渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

『探偵はBARにいる』の人物像

2021年08月02日 | open

『探偵はBARにいる』(2011年)

なかなかの快作である本作は、
人気が
出てその後シリーズ化
された。

舞台は北海道札幌、現代。
しがない探偵とその助手の北大
院生
のコンビが事件を解決して
いく。


プロットの甘い部分もあるが、
本作は
ガンエフェクトも正確
であり、役者も
好演していて
かなり楽しめる。

物語は、札幌の有力実業家で
ある企業の
社長が街中で拉致
されようとした女性
を助けよう
として路上で鉄パイプで
撲殺
されるところから始まる。
だが、見逃してはならない。
拉致されようとした女は、助け
ようとした社長を車から蹴って
いる。それでグルだと視聴者は
即判る。
これは仕組まれた殺人計画だ、
と。


殺害された社長。社員や取引先、
誰から
も慕われている人物だっ
た。元新左翼の
活動家。(西田
敏行)


真の黒幕。元新左翼。関西の裏
社会
のフィクサー。北海道の地
元暴力団員
さえも事件関与から
手を引く程の冷酷
な裏社会の支
配者。(石橋蓮司)



度重なる殺人事件の真相は、数
十年前
に学生運動が盛んな時代
に、仲間と組織
を裏切る行為が
あり、そのため自身と
関係者に
危険が及ぶ事を避けるために

西田敏行が身重の内妻(竹下景
子)と
お腹の子を残して疾走し
た事に端を発し
ていた。
その新左翼組織の裏切り者が後
に関西の
裏社会のドンとなって
いた(石橋蓮司)。

かつてのいきさつを探偵に語る
「元内妻」
の竹下景子は「よく
は知らないが何か
深刻な対立が
あったらしい」と言う。

北海道。学生運動。
北海道は北大を中心に革共同革
マル派が
覇権を握っていた。革
マル派と元々同じ
組織だった革
共同中核派は、1960年代
初期に
60年安保の敗北から全学連主流
だった共産主義者同盟(ブン
ト)のメン
バーが革共同に移籍
したことにより形成
された。革
命的共産主義者同盟=革共同
は、
元々は日本トロツキスト連盟を
前進
とし、60年以降は黒田寛一
を首魁とする
革マル派、元ブント
の本多延喜を首領と
する中核派、
第四インターナショナル
日本支部
(創立者トロツキー)の三派に

内部分裂していた。元々革共同
は黒田と本多が結成したが分裂
した。
そして、1970年に中核派が革マル
派の東京教育大生の海老原
君を詰
問の際に法政大学に拉致して殺害
(海老原事件)
してしまった事で
中核VS革マルの殺し合いの戦争が
初めて始まる。発端は海老原君が
過去に中核派の活動家たちに対し
公然と暴行を働き、
情宣活動を暴
力で中止させた事による。
たまたま後日路上通行中の海老原
君を発見
した中核派活動家たちは
その場で彼を制圧
してデモを装っ
て羽交い絞めにして道路を
通って
中核派最大拠点校の法政大校内に
拉致監禁し、椅子に縛り付けて
暴行を加え
て殺害した。
革マル派は報復宣言を出し、11日
後に
中核派の本丸である法政大学
に数十人で
偽装して潜入し中核派
活動家10数名を
襲撃して全員半死
半生の重傷を負わせた。
以降、両派は相手を殺害すること
を党是
として公言するようになっ
た。中核派は
「反革命カクマル
せん滅」と称した。


海老原君事件では中核派は自己
批判の声明
を一旦出した。
だが、その後の革マルの報復に
より、自己
批判は反故にし、完
全に殺し合い路線に
両派は転化
した。

そこに日本社会党社青同解放派=
革命的
労働者協会=革労協が加
わり、革マル派vs
中核派+解放派
という殺し合いの図式が
できあが
った。

その状況になるまで、革マル派
は他の全
新左翼とは一線を画す
独自路線で、「人民
ではなく革
マルが革命を起こす」という

実を以て、他党派に攻撃を仕掛
ける事
を旨とする組織であるこ
とを続けていた。

暴走族でいうなら、「CRSを潰
す為だけに
組織された極悪」と
いうチームの性質に
似ているの
が革マルだった。革マルは革
マルしか認めない。他党派の
事は蛆虫
の害虫だと機関紙で
公言していた。

そして、三つ巴のセクト間で殺
し合いが
激化するのに従い、そ
の3派は組織的な
態度を硬化さ
せ、一切人々の言う事に
耳をか
さない意固地な殺人集団に変質
した。
かつて中核派は大人気であり、
何十万人
もの学生が白ヘルを
被っていた。元都知事の猪瀬
もコピーライターの糸井重里
も中核
派だった。
実に多くの学生が白ヘルに
心を
寄せていた時代も確かにあった。
材木屋の社長が中核派にゲバ棒
の角材を
大量に寄付する等、中
核派は人気があった。

革マルのほうは、路上で敷石を
砕いても
機動隊が来たら全員逃
げたり、東大闘争
でも勝手に持
ち場を放棄して、そこを
陣取っ
た機動隊によって安田砦が攻め
立て
られたりした。革マルは市
民や新左翼各派
からは蛇蝎のよ
うに嫌われていた。また、嫌わ
れるようなことを平気でやって
いた。

中島みゆきが革マルのシンパだ
ったとは
彼女の音楽性からみる
に俄かには措信し
難いような組
織が革マルだった。

また、解放派は人間的に魅力的
な人物だ
らけで「感性の解放派」
とも呼ばれた。

ソ連型の中央集権的社会主義を
否定し、
ローザルクセンブルク
の個人の尊厳を謳っ
た内実をテー
ゼとしていた人間味ある
セクト
が解放派だった。

だが、一変した。

そうした状況になり、それまで、
「革共同
両派と社青同解放派こ
そ運動の害悪」と規定して、

核派と解放派に熾烈なゲバルト
をかけて
いた元共産同マルクス
主義戦線前衛派
は、革マルと中
核派・解放派の殺し合いの
図式
が成立してからは、自派が革マル
同列と見なされることを回避
するために
他セクトへのゲバル
トから1973年に
手を引いた。
それまではマル戦前衛派は中核
派やブント
たちからは「単ゲバ
派」と呼ばれるよう
な組織だった。
(60年安保ブントの中心
部分の
うちの綱領を有する学者派)

中核派とは夜な夜な鉄パイプで
わたり合い、
鉄パイプでは弾か
れるとして鉄板重ね溶接
の武器
を開発したのは前衛派だった。

それだと打突でヘルメットに沈
むからだ。

また、神奈川大襲撃の際は、武
装解放派が
150名いる中に50名
で突撃し、日本刀を
かざす解放
派のそれを奪取して修羅場を

り、完全に解放派を全滅させた
のも
前衛派だった。
前衛派のゲバルト部隊の配置は、
突撃隊
から戦況により後退しよ
うとする部隊員
がいたならば
それを打ちのめすために
軍監
が短い鉄パイプを持ち、自軍
の隊員
を殴打する、という方式
だった。
前衛派のゲバルト部隊はそれだ
った。

前衛派は旧ブント内に対しても
攻撃を
しかけ、元兄弟党派にあ
たるマル戦怒涛派に
対しても、
代々木公園で滅多打ちにした

りしていた。
新左翼の中で、初めて完全非合
法の「軍」
を創設したのが元ブ
ントの前衛派だった。

非合法の地下組織の軍だけでな
く、「表」
の部隊でも前衛派銀
ヘルは手斧を各自
所持して集会
に参加していた。

大集会では他のセクトのヘルメッ
ト部隊
が前衛派の銀ヘルからじわ
りじわりと
離れるように位置を
移動させる事が常に
起きるよう
になった。
これは「壮大なるゼロ」となっ
た1968年の秋の東大安田講堂前
での決起集会でも、銀ヘル前衛
派の周囲のみ異様に隙間が空い
ている写真からも現認できる。
すぐに猛獣のような
大暴れをす
るのが前衛派だったから、他

派は「巻き込まれたくない」と
の事で
物理的な距離を集会では
置くようになった
のだった(元
中核派活動家談)。
まだブント内に赤軍派は生まれ
てはいない頃の時期だ。旧ブン
トマル戦前衛派の表の学生部隊
組織名は「安保共闘」。東大安
田攻防の有名な写真では時計台
のど真ん中に縦垂れ幕が下がっ
ている。非合法非公然の軍は
「共産主義武装行動委員会(共
武行)」。
軍は連赤あさま後の1973年に
解散。党派は1986年に完全解散。
70年代後半~80年代初頭には表
のデモでは銀ヘル、夜戦ではサ
ンドブラスト艶消し処理をした
濃茶色のヘルメットを装備した。

だが前衛派の大学教授が打ち出
した帝国主義
理論は中核派も採
用していたりという構造
が新左
翼界にはあった。

その新左翼最大の「単ゲバ派」
の前衛派は、
革マルVS中核派+
解放派という図式が浮上
してか
らは一切内ゲバ戦闘から撤退し
た。

以降、革マルと中核・解放の殺
し合いは
1990年代まで続き、死
者はこれまで100名
以上出ている。
特に革マルは中核派のトップの
本多委員長
の奥さんを拉致して
首都高をグルグル車で
回ってい
る間に本多委員長を殺害した。

これで完全に殺し合いの火がつ
いた。

解放派も革マルに殺されたために
報復
が激しくなり、革マル派幹部
を車に閉じ
込めて焼き殺したりし
たし、中核派は
革マル活動家を白
昼洗足池近辺の住宅街
で一気に一
瞬で5名同時殺害を実行したり

た。
すべて撲殺である。刃物や銃器は

使用しない。新左翼の殺害方法
は焼き
殺すか撲殺だ。あとは拉致
されたブント
赤軍派がブント中央
派に追いつめられて
医大校舎から
転落死等。

とにかく、学生運動というと「殺
し合い」
が日常茶飯事となったの
が1970年安保
以降1990年代まで
継続した。

私の時代(1970年代末期~80年代
初期)
でも、殺人行為ではなくと
も、対立党派
を学内や路上で血だ
るまにする等はごく
日常的に発生
していたし、セクトの人間
はそれ
を実行していた。(内ゲバ反対派
の前衛派でさえも)

非道であるのは中核派で、「内
ゲバは
無益であり、絶対にやら
ない」と
表明していた「いい人」
が多かった
第四インターナショ
ナルの学生活動家
を三里塚闘争
の内部対立から中核派が
襲撃し
た事だ。
手を出さない相手と
判っていなが
ら襲撃する。卑劣極まり
ない。革
マル以上に卑怯な事だ。

その襲撃により、横浜国大の第四
インターのY君は脚を切断という
事に
なった。
第四インターは「絶対に内ゲバは
しない」
という事を明言した稀有
な新左翼で人気
が出て、女性が非
常に多かった党派だった。

1978年には三里塚管制塔を武力で
占拠
して開港を遅らせた。管制塔
占拠セクト
はブント戦旗派(西田
派と日向派の2派のうちの
日向派)、
プロ戦、そして第四インター
だっ
た。

だが、増えすぎるといろいろ問題
も起きる。

第四インターは、内部の女性問題
により
自己崩壊し、トロツキー創
設の第四インター
本部から除名処
分を受けてしまい、事実上瓦解し
た。

一方、中核派と解放派はどうなっ
たか。

1980年代末期から本当に末期症状
となり、
解放派は結局内部が三分
裂し、元同組織
の人間をテロルで
殺害しはじめた。新左翼内で初め
てドスで刺殺が実行された。
尤も、革マルは私の時代にも拉致
した
対立党派活動家(前衛派)を
千枚通しでブスブス
刺したりして
いた。早大では革マルが
絶対君主
であるので、他の党派の人間
たち
は別大学に亡命して亡命政権を作
しか生存の道はなかった。早稲
田などは
校門(門扉は無いが)の
前で革マルが
常に監視していて、
他セクトの活動家
が登校できない
ようにしていた。かつて早大には
ブント、解放派、革マル派、他

派がいたが、革マルが一党独裁を
敷いて
からは暴力(殺人を常とす
る)での支配
が早稲田では実行さ
れていた。早稲田のブント系も
解放派もすべて大学には通えなく
なった。
また、中核派も三分裂して元中核
派の元同志を襲撃しはじめ、
それ
の被害の後遺症により元中核派の
弁護士が自殺している。
一体、新左翼は何を目指している
のか。
否、いたのか。
連合赤軍が遺した負の遺産を全く
自ら
のものとして教訓化していな
い。

中核派は10年程前まではそれでも
まだ
末端まで含めると2万4000名
程いた。
革マルもほぼ同数。
中核などは中核派の中核部分は
300名程
で、かつての日本国内騒
乱の時代とさし
て員数の変動はな
い。

よくいわれる社会推移として、
「1970年
安保以降は学生運動人
気が低迷し、新左翼
が激減した」
という事が喧伝されるが、
それは
的を大きく外している。警察白書
も分析がかなり甘い。実態を正確
に把握してはいなかった。

その後も1970年代末期~1980年
代中期
までは新左翼自体の員数
はまったく減って
はいなかった。
周辺部分のシンパやただ
ヘルメ
ットを被って2、3度デモに出

とがある程度の「大衆部分」が
大量に
減っただけの事だ。新左
翼セクト自体の
員数は全く減っ
ていない。

各派合同集会をやれば、万余のヘ
ルメット
部隊が集まった。違いは
「浮動票たる
大衆部分」の参加が
減っていただけの
事だ。中心部分
の新左翼活動家は80年代
初頭でも
60年代末期と同程度はいた。

看板持ちの本当の組織員は。

本映画『探偵はBARにいる』の事
件の核心
は、元新左翼同士の壮年
の男二人の対立
が、実子まで含む
殺人事件に発展した
のが真相だっ
た。

そして、そのうちの元妻が拳銃で
黒幕
一味を最後の最後で欺く手を
使って全員
射殺する。結婚式場で。
その後、その元妻(小雪)は、自
分の
頭を笑顔で射ち抜いて自決す
る。自殺
でも自害でもない。自決
だ。

この映画作品は、なぜ元新左翼の
人物を
持ってきたのかよく分から
ない。

なぜならば、主人公の探偵も、北
大助手
の相棒も一切そうした社会
的な歴史
社会運動には興味がない
ノンポリであり、
ただの浪花節で
生きている人間が事件の
真相を解
き明かす物語だからだ。

だが、実はそうした社会意識から
外れた
ノンポリこそが社会の源の
力をもって
いるのかも知れない。
ノンセクトノンポリだった全共闘
個別撃破されて消滅したが、セ
クト
ではない全共闘という特殊な
運動体が
日本の歴史の中に足跡を
刻んだ事は、
かなり大きい物を残
したと思える。


浪花節?
それでいいんじゃない?
それで革命はできないけれど。
それで人は飯は食えないけれど。
でも、それを失くしたら人はお
しめえよお、てな
のが社会の真
相真理だと俺は思うよ。


ルパン三世的要素を入れている
演出。車両ナンバーが「3301」
であるのは「耳多い」
という探
偵を意味する隠喩の演出である
どうかは不明だ。
ちなみに、新左翼だけでなく社
会運動
を行なって逮捕された国
民を救援する
弁護士派遣業務で
ある「救援連絡センター」
の電
話番号は03-591-1301(獄入り
意味多い)
だった。
救援センター代表の個人的持ち
物件の都内の戸建てのビルのガ
レージを80年代中期に私が属

たレーシングチームはマシン整
備とレーサー
保管場所として借
りていた。
代表の山中氏は無償で
場所を提
供してくれていた。


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