渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

師弟対決 1988年全日本ロードレース第3戦筑波

2024年06月19日 | open

1988 国際A級500cc 全日本
ロードレースRd.3
”藤原儀彦が初めて平忠彦に
勝利した 筑波サーキット"


師弟対決。
過去に全日本3連覇を達成した
ヤマハワークスの世界GPライ
ダー平忠彦#18。
対する若きヤマハのエース全
日本チャンピオン藤原儀彦。
印象的だったのが、筑波1ヘア
手前S字2個目で、平忠彦が開発
した逆ハングフォームを1988年
の平自身はもうやめており、
その平の弟子筋にあたる藤原が
逆ハングの平乗りをやっている
点。このフォームは平選手の発
明ではなくジンプライスの斉藤
仁選手が嚆矢。

1987年、GP250クラスではホン
ダの清水雅弘がヤマハの本間利
彦との激戦を制して全日本チャ
ンピオンになったが、清水選手
が平乗りを完璧にこなしていた。
実際に筑波の現場で目の前で観
ていると、1983年時点では平選
手は逆ハングフォームは使って
いなかった。
平選手は1984年から逆ハングを
使い始めたが、1988
年時点では
1ヘア手前右コーナー
ではオーソ
ドックスな右膝出し
の右旋回フ
ォームに戻している。

「平乗り」と呼ばれたが、本
はジンプライス斉藤仁選手
の「仁乗り」が正しいだろう。
藤原選手の成長は著しく、まさ
に日本を代表する選手になって
行く。
平と藤原のこの時の筑波のタイム
は57秒台。異様な速さだ。
だが、5年前の1983年に、もし
フレディ・スペンサーが筑波を
走ったら58秒を切るだろうと
云われていた。
それ程、フレディ・スペンサー
の1980年代初期~中期の速さ
は異常な速さだった。1985年
には250と500のダブルタイトル
を獲得している。
1983年、1985年時時のフレディ
が1988年に筑波を走ったら、た
ぶん57秒台前半だろう。もしか
すると56秒台が出るかもしれな
い。
実際には1988年にはフレディは
腕の病気によりレースを事実上
引退していた。

1987年全日本GP250の清水選手。

発明者の斉藤仁選手、完成者
の平忠彦選手よりも完璧な美
しい逆ハングフォームで筑波
第1ヘアピンに突っ込むホンダ
の清水選手。レーシングウエア
はプロショップ高井。ヤマハ系
のプロショップだが、ホンダの
選手も多く愛用していた。
清水選手のヘルメットは、ヤマ
ハの平忠彦選手のヘルメットデ
ザインをモチーフにモデファイ
されたものだ。

1984年、世界GP500でこの年
の世界チャンピオンになるエ
ディ・ローソンの前を走る平
選手。マシンはYZR700-0W69。
チーム・アゴスティーニから

WGP500にスポット参戦。
ウエアはプロショップ高井。


1980年代の平忠彦モデル


平デザイン別色バージョン
(本人はレースでは被って
いない)


世界GP時代の清水選手。ヘル
メットは横のラインデザイン
を88バージョンから変更。直
線的にして平モデルとは差異
をつけるデザインになった。




レーシングライダーは、ヘル
メットカラーは自分の独自オ
リジナルデザインを各人が持
っている。
これはたとえノービスであろう
ともだ。
それがレーシングライダーの
特徴。
自分は独立した一個のライダー
であり、他人のレプリカヘル
メットなどは被らない。
走っているのは他人ではない
自分なのであり、その体現者
として、レーシングライダー
は己自身の意匠のヘルメット
を被る。
レース経験者はほぼ全員そう。
レーシングライダーのヘルメッ
トのデザインは、個人のアイデ
ンティティを示すシンボルマー
クのようなもの。
インスパイアモデファイはあっ
ても人とは重ならない。
自分のデザインは世界で唯一
自分だけのものであり、それ
を被る境地は独立した自己の
確立を体現するものだからだ。
関取も自分のまわしは自分だけ
の物であり、「他人の褌で相撲
は取らない」事が自己の矜持
なのである。ライダーも同じ。
他人褌は恥なので、レプリカ
ヘルメットなどは決して被ら
ない。レプリカを被るのはレ
ースをやらない一般ライダー
だけだ。
それはそうだ。
レーシングライダーでヤマハ
の選手なのにホンダのカラー
リングの車には乗らないで
しょう?
ヘルメットも同じ。自分は自分
のヘルメットを被る。他人の
カラーのヘルメットは被らな
い。それは自分のではなく他
人のカラーだから。
だが、それこそが良い。
先進自由主義国で発達したの
がモータースポーツだから。
全員が赤いヘルメットで同じ
ウエアでないと駄目、とかい
うルールだったら、見ている
方もやるほうもつまらないで
しょうよ。
スポーツは人間個人がやるも
のなのだから。軍隊ではない
のだから。
持てる力を最大限に互いに
出しあって競うのがスポーツ
なのだから。

腕と腕の真っ向勝負で向かい
合って優劣を競う事は、それ
は差別でもなんでもない。
そこを勘違いして、お手手
つないで全員で並んでゴール
などという偏向教育を生徒に
強要している一部勢力が小学
校で推進する「徒競走」など
は競技でも人間の努力の成果
を確かめる事でも何でもない。
ナンセンスだ。人を駄目にす
る。

全員が努力する。
そしてぶつけあう。
だが、その結果、勝った物も
敗者も競技が終わればただの
人であり同列の仲間だ。
そして、勝者も敗者も健闘を
讃え合う。それがスポーツだ。
そうした大切な中身を子ども
たちに教える事を放棄して、
なにが教育か、と私は思う。
全員同列で強引に作為的な
強制でゴールさせる事が民主
主義や差別なき概念だと思う
としたら大間違いだ。
人として大切な事を踏みにじ
っている。
そのやりかたは、一部の者を
強引に上に立てて他者を踏み
つける行為と本質的に同列だ。
現代小学校における手つなぎ
同列ゴールを徒競走とする
馬鹿げた生徒への強制は即刻
廃止すべきだ。
勝った者も負けた者も、競技
後には手を取り合い抱き合う。
ボクシングのように。
それが本当のスポーツであり、
その大切さを教える事が人間
的涵養を育てる人間教育だ。
まやかしのニセモノの民主主
義や人権主義や反差別などは
もういらない。

 
 

 


日本刀貸し出し

2024年06月18日 | open




本日、安藝国大山住宗重2口を
日刀保に貸し出し。
本年10月15日からの東広島市立
美術館での郷土刀展に展示する
ため。

お近くの方はよろしかったら
ぜひ足をお運びください。

年間スケジュール | 東広島市立美術館

 

 


手の内の冴えで簡単に斬る ~日本刀斬刀法~

2024年06月18日 | open
 


試斬するにしても、抜いて
前に出て、間合いを測って
刀を振って斬る、という据
物斬りではなく、刀術として
居合剣法の動きで斬る。
私が属した流派の場合は。

切る(≒斬る)際には実際の
剣術、剣法と同じ体さばきと
刀法で斬る。
「試斬の為の切り(≒斬り)」
はやらない。武術として意味
が無い。
居合剣法、剣術と同じように
刀を使う。
すると簡単に畳表などは切断
できる。刀法を使えば。

一つヒントを言うと、手の内
の冴えで切る。
それは腕と一緒に刀をブーン
と円弧で振るのではない。
楕円を描くようにして、入刀
の直前に水銀温度計の目盛り
を下げるような手の使い方を
するのだ。ビシュッと。
よく巷間喧伝されている手を
絞るという事は一切やらない。
それは物理的に刃筋が絶対に
狂うからだ。
小指を軽く締めるだけ。絞り
込んだりはしない。
これだけで、アッと驚くほど
切れる。刃筋も狂わない。
茶巾絞りなどは使わない。
最初から「切り手」で柄を保
持し、かつ、手の内は自在に
可変させる。凝固させない。
これは私の師匠の伝(というか
山本晴介系土佐伝)だが、こ
の要諦はすべての斬刀法に通
じる。
抜刀斬撃は確実に切れるもの
でないとならない。
それゆえ、先人が長年の工夫
と研究で編み出したものだろ
う。その土佐伝の刀法は実際
に戊申戦争で用いられた。

なお、刃筋が正確に立っている
と、畳表を切断した後に上部が
立ったまま残る事は無い。
正しい切断だと、畳表上部は必
ず横にストンと落ちる。僅かに
前側の横にストンと。
切断上部がすっ飛んで行くのは
論外。また、刺した下部の上に
乗って残るのも刃筋狂い。(こ
れ勘違いしている人が多い。斬
術の理(ことわり)についての見
識が未熟)
すっ飛ばしや居残りの畳表切り
をやっているとしたら、初心に
返って素振りからやり直したほ
うがよい。正しい素振りから。

<刃筋狂いの物理的原理>
 

刀を曲げてしまうということ(2015年10月15日記事 再掲) - 渓流詩人の徒然日記

刀を曲げてしまうということ(2015年10月15日記事再掲)-渓流詩人の徒然日記例え高段者であろうとも、あまりにも日本刀を曲げてしまう人が多いため、パスワード付読者制限の...

goo blog

 


<刀法における「切り」について>

 

剣法雑感(2016年記事再掲) - 渓流詩人の徒然日記

以下の文は、推敲を重ねずに徒然と思いつくままに下書き無しで書き連ねているので、冗長であることを最初にご理解いただきたい。<前段の所感>刀の操作である操刀法という...

goo blog

 

 




斬り稽古の注意点

2024年06月18日 | open



抜刀道系の畳表斬りにおいて
の想定はよく知らないが、

が居合剣法として斬術稽古す
る場合には、畳表では実際の
剣戟とは
異なる物理的限界を
感じている。

それは、畳表は人体よりも細
いということだ。

なので、体の中心線に畳表を
置いた場合、あるいは
自分の
位置取りをしてからの袈裟切
りの場合、実際の
対人斬撃と
は袈裟斬り下ろしあるいは逆
袈裟の入刀
位置と切り代の長
さがまるで異なる、という畳
表や
巻き藁の限界性がある。

ではどうするか。少しでも実
質的なことに近付けるには。

それは自分の立ち位置を意図
的にずらすのである。ずら

て、実質的な対人斬撃と同じ
入刀位置を取るのだ。



この畳表切りの物理的な致し
方ない限界性については、私
は全剣連居合道初段の
頃から
気づいていた。

居合というものは、結構その
あたりを厳密に設定している。

敵の人体のどこにどのように
切りつけるかということを。

居合刀法で実際に畳表の斬り
稽古を行なおうとした時に、
「あれ?これ、これだと実際
は違うじゃない」とすぐに気
がついた。どうするか暫く呆
然としながらも思案した。

最初から試斬ありき物切りあ
りきの畳表切りから入って

たら、この畳表の限界性に気
づかなかったことだろう。

ただ、畳表が切断できたかで
きないか、等のレベルで思考
がそれ以上開かなかったこと
だろうと思う。

だが、居合の刀術は畳表試斬
の限界性を即座に教えてくれ
た。


鞘内に刀を納めた段階で畳表
に対峙した時点で切りつける
場所は定める。だが、本当は
居合などはそういうことはし
ない。

最初から抜き打ち場所ありき
ではなく、敵に対し臨機応変
居て合わせるのが居合だか
らだ。

そこで、仮想的を浮かばせて
自由斬術稽古にしてみると、
ますます異なる。
それはそうだ。剣持つ人体で
はないのだから。

なので、私は自分の立ち位置
を可変的に取ることで、予め
位置決め斬撃とはなってしま
うが、体の中心線に畳表を置
ことはなるべくしないよう
にしている。対人斬撃の場合
は、
敵の人体の真ん中あたり
から突然刀が入刀していくこ
となど
あり得ないからだ。
こうした物理現象は、横水平
切りの時に極端に発生する。
だが、工夫すれば実際の剣戟
の状況に少しは近づく。


こうした一連の考察は、多摩
至誠館道場の斬術稽古の過程
において思考展開をしたので
ある。



※この記事内容はあくまで私
自身の刀法についてのことです。
他の流派・連盟・個人のことは、
一切関知しません。



シュート

2024年06月18日 | open

ポジション出しが下手な奴は
薄い玉をフーフー言いながら
入れる


実は、ポジションミスしても
シュート力があれば取り切り
や連続マス
ワリができる、と
いう動画。
あまり厳密な手玉コースの

プランニングするものでも
ない、というやつ。
撞球は場を切り拓く対応力と
前進力、爆発性が大切。
レースでいうならポール to
フィニッシュのぶっちぎり
が理想形だ。
9ラック先取り戦ならば9連続
マスワリ出すような。

最後のマスはあかんやつ。
ブレイクから1番の取り出し
で手玉と的玉が一直線(スペ
ン語でデレッチョ)になっ
てし
まって手玉の振りが無く
なっ
た。そこで、折角マッセ
ャンプのドローショット
という超絶技巧スーパー
ョットで手玉を直に2番
にロン
グ引きで出したのに、
2番からネクストへの出し
で押し玉割りの
ポカミス
で手
玉をコントロールミス。
あれは2を入れて手玉を6に厚
く当て
て手玉を止めて、場を
オールクリ
アの配置に作ろう
として失敗
した。
2をストップかやや引きで取っ
て、そのまま5を左上のコーナ
ーへのロングシュートで決め
れば簡単だった。
こねって考えすぎ。
結果、連続マスワリを自分で
ストップさせる配置に
してし
まった。

ポケットビリヤードは的玉を
入れるのは当たり前。
取り切り、マスワリするのも
当たり前。
ポケットビリヤードは、シュー
トインは当たり前の事で、実は
「手玉をどのように動かすか」
というゲームだ。
結局は、穴無し台のキャロム

(=ビリヤード)と同じ。
つまり、アメリカンプールは
明らかに「ビリヤード」なの
である。

 


カワサキMS90

2024年06月17日 | open
 







オートバイに初めて乗せて
貰ったのは2才の時だった。
ヤマハYDS-1。
オートバイを初めて運転した
のは、ホンダのスーパーカブ。
12才の時だった。
オートバイの操縦を覚えたの
はヤマハのミニトレだった。
中学生の時だ。
オートバイを初めて自分で所
有したのはカワサキのMS90
だった。
16才で自動二輪免許を取った
が、免許取得前に1学年上の
イトコが私にくれた。
オートバイで初めて自分の力
で公道を走り、世界の広がり
を教えてくれたのはカワサキ
だった。

2才の時の生まれて初めての
ヤマハのオートバイによる世
界観の広がりの記憶は、今で
も鮮明に覚えている。
その時の状況も、景色も、風
景の色も、走ったルートも、
オートバイの音も、運転する
大叔父との会話も、大叔父の
態度も言葉も、あわてた母の
様子も。
その時から私の世界観が変わ
った。
そして私はその14年後の16才
の時に、カワサキによって自
分でロードを走る事の楽しみ
を知った。
自分の力で前に進む喜びを教
えてくれたのは、カワサキの
オートバイだった。
生まれた場所のすぐ近所に
目黒製作所があった事を知る
のは、ずっと後年の事だった。


カワサキ

2024年06月17日 | open
 


国産二輪車で車はヤマハが
一番良いのは分かり切って
る。
新型モデルの開発総責任者本
人がイタリアから私に連絡

てきて、私の日本刀に関する
見識から新型マシン開発に

度もヒントを貰ったと総責任
者本人
が語るXSR700の1型に
乗りた
いという気持ちもある。
(多分私の人生の最後の二輪
はXSR700)


しかし、私は16才の時からカ
ワサキが好きというのがある。
マシンはヤマハが一番だと思

っているし、自分が乗ったレ
ーサーも公道市販車もヤマハ
の走行性能は一番気に入って
いた。
(現在のカワサキは経歴
5台目)

だが、どうしてもカワサキと
いうメーカーが好きなのだ。
マシンはヤマハが好きで、メ
ーカーはカワサキ。
これはもう、「あの店のあの
鮨職人が握る握り鮨が最高だ」
みたいな好みの問題なので
仕方ない。
モノの良し悪しではなく、味
の好みの問題。
こればっかりは普遍性も妥当
性も関係ない。
二輪においても、戦績や性能
特性の優劣や客観的評価は存
在するが、こと人の好みとな
ると、これはもう料理と全く
一緒で千差万別であり、そこ
には世間の評価や評判や優劣
は一切介在しない。
むしろ逆に、そうした介在を
第一義としてのフィルターを
通して物を見るのは、それは
本当本物のその人の好みでは
ないだろう。
世間で評判がよく、好かれて
いる
人だから私も好きだ、と
かみ
たいなのには愛は存在し
ない。
そんなものはニセモノ
だ。

それは皆が好きなものだから
自分も好きとしたい
自分が好
きなだけであり、
その対象に
は真正面から接しようとはし
いない。
世間はそうした人たち=大衆
が殆どだが。

私はカワサキが好きだ。
これはどう転んでも。
これはいわば私が物心ついた
時から阪神タイガースが好き
だったのと似ている。
タイガースファンは生涯タイ
ガースだ。
こうした事柄はもう不動のも
なのだ。
そこには流行とかブームとか
大勢の人間が好きだから自分
もとか、そういう軽佻浮薄な
没主体性は一切不在だ。
ド芯から太く、その対象に心
を肉迫させる。主体的に、か
つ積極的に。受動は一切無い。

ホントのファンというのは
そういうもんだと思う。

ヤマハが車の出来は一番。
ホンダもスズキも魅力的な車
を作るメーカーだと思うし、
二輪作りを実行している人と
メーカーには私は敬意を持っ
てい
る。
だが、私はカワサキが好き。
冷酷な機械やロボットのよう
なところが無い人間味を感じ
させるカワサキが好きだ。
いうならば、「火の鳥」の
ロビタのようなのがカワサキ
だ。




 

ベスパLX125ie

2024年06月17日 | open
 


ベスパLX125ie。
購入して神戸から広島まで
乗って帰った
のがことしの
3月20日。

それから約3ヵ月過ぎて、実
走行距離は1,450kmちょっき
りだ。
月平均で約483km。
あんまし乗ってない。
でも、よく走るスクーターな
でとても気に入っている。
パンチマシンのヤマハ2スト
ビーノも
最高だったけどさ。
この4ストベスパもなかなか
いい
よ。いや、ほんとに。
外見とかではなく走りが良い。
昔かみさんが乗ってた2スト
ベスパ100も一時借りて乗
って
たけど、あれもまた味の
ある
二輪でとても面白かった
が、
このLX125ieはインジェク
ション
3バルブでなかなか面白
い。

鉄フレームから来る独特の乗
り味は2スト
時代と変わらない。
これは規制速度以内の走行で
あってもその挙動特性はたち
どころに感知できる。
それくらい個性の味を出して
いる。板前の料理を味わう
ようで非常に美味。
それがトラディ
ショナルな
ピアジオベスパの
乗り味だ。
実に面白く魅力的だ。

4ストなのにまた音が良い。
太い系統の2ストの音みたい
なサウンドで走る。
回頭性も悪くない。
良いモーターサイクルだ。

ところで、右下のこの鉄フック
ってなんだべ?
よぐわがんね。

 



 

オートバイのチェーン調整のやり方

2024年06月17日 | open



オートバイのチェーン張りの
時の前輪と後輪の軸線の合わ
せ方。
それはかつて昭和平成時代に
は、前輪を真っすぐに前を向
けた状態でマシンを直立させ、
前から目視確認して、タイヤ
の重なり出幅で後軸の左右の
ずれを把握して補正して行く
方法を採っていた。

スイングアームの刻印目盛り
などはかなりズレているので、
それが一番正確な方法だった
し、レーサーにおいてもそう
した方法で軸線合わせをやっ
ていた。
目視方法は両眼で見て、また
片目でも見る。
そしてずれの出幅を確認して
左右の引きを調整して行くの
だった。

今は水平器のようにレーザー
とかを使うのかも知れない。
今の方法はよく知らない。
とにかく、スイングアームに
刻印された目盛りはあくまで
凡その目安であり、それのみ
に頼って後輪の左右を合わせ
ると、前後の軸線がズレズレ
になるのがほぼ100%だった。
目視確認での補正調整が一番
効率も正確度も高かった。
日本刀の反りの歪みを刀工や
研ぎ師が目視確認したり、
大工さんやビリヤードキュー
職人が目視で直線の歪みを確
認したりするのと同じ。
人間の目は、ほんの微細な歪み
もきちんと脳が捉える。

モーターサイクルは自転車と
同じで、真上から見て前輪の
真ん中、フレーム中心、後輪
の真ん中がずれなく一直線で
ないとまともに走れない。
フレームの芯が出ているとは
どういうことか。

 


ヤマハのモーターサイクル

2024年06月17日 | open



TD-3。250市販レーサー。

RD05A。ワークスレーサー。


1973年には全日本選手権ロード
レースで旋風
が巻き起こった。
ワークスマシンを抑え、プライ
ベーターの25才の根本健選
手が
市販レーサーTZ350で全日本チャ
ンピオンとなったのだった。


ヤマハは1957年のレース参加
当初から突き抜けた速さを見
せた。
1960年代から2010年頃までは
世界の二輪開発の歴史の中で
ホンダ、スズキ、カワサキも
大健闘した。

スズキは伊藤光男選手が1963
年に日本人で世界初WGPマン
島TTレースを制した。
モーターサイクルレースの世
界にあって、日本の二輪メー
カーが世界の頂点に君臨し
始めたのが1960年代だった。

その一角で常にヤマハはトッ
プ域を占有していた。
スズキも速かったがヤマハは

さらに速かった。

ヤマハのマシンが優勝を続け
たのは、1960年代後半に確立
したハンドリングの特筆的優
位性によるものだった。
国内二輪メーカーでは、ヤマ

ハのみが開発において独自路
線を歩んだ。
ヤマハ2ストスポーツは世界
で初めてレーサー開発の
ノウ
ハウを市販車と共通化さ
せた
のだった。
初期の全日本選手権は
市販車
ベースのレース車両で
ないと
参加ができない規定だ
った事
を射程に入れたマシン開発を
ヤマハは実行したのだ。
他のメーカーはレーサーと

公道市販車はきっぱり区別し
た別々開発だった。
ワークスマシンと同じ部品構
造を持つヤマハの市販二輪は、
公道用の低パワーエンジンに
おいては市販フレームでも充
分なマッチングを見せ、逆に
操安性の向上をもたらし、グッ
ドハンドリングをさらに補助
した。
ヤマハはレースと公道市販車
を高次に融合させる二輪開発
に世界で唯一成功したメーカー
として世界トップに君臨した。
1987年にホンダがその手法を
模倣して市販公道車にNSR
250Rを登場させた。
1985年度WGP世界チャンピオン
マシンをベースに公道市販車
を開発して1986年に完成させ
たのだった。
1986年当時、国内では公道市
販車ベース
のレースF3(フォー
ミュラ3)が純レーサークラス
のGPマシンレースよりも人気
あったからだろう。
そして、HY戦争という80年代
市場
争奪戦の中でホンダが王
ヤマハを撃墜するためでも
あった。

だが、レーサーから公道市販
車への技術ノウハウの落とし
込みという手法はヤマハが
すでにレーサーTD-3を公道
市販車DX250開発に投入する
事で
1970年に既に実行してい
た。

ホンダはそれから遅れる事
16年後に、対ヤマハ戦略とし
てヤマハと同じ方法を採った
のだった。
あまり二輪の歴史を知らない
人たちは、1980年代後半の
ホンダNSR250Rの登場はレー
サー開発技術を公道市販車に
採用したものとして狂喜した
が、その方法はヤマハが遥か
昔から採っていたマシン開発
のやり方だったのだ。

速く安全で操安性の高い二輪、
それは唯一ヤマハが作り続け
て来た。
「レーサーレプリカ」という
単語が登場したのは1980年代
だが、ヤマハは1960年代末期
から既にレーサーも公
道市販
車もほぼ共通の構造と
部品構
成だった。

2ストスポーツマシンはヤマハ
が世界一だったのである。
とりわけ250/350クラスでは、
ーサーも市販車もヤマハが
世界
頂点に立ち続けた。

だが、1970年代中期頃から一
市販車では4スト大排気量モ
デル
が人気となり、軽量超速
の2スト
中排気量クラスと4スト
大排気量
クラスの人気が二分化
して行く。

そして21世紀に入り、2ストが
消滅するに至り、4スト全盛時
となった。
同時に1996年以降の限定解除
制度の廃止による大型二輪免
許超絶簡易化により、人々の
人気は4スト大型バイクに集ま
った事も相乗効果となり、大型
4スト二輪が日本国内では人気
の中心となっ
た。
新制度大型二輪免許は1975年
免許制度改正前と同じく最初
から大型
二輪に乗れる制度だ。
1975年以前は、最初はライト
ウエイトクラスからミドル
クラス、そして大型クラスに
移行乗車する人が殆どだった
が、免許取得後いきなり大型
車で、しかもかつてない750cc
縛りさえも無くビッグバイク
に乗れるようになった。
当然、運転技術が乏しく未熟
で事故を起こす人がかなり増
えた。跨ったまま二輪車を
倒してしまったり、自分で
起こせないというそれまでに
は見た事も無い前代未聞
の事
態が1996年以降日本国内に多
発した

日本の二輪文化の健全な発達
はそれ
らにより消滅に向かい
始めた。

また、乗り方について大嘘教
えの勢力が官民
共に登場し始
め、悪貨は良貨
を駆逐するの
如く蔓延しだし
た。
結果、それが二輪事故増加の
潤滑剤となり、多くの無知で
不見識なライダーの嘘乗りに
より事故が多発増加するに至
って
いる。

閑話休題。
日本の二輪メーカーは世界の

モーターサイクルを牽引して
きた。つい2010年頃までは。
その中で、ヤマハこそは日本
の二輪産業と世界の二輪文化
の礎の中心幹だった。

YAMAHA as number one.

Yamaha Handling Vol. 2 –
The Birth of a Legend.

 


世界王者のヘアピン!神回!?Jonathan Reaの操作をじっくり見たら凄かった!

2024年06月17日 | open

世界王者のヘアピン!神回!?
Jonathan Reaの操作をじっくり
見たら凄かった!


これこれ。
この乗り方。
後輪を外に出す乗り方。


ごく普通の喫茶店

2024年06月17日 | open



1968年(昭和43年)からやってい
ごく普通の喫茶店だ。
広島市南区宇品の「海岸2丁目」
バス
停の真ん前にある。


めちゃくちゃ行きたい。
ごく普通の喫茶店だが、その
普通の喫茶店が実は現代では
ドライブインと並んで絶滅危
惧種なのだ。


広島市内の宇品界隈は古く
からやっている喫茶店がま
だ多く残っているエリアだ。
海あり、島あり、港あり。
路面電車
も通る古い街
私は広島市内でもかなり好き
なエリアだ。


海岸通りという名称の通りも
ある。これが電停名では海岸
通と書く。
フォークデュオ風の伊勢正三
さんの名曲に「海岸通」とい
いう曲があるが、あれはよく
「かいがんつう」といじられ
たと伊勢さんは昔語っていた。
ただ、ストリートは「通り」
の送り仮名を記さないのが本
当は地名としては正解なので
は。「人とはなした」は「話
した」と書くがそれは「はな
した」なのか「はなしした」
なのか一見分からないが、日
本人なら文脈から即理解でき
る。
そして地名は元来「とおり」
には送り仮名を送らない。
浅草の言問通りも元来は「言
問通」が正解だろう。なぜな
らば、用法として「言問い」
とは書かないからだ。
地名の「通り」には本来は送
り仮名
をふらないのが正解と
思える。「送り仮名」の「送
り」とは品詞が異なる。
(但し、法曹界での法文表記

法では「問い合わせ」の事を
「問合せ」と書くような表記
方法
が一般的)

なお、住所表示において、法
律上は「~丁目」までが地名
であるので、「浅草一丁目」の
ように漢字で丁目の番号を記
すのが正しい。これは法的に。
なので算用数字と併用すると
「浅草一丁目1番1号」という
住所表記が法律上は正規の記載
方法
となる。かつての登記書類
などはすべてこれ。

こうした事が理解できない外国
人にいくら説明しても、「麻布
十番」の事を "Azabu 10 Ban"
と書くオーストラリア人がいた。
「麻布十番」というのは地名な
ので、英文表記ならば ”Azabuju
ban” が正しいと説明しても、
私たち英語圏の人間は10 Banと
書くのだ、と譲らない。
困ったもんだ(笑
それ、根本的に違うから。
地名に番号がついていても、そ
れは地名なので漢字表記であり、
英文記載でも読みのままアルファ
ベットで記載するのが正しい。
六本木は6本木ではないし、四日
市は4日市ではないのだから。
廿日市なんてのも20日市にはな
らないのだから。
都内でも「5日市街道」なんて
書く事はあり得ない。
地名発生当初の原意はナンバリ
ングであっても地名は固有名詞
なので付与番号概念で数字を記
載するのは日本語として誤りだ。

「とおり」に関しては現在は
「通」と「通り」の二種類が
事実上使用されている。
なお、「ひとり」を漢字で書く
際に「1人」というのも間違い
で、日本語では「一人」と書く。
「2人」で「ふたり」とは読ま
ない。「ふたり」は「二人」だ。
「2人」の読み方は「ににん」。
「さんめい」はナンバリング
読みなので「三名」でも「3名」
でも通用する。「みめい」とは
読まないからだ。
だが、「1人」を「ひとり」と
は読まない。
日本語はややこしい。



 




ヤマハのオートバイ

2024年06月17日 | open


左からヤマハ、ピアジオ、
スズキの125二輪車。

共走りしてみて、ヤマハの
バイクがよく走るので、今
更ながらだが改めて感服した。
124cc SOHCエンジンの馬力

は10PSに満たないが、乾燥
重量116kg、4バルブで俊足。
実によく走る。
やっぱりヤマハ発動機だ。
エンジン屋さん。物が良い。

尤も、よく走るのはオーナー
さんが愛情を注いできちんと
よく整備しているからという
のもある。車の本来の能力を
引き出すように維持管理して
いるから。
これは基本だが、その基礎、

基本をおろそかにすると、
械ものはたちどころに正直

即反応を示す。

車両は走れなくなる。
エンジン
すらかからない。
中には、状態が最良であるの

に、余計ないじくり倒しをし
てマシンを壊すケースも世の
中にはある。


私のベスパは125cc(ぴったり)
SOHCの3バルブ11馬力、
乾燥
重量114kg。

実はこれまたよく走る。
私の2stビーノも整備ばっちり
でポンポンウイリーの瞬発力
マシンだったが、ベスパは通
常基本メンテ(駆動部への必
要油脂補給等)のみでド快調
だ。
とりわけ、初速から中速域
まではヤマハ125よりも速い。
中速から高速域にかけては
ヤマハがグンと伸びて来る。
これは過日地元の友人と並
走したり乗り換えた時にも
著に現象が感知できた。
スタートダッシュはベスパ
のほうが速いが、流れに乗
ってからのヤマハはグーン
と加速する。
最高速度域での走行性能は
ヤマハもベスパも大差ない。
ただし、ハンドリングとブ
レーキは圧倒的にヤマハが
優位だ。
ベスパのほうは伝達がダイ
レクト
リーで路面状況が把
握しや
すい。

原付2種枠の街乗りスクーター
はかなり面白い。
ホンダOEMではなく、ヤマハ
のオリジナルエンジンを搭載
したレトロスタイルの125の
スクーターなどは、走りもス
タイルも非常に良いのではな
かろうか。


こちらはハイブリッド車。
これはまたオシャレばい。


ヤマハが作る二輪には一つの
特徴がある。
それは排気量関係なくデザイ
ン的にどの二輪
も洗練されて
いて、ダサいオ
ートバイがヤ
マハには1台も
無いという事。
これはヤマハ発祥当時
から現
在までヤマハの印象を特徴づ
ける一つの傾向性だ。

国内4社の中ではヤマハが一
番造形力
が卓越している。
意外なところでは、スズキが
時々ポンと飛び抜けて良い
デザインの二輪を出す。ダサ
ダサ極め付きを出すのもスズ
キだが。

ヤマハのバイク。
造形が素晴らしい。
エンジンも良い。
ハンドリングも良い。
良い事ずくめ。
ただし、二輪車を選ぶのは
完全に個人の好みだ。
優れたデザイン=人気車種

という事でもない。
どう転んでもインダストリ
アルデザイン的にも造形美
学的にもダダ滑りのデザイ
ンのバイクでも大人気とい
うモデルも存在したりする。

 
 

 




消えた自転車

2024年06月17日 | open



昔、といっても1970年代の
大昔。
こういう自転車、小学生男子
の間で流行した。

私は仰々しくて嫌いだったの
で、ママチャリだったけど。
私の愛車はミモレだった。
こんなの。これの白いのに乗
ってた。


あのフラッシャー付き少年用
自転車はどこに行ったのだろ
う?
いつのまにか消えた。
今考えると、あれは何だった
のだろうと思う。
日本でアメリカンクラッカー
が流行った頃の話だ。
あの自転車、灯火類を外せば、
デザインはそこそこイケてる
自転車だと思うけどね。
1980年頃にマウンテンバイク
が流行ってからは完全に消滅
した模様。


バランス

2024年06月17日 | open




このナナハンはフロントが
重すぎた(笑
それはCB750FBの特徴だと
はしても、フロント荷重は
重すぎると感じた。
初期のメーカーノーマルの
カウルって、重量がかなり
あったのよ。フェアリング
というよりボディの一部み
たいな程の厚みと剛性と重
量。
高校時代から見慣れていた
純レーサーのカウルとはあ
まりにも物が違うので、な
んだかなぁ感は正直なとこ
ろあった。
これはその後、
83年発売の
スズキのガンマ1型に乗った
時にも感じた。
カウル厚いっ!やはりこれ
なのか!と。

ただ、やっぱしオートバイは
2ストが抜群に面白く感じた。
特にライトウエイトクラスの
軽量な2ストモデル。
おもちゃのように自在に扱え
て、かなり楽しかった。
全速パワーバンドを使って走
れる楽しみ。
車自体が面白かった。
だが、車の能力を引き出す走
りを公道でやってると、その
うち免許が消えるという事に
もなるケースも世の中多かっ
た模様。
よくない。
しかし、現代のコンプラ警察
良市民ぶりっこの蔓延は社会
的に異常。
社会全体が集団姑・小姑の嫁
いびりみたいだ。
精神が歪んでいる。