨマロ、
マサオと呼んでいるだけ)の
作についても、長州打ちに顕著
だが、その作一口(ひとふり)
観ても、即どのような炉を使用
して鍛え焼いたかが即断できる。
こうした事は当てっこ鑑定に
のみ終始している人たちは理解
できているのだろうか、という
問題が浮上する。
当て鑑定は危険をはらむのだ。

さらには、当て鑑定は、日本刀
における最大資質たる利鈍に
ついてはノータッチだ。
武家目利きという刀剣の耐性や
利刃か否かを見極める事が武士
たちによって盛んに行なわれた。
これは刀剣如何で戦闘力に直に
影響するので、いくさ場での
働きを存在の主軸とする武士に
とっては絶対に外せない事項に
なる。
とりわけ大切なのは堅牢頑丈で
ある耐性が切れ味などの表面的
質性よりも重要視された。武士
には。ジャミングする小銃より
も確実連射発砲できる小銃を現
代兵士たちは求めるように。

この「日本刀の堅牢さ」を一切
無視するがごとき鑑定は日本刀
の本筋、本道からも外れている。
日本刀は絵に描いた餅ではなく、
実剣として実用を大前提とした
刀剣として日本の歴史の中に足
跡を残し続けてきたからだ。
それゆえ、そこだけは絶対に外
せない。
日本刀の刀身の中に現出する
あらゆる鋼の熱変態の様子は、
すべては「実用」の為に刀工が
苦心して形にしたものだ。
日本刀の刀身の姿、鋼の働きは
全て実用に向かう為に作出され
たものだ。美術的観賞用などで
はない。

その点のみは、現代の美術刀剣
主義の中でも本義の視点は残存
しており、富士見西行のような
あからさまの技巧的な焼き刃な
どは「品が無い」として忌避さ
れる傾向がある。
だが、それは正解かと思われる。
日本刀の堅牢さや利刃とは無縁
の見てくれのところに作域の
主軸を持ってくるのは、日本刀
製作としては大間違いも甚だし
いからだ。
江戸期のあれは、多分富豪の数
寄者のあきんど向けの作なので
はなかろうか。脇差サイズに
多くみられる事もそうした背景
を証左する事象だろう。

日本刀を見られるようになるに
は、そうした時代ごとの社会背
景、日本の歴史を知らないと
刀の鑑賞鑑識の整合性を得られ
ない事になる。
つまり、日本人であるならば、
日本の歴史を知れ、という事だ。
日本刀に興味無い人ほど、日本
の歴史にも興味が無い。これは
現実としてそうした現象が存在
する。
特に理系出身者に日本刀に全く
興味が無い人たちが多いが、
その実、よく観察すると、日本
の歴史そのものにも興味が無い
事が観察できる。マンウォッチ
ングとして。文系は人文科学、
理系は自然科学だが、日本刀は

その製作においては自然科学的
側面が非常に色濃いのに、日本
刀への興味を有する層は圧倒的
に文系(特に国文学科等)が
多いのは不思議な現象だ。
(例外的に理系では医師は異様

に日本刀好きが多い)

日本刀が好きで、この刀は一体
どういう流れでどのような師匠
筋で、どこの鉄を使って、どの
ような技法で作ったのだろう、
というところに興味が湧くと、
必然的に日本の歴史そのものを
知らないとその回答を自分自身
の真の見識として導き出せない。
幸いにして、日本人は大学など
行かなくとも義務教育過程で
日本の歴史について学習する
ので、明日香から現代までの
日本の歴史の大まかな流れは
知っている。知らなくとも小
中は義務教育なので卒業はでき
るが、源平時代(日本の第二期
紅白時代)が江戸幕末ではない
事くらいは誰でも知っている
だろう。
細かい歴史事実ではなく、流れ
として時代の変遷を西暦を換算
させて理解できるのなら、日本
刀の鑑賞にも活きて来る。

ただ、本格的に日本刀を勉強し
ようとしたら、元号と西暦が
概ね頭の中で合致するまでの
学識は必要になる。
天正と元亀と天文との順列や
大永はいつごろかとか慶長は
どのあたりかは知っていないと
日本刀の歴史的査定は鑑賞上
でもできない事になる。
だが、これは簡単な事だ。
調べればよい。

さらに、年紀については、現
代人は極めて疎くなったが、
十干十二支についても知らない
と日本刀の専門的知識を有する
事にはならない。
60年周期をすべて把握するのは
歴史学者か国文学者か専門家
しかいないだろうが、江戸期
終焉まではすべての日本人が
理解していた暦に関するシス
テムだ。
天正八年が1580年とすぐに出て
来ても、その年が庚辰(こう
しん/かのえたつ)年だとは
調べて符合させないと出て来
ない人も多いのではなかろうか。

そのような事は調べればよい。
機械的な事だからだ。九九を
覚えるように60年の組み合わせ
を覚える必要は無い。
ただ、日本刀の見識を深めるた
めには、日本の歴史の流れの全
体像の把握は必要不可欠だ。
源平の平安時代末期から鎌倉、
南北朝、室町、安土桃山、江戸、
明治、現代くらいの流れは知っ
ておく必要がある。

だが、ここで重要な事項が出て
来る。
日本史の歴史区分と日本刀の歴
史区分は必ずしも厳密に重なら
ないのだ。
一例としては日本刀界では安土
桃山は江戸初期まで入り込む。
日本史の上での歴史区分はあと
から学問的に区別して識別し
ようとした時代分けだ。
なにも戦国期の人々は「きょう
ここから戦国時代」という認識
などしていない。縄文も弥生も
同様だ。

日本刀の時代区分は、大きな
ものでは、慶長(史学では桃山
末期と江戸初期にあたる)年間
の後と前とで二つに大別する。
後者の時代の刀剣を「新刀」、
前者を「古刀」と呼ぶ。
江戸期には新刀は「あらみ」と
呼ばれた。当時の現代刀だ。
なぜ、このように二分するかと
いうと、原料の鐵と製法がこの
慶長期を境に大きくガラリと
変化するからだ。
鐵は鉄となり、古来の質性を
失った。
これは日本刀の鍛冶がそうな
ったのではなく、城下町が出
来て、都市として発達する歴
史と密接な関係にある。
日本全国の刀剣産地から刀工
たちは都市部へと移住したの
だ。
同時に、都市生活者になる事
により、かつての地元の鐵が
入手できなくなり、流通製品
鋼を使用するようになった。
これにより日本刀そのものが
鉄味も堅牢性もガラリと変化
したのだった。
日本刀の歴史の中で地方性が

消滅し、道統系=師弟関係を
主軸とする作風に変化したの
も城下町登場による工人の集
中と大名による抱え制の発達
によるものだった。
人と物作りに起承転結の流れ
あり。

新刀登場の経緯は刀剣製作の
変化が先ではない。
江戸期というその時代のこれ

までにない都市集中型の日本
人の生活様式の変化が、産業
面の一翼でもある日本刀製作
の土台も根本から変化させた
のだった。

金属としては優れた新鋼が
江戸期の鋼だったが、実は
戦闘武具には極めて不適だっ
た。これは現代の新鋼の製品
名称である「玉鋼」によく似
ている。
それで作った日本刀は実に折
れ欠けしやすい物になってし
まったのが歴史的な動かし難
い事実だ。
新陰流の荒木又右衛門が鍵屋
の辻での決闘の際に大刀が
折損して瞬間的に戦闘不能に
なったが、大脇差でどうにか
切り抜けた。
後日武士たちからは「武士の
心がけ無く、新刃(あらみ。
当時の新刀現代刀の事)など
持つからそのような無様な
仕儀になる」と散々批判された。

稀代の堅牢な利刃の刀を作った
長曾祢虎徹興里などは、最初
「古鐵」と銘を切った。
これは、当時すでに新鋼使用が
一般化して脆すぎる刀ばかりに
なっていた世相に反発して反骨
の魂で古いいにしえの鐵を卸し
鉄という技法で炭素量調節して
作刀したからだろう。
そして、当然、虎徹の真打ちは
無垢鍛えだ。所説あるが、真鍛
えとは無垢鍛えだろうが、福永
酔剣先生も、真鍛えは無垢とし
ながらも、時々別説を表明した
りまた無垢説に戻ったりしてい
て、現在のところ定説は確立し
ていない。
ただ、膨大な史料や製鉄情勢の
歴史段階を具に検証すると、や
はり真鍛えとは鋼の硬軟練り合
わせの強靭結合組成による無垢
であろうと思われる。
だが、現代がそうであるように
新鋼でいくら無垢にしても、
逆に折れやすくなるだけだ。
硬軟の異なる鋼をさらに細かく
内部で目の細かい織物のように
結合させる鍛え方と低温鍛錬と
焼き入れでないと無垢の意味が
ない。
極めて折損しやすいか、逆にこ
の上ない強靭さを具備するか、
無垢鍛えは紙一重なのだ。
無垢鍛えは単なる刀身構造では
なく、すべてが古式の技法によ
る。

日本刀を単純に鑑賞するのは、
専門知識は要らない。
この細かい輪っかのような鋼
の働きは何だろう?とそこに
ある物を見ればよい。
それがジョリンモクであり、
流派系統流儀個人の特定の手
がかりになる事は、あとで刀
剣書で調べて探せばよい。
とにかく、刀身をとことん見る
のだ。ぼんやりと眺めずに。
映りにしてもそうだ。
どのような形状の映りがどこ
に出るのかを見る。
刀剣鑑賞で一番最後に観るのは
焼き刃の刃文だ。
刃文などは識者は最初には見な
い。
素人ほど刃文に目が行くが、
実のところ刃文とは焼き刃と
平地の境目の所である事を知ら
ずに研ぎ師が描いた白い部分
を刃文かと勘違いしている人
は非常に多い。
見せかけに目が盗られてしま
っているからだ。
金額に心が盗られる亡者より
はましだが、日本刀が見えて
いない、解っていない典型で
もある。

刀はまず姿を観る。
次に作り込みを見る。
次に上から順に鋼の働きを視る。
最後に刃文=焼き刃の状態を
見るのだ。
日本刀鑑賞では剣術とは逆で
「観の眼弱く、見の眼強く」
で、凝視して細かい所まで見逃
さないのだ。
得能先生は私の友人に押形を
採るには錵(にえ)の一粒一
粒まで見逃すな(事実上は無理)
とまで指導された。
それほど、刀をよく見ろ、という
のが日本刀の鑑賞なのである。

なお、これは国文学者であり、
日本刀研究の第一人者であった
佐藤寒山先生(直弟子が小笠原
先生)が書き残した教えなのだが、
日本刀を実見する時には一切メモ
等は取ってはならない。
メモ記録すると、その時点で記憶
は消去に向かうからだ。
まとめ書き等をするのは、実刀
鑑賞時には一切やらないように
する。
すると・・・・何千口の日本刀
を見ようと、すべて記憶してい
る事になる。
人間の脳はそのようにできて
いるようだ。人の顔を覚える
ように。
一度見た日本刀は忘れない。

いつまでも心の中に生きている
のである。

「良い刀」とは何か。

それは、刀工が真面目に作った
刀の事である。
そして、その真面目な作を真面
目な作か否かと見極められる人
間の眼力があるかどうか、だ。
心を静かに透明にして無垢な
境地で臨まないと、日本刀は
見えて来ない。
日本刀は邪な人間の心を排除
する。
それはもう徹底的に。
日本刀は存在そのものが澄んで
いるからだろう。
剣は心だ。
心正しからずんば、
剣また正し
からず。
刀を手に取る人の心に邪心が
あって
はならないように、日
本刀は
存在そのものが邪な人
の心を
拒否するのである。













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