渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

転倒のメカニズム<転びのカラクリ>

2024年06月04日 | open

【gsx1300r】納車されて3か月、
動画初出しにして早速やらか
しました・・・【事故】


よい景色のロードを走っていて、
ピカ
ピカのビッカビカの綺麗な
新車の隼で転んでいる。フロント
から。ドガシャと床に頭を押さ
えつけられたように。
砂利場を越えて退避エリアに
入ろうとして転倒してる。
操縦ミスだ。気落ちするのも
よく分かる。ピカピカの綺麗な
新車だから。しかも隼。
いい車が一瞬で疵だらけになっ

た。
だが、操作ミスだ。砂利場で
フロントかけすぎという。
道路のせいではない。自分の

せい。

最近、転倒事故のメカニズム
というか、カラクリを研究して
いる。
私自身は1985年以来公道では
無転倒だが、私はこの動画の
ような転倒は生まれてこのかた
やった事が無い。立ちゴケも
ゼロ。
峠ではよく転んだが、それは
前輪か後輪がスリップダウン
しての転倒だった。
パァーーンと来てパンパンと
シフトしてブレーキングしな
がらギューンと旋回して、立
ち上がりにパーンと開けてい
った時に転んでいた。
もしくは下り全開で前輪が
チャタリングを発生して即
前輪足払いとか。
一度だけ、低速寝かしゴケが
あった。タイヤのグリップ頼
りで倒したからだ。旋回フォ
ースによる面圧をかけずに。

こちらも新車を転倒させてい
る。
いきなり転んだので、転倒
原因がよく判らない。
たぶん、ブレーキ操作のミス。
【Z250】新車、林道に散る【転倒】

路面状況のせいにはできない。
そういうところを選んで走った
のは自分なのだから。
部分的なポイントであっても。
誰かのせいにしている限り、
今後もいくらでも転倒する。

私が欲しい情報は、こうした
操作ミスによるものではない。
通常の適正走行をしていて、
何らかの外的ファクターが到
来して、不可避的な転倒を喫
するケースだ。
避けられないような外因であ
っても、避けられる道はない
だろうか、というところを考
察したいのだ。

ただ、動画サイトにアップされ
ているのは、殆ど初歩的な素人
のようなミスで転倒している。
そして、多くはブレーキを適正
に使えずに転倒している。
立ちゴケやUターンごけは論外
なのであまり見ないが、見たと
しても、あまりにも免許持ちと
は思えないド素人ミスに起因
するものばかりなので研究の
参考にはならない。
もっと、まともに二輪に乗って
いて、さらに技術的な内容も
高度な事をやっていながら、
なぜか転倒してしまったという
ケースを探している。
だが、そうした高次元状態で
走行しながら転倒してしまうと
いうケースはほとんど見られな
い。
技術上級者である湘南の川沿い
さんが
37年ぶりに転倒したのも、
余計
なもうちょいバンクを出来
心でやって
しまって、車体が路
面に接地
してバンク中にタイヤ
が浮いて
転倒している。
これは操縦というより、判断
ミスだ。バンク角以上に倒して
みたのだから。思い付きで(笑
高次元技術者による転倒だが、
これも判断行動選択ミスによる
ものなので参考にはならない。
上級者にしてはかなり珍しい
転倒で、そういう意味では参考
になるが。私が仮にVツイン
マグナあたりに乗ったらやらか
しそうだ。ハーレーとか。
私は自分のロードモデルでは
タイヤの両サイドまで使う
が、
あまり寝かしてはいない。

面圧をかけてタイヤを潰して
いるだけだ。
これは自動二輪も原付スクー
ターも。原付もサイドまで使い
切っているが、さほど寝かして
いない。
旋回速度が速い外力=
フォース
によりタイヤを潰して
グリップ
させているだけ。


転倒。
二輪にはついてまわる永遠の
回避すべき課題。
転倒のメカニズムを徹底的に
解析して理解すれば、転倒回
避の方策は必ずや見つかる。
あすは我が身なので、私は転
倒者たちの公開提供動画を多
く観
る。
自分の転倒回避の為に、何か
得られるものがある筈だから
だ。
「ば~か。下手くそ」とかは

一切思わない。
「あ、ここでこうしたからこ
うなったのだな」と物理的な
事象を客観的かつ冷静に解析
する。
非常に為になる。
私自身は1985年から無転倒と
はいえ、
いつ転倒が到来する
かも
わからない。
転ばぬ先の杖として転倒の
原因を研究考察している。

数年前、真夏にコーナー抜け
たら
ヘビ踏みそうになって
倒しそうになった事が
あった
がクイックにライン変更で回
避した。1983年にウンチーニ
をケニーがクイック回避した

ように。
あと、やはりコーナーを快速
全開で抜けた
瞬間にウリ坊が
目の前を猛ダッ
シュで道路を
横切った事もあった。

あれは直撃だったら回避不能。
確実
に転倒だっただろう。
目の前を横に猪突猛進だった
ので単なるラッキーだが、出
口が
見えてから全開にする癖
を公
道ではつけているので難
なく
過ぎた。
鹿とかの直撃転倒事故もある

ので、それらは不可抗力だろう。
広島空港周辺ワインディング
でコーナー抜けたら大猿がいた、
というのもあった(笑
あの時は道の真ん中にいた猿
が動かないでいてくれたので
クイックステアで避けられた。

こういうのは避けようがない。
【詳報】「まさか自分がぶつ
かるなんて」シカとオートバイ
衝突の一部始終 10月はシカが
絡む事故最多で要注意

実際に1980年代前半、私の
走りの相方の弁護士は環七で
猫が飛び出して前輪に直撃
して転倒している。避けよう
がない。
また、その人は中央高速の
コーナー連続エリアで、オイ
ルが川のように流れていて、
高速道でスリップ転倒も経験
している。
遥か先に路肩停車してた四輪車
からオイル垂れ流しだったそう
だ。追い越し車線から路肩まで
斜めにずっとオイルがあった
という。


鹿直撃とかオイルの川とか、そ
ういう
転倒要素が知りたいので
もな
く、マシンの挙動上のミス
マッ
チ、機械的なアンバランス
状態による転倒やそれを回避で
きた事例
について詳しく知りた
いのだ。

観念的や情念的なものではなく、
物理的な現出現象とその処理
の如何について。
サーキットでの二輪の転倒事例
などは具に即理解できるので
参考にはならない。
だが、公道では、極限に遅い
速度領域であるのに、不可解
な事が発生する。
そこを知りたい。
そのカラクリを解き明かしたい
のである。
あまりにレベルが低いのは参考
にならない。立ちゴケやUターン
ごけとかの素人載りによる転倒
とかは。
そうした求める複雑高度な次元
での
公道転倒の事例は、ありそう
で、
なかなか無い。

私が1985年以来無転倒である
理由は解っている。
それは「このままでは公道で
死ぬな」と思い、1984年から
徹底的に転倒の原因を探究し
たからだ。
そしてコースとは異なる「公道
用の走り方」を模索した。
凡そ推測と理解が及んだ頃、
ふと気を抜いて面圧をかけず
に寝かし込んでそのままパタン
ガシャンと転んだ。
それが1985年の道志みちだった。
それは特例的な初めての転び方。
私の場合、多く転倒を喫したが、
コースではなく公道では同じ要
因での転倒をした事は無い。
すべて別な事で転んでいる。
共通項は限界値をオーバーさせ
るミスをしての転倒だ。 
寝かしゴケでは膝擦りからその
まま車体がさらに寝て転倒させ
てしまった事もあった。
私が必要以上に寝かせ過ぎる

癖があったのは、いつも共に
走る相方弁護士の
二輪乗りか
らの指摘で知って
いた。
過度な寝かし込み過ぎ
は、そ
れは過ぎたるは、なの
だ。同
速度ならばバンク角が
浅いほ
うが全方位的に安全だ
し速い。
だがまずそれに20代前半は気
かなかった。
こうした事による私の転倒は
全て私のミスによるものだっ
た。
操作ミス以前に思考のミス。

なので、ミスはミスなので何が
どうミスなのかをとことん突き
詰めれば同じミスは犯さない。
結果としては、新たな未知の
ミスによる転倒はあったが、同
じ過ちによる転倒は一切無かっ
た。またか、というのは無い。
すべて別ケースの別要因による
転倒だった。

だが、まだまだ未知な事は必ず
ある筈なので、そこを予測研究
しようとしているのである。
自分が思わぬ事で死んでしまう
前に。思わぬ事を思える事に
転化させて、それを完璧に理知
と実行で回避
する為に。

二輪で事故を起こさないやり
方は
簡単な事だ。二輪に乗ら
なけ
ればよい。
だが、それは「競馬で負けな
いためには、馬券を買わない
事」と同じで、話にならない。
抜本的解決を追及する姿勢で
はない。それは回避ではなく
逃避だ。

私は二輪乗りなので、それは
しない。事故回避の為に二輪
に乗らない事を選択するという
のは無い。私は事故防止の対
処方法を探る。ありとあらゆ
る観点から。

「受験で落ちない為には受験
そのものをしなければよ
い」
などという発想も実行も
私の
中には存在しない。

逆にそのような在り方によって
物事を回避する事がまっとう
な人間的な生産的行動とも思
えない。
非生産的なものは何も生まな
い。
危険は来なくとも、そこから

は何も生まれない。前にも進
まない。
向こうに行く意思があるなら
ば、例え目の前が火の海であっ
ても、そこを乗り越えて行く
必要が人はあるだろう。
たとえば、自分の子どもや人
の子だろうと火の向こうにい
て助けを求めている場合とか。
これは局地戦の修羅場におい

てさえも。
そうしたことは国内の社会運

動や外地の戦場では常にある。
自分はどちら側の人間なのか、
と問われる場面が。
行くのか殻に閉じこもって自分
の身の保身のみを求めるのか。
そして、「自分の事だけしか
考えない奴は自分をも滅ぼす
奴だ」(by 島田官兵衛 on 七
の侍)なのだ。この島田氏の

言は真理である。

たかが二輪に関して、予定調
和の不乗車による事故回避=
避などして何の意味がある。
況や二輪乗りにおいてをや。
日和ってる暇あったら、その

時間を「どうやったら危険を
回避できるか。どうしたら安
全を確保できるか」に腐心し
たほうがましだ。
そして、その実現は走りの中

でこそ実現できる。
前にしか進まない二輪という
乗り物を走らせる事によって。


 
 
 


 



映画『彼女が水着にきがえたら』(1989)

2024年06月04日 | open




映画『彼女が水着にきがえたら』
(1989)で、織田裕二と谷啓は
ヨットマンとしてヘリ―ハンセン
のウインドブレーカーを来ている。
映画は全編サザンの曲が流れる
ミーハー若者冒険物語だ。
『私をスキーに連れてって』(87)
の次はマリンスポーツがネタ。
バブリーな頃のホイチョイムービー
のチャラくもライトに楽しめる
映画だ。

この色はレッドでもオレンジ
でも
なくネオンオレンジとい
う色。
オレンジがかったベスパレッド
よりもややオレンジ
が強い。


主演は織田裕二ではなく原田
知世。薬師丸ひろ子に続く角
川の秘蔵っ子だ。
なんだ?この原田さん。
ノリックか?


主人公を海難から救ったのは
ヨット「ツバメ号」だった。



ウインドブレーカーは1980年代
にはライト感覚で着られる上っ
張りとしてかなり普及した。
ジャンパーという名称がブルゾ
ンという呼称に変化した頃。
ジャケットという名称は今でも
息長く使われている。
ウインドブレーカーの薄い生地

のジャケットが重厚なコートと
合体してスタジアムコートが
誕生するのも1980年代末期だ。

例によって原田さんは可愛い。
『時をかける少女』(1983)時には

14才だったが、6年後のこの『彼
女が水着にきがえたら』(89)では
大人になった若者女性を演じて
いる。
織田裕二は激烈競争率のオーデ
ションを勝ち抜いて準主役を
獲得した。彼も実力派としてこの
作品後に大きく飛躍する。



この『彼女が水着にきがえたら』
に出て来るDC-3は英軍名はダコタ。
映画『ワイルド・ギース』(1978)
にも出て来た名機だ。傭兵部隊
の撤収の時に使用された。
本『彼女が水着・・・』では作品

中重要な物語のキーとなる。

この時代、1980年代末期~90
年代初期は、日本国内は空前
のバブル経済で景気が爆発的
に良かった時代だ。
首都圏の勤め人の給与も毎年
ドカンと上昇した。
1988年の28才が年収650万超え
だったのだから、いかに尋常で
ない経済隆盛だったかがわかる。
銀行や証券会社勤務だと同じ

28才で800万円を超える年収だ
った。
原宿でワンルーム600万円で売
りに出された物件は、オーナー
が立ち代わり何度も転がし、半
年後に
は6,000万円で売却された。
そういう時代。
タクシー(まったくつかまら
ない。乗車拒否も日常)に乗っ
ても、1メーター2メーターで
1万円札渡して「釣りはいらな
い」と言うのがごく普通の若い
サラリーマンたちの土曜の夜
だった。
都心部の人々は本当に浮かれて
いたが、バブルで苦労をした
人はいない。妙な利殖投資で
失敗しない限り。
経済爆発対策というのは悪く
はない政策だと思う。
だが、権力は意図的にプラザ
合意以降の自己債務を処理し
たら一方的に金融引き締めを
して銀行の債権が焦げ付いた。
そして一気に景気は冷え込み、
続々と倒産も連鎖発生。
自殺する人も増えた。
結果として、現代まで続く
「失われた30年」の真冬の
時代が到来した。
戦後初の日本経済の落ち込み
がバブル崩壊により発生し、
それは現在も続いている。

バブル時代、ホイチョイムー
ビー三部作は、軽快で明るい
社会世相を色濃く反映させた
お軽いムービーだった。
『私をスキーに連れてって』(87)
は社会的にスキーブームを
発生させて、国内人口の若者
の殆どがスキーに親しんだ。
まだスノボは主流とはなって
いない時代。
温泉旅行ブームと合体して、
スキー旅行に若者は行きまく
った。
続く『彼女が水着にきがえたら』
(1989)では、マリンスポーツと
プチ冒険が流行った。スキュー
バダイビングが南海旅行の定番
となったのもこの作品の影響だ。
『波の数だけ抱きしめて』
(1991)はバブル崩壊後の作品
だが、舞台はバブル遥か前の
1982年(スタグフレーション
時代)の湘南が舞台だ。
その82年の湘南で学生時代最後
の夢としてFM曲を開設しようと
する若者たちの青春を描く。
もろに私の世代が時代的に登場
人物たちの世代として描かれる。
作品の中で出て来るアイテムは
車両から音響装置から何から
何まで時代考証がかなり正確。
前作2作とは趣が異なる作品だっ
た。


これらホイチョイ三部作の
若者たちは私よりやや下の
世代だが、時代の中では同
じ20代で同世代でもある。
私ともろ学年的同世代の女優
としては『水着』で田中美佐
子さんが登場する。
実学年は私のひとつ上。


この人は清潔感があってとても
いい感じの女優さんだった。


田中さんは1982年に『ダイヤ
モンドは傷つかない』で初映
画主演ながら日本アカデミー
賞新人俳優賞を受賞した。
実力演技派。
今は釣りおばちゃんみたいに
なっているが、映画人として
俳優の実力は確かなものがあ
る。
35才の時、年収1億円を超える
女優だったが、7才下の月収10
万円の芸人と結婚して話題と
なった。

1980年代。
それは高度経済成長期が「昭和
元禄」といわれた時以上に日本
が明るかった時代。
これの真の背景は分かっている。
それは経済学的なものではなく
政治的なものに依拠していた。
アメリカが1975年ベトナム戦争
終結以降、局地戦介入はあった
にせよ、90年の湾岸戦争まで
本格的な戦争をしなかった時代
が1975~1990だった。
日本は米国のポチなので、その
米軍の戦争手控えの時期に更に
米軍との軍事同盟を固める。
リムパック日米韓環太平洋軍事
演習への初参加等、自衛隊の軍
隊化を一気に日本は推し進めた。
中曽根の「不沈空母」発言に
見られるように。
同時に国内景気循環政策を為し
た。オイルショック以降の停滞
をそれで払拭した。
そうした「表向き」の平和な
時代、日本国内は明るく湧きに
湧き、若者文化が1960年代以上
に勃興した。
そして、かつては抵抗文化とし
て存在したサブカルチャーが
商業主義にからめとられて、
サブカルはヲタクを生み、思想
性は完全消滅した。
原宿の街にはタケノコとローラー
が溢れ、日本全国おのぼりさん
修学旅行の行き先は原宿になった。
政治思想的抵抗文化の瓦解とミー
ハー感性の爆発的蔓延が1980年代
の国内を席巻した。
権力サイドとしてはシメシメの
思うつぼだった。
唯一気を吐いたのはパンクの
連中だけだった。

1980年代の特徴的な事として、
ロックは何
と体制側に寄り添う
連中まで登
場した事が挙げられ
る。フォークポップの分野に

でも。
セイセイ言って今は創作
キャラ
の男もオカッパ頭でジュン
コ~
切ないよとかいう「女々」
しい
歌は捨て、疑似似非マッチョ

アウトローぶる演出にスイッチ

した。実際にはアウトローでは
なく体制べったり派だが。
そしてそれは、強大な権力の横

行に抵抗するかつての若者文化
ではなく、ジャイアン的な力を
支持する新世代の若者を喜ばせ
た。
1980年代は、音楽シーンにおい
ても抵抗文化は死滅に向かった。

広く明るい若者文化は花開いたが、
ニセモノ
「文化」も登場して蔓延
したのが
1980年代だったといえ
る。

そして、予定通り、国家権力の
金融引き締めによりバブル経済
は終焉した。
融資を停止させられて倒産する
企業が相次いだ。
多くの死人も出た。
経済が潤い、国民生活は首都圏で
は豊かになったが、一方で金権
主義も蔓延り、ゆがみを生じた。
だが、その後の政治は、田沼意次
時代の経済繁栄を寛政の改革で
閉塞社会にしたのと同じような
手法を日本の実効支配者たちは
採った為、経済だけでなく政治
状況も混乱した。
かくして、社会党は風前の灯と
なり、自民党さえも内部分裂し
た。
55年体制は完全崩壊し、自民党
が政権与党ではなくなった時代
が到来したのが1990年代初頭
だった。
その後社会党の総理大臣で自民党
が連立政権というわっけ分からぬ
政権が日本に誕生し、その後も
混迷を極める事になる。
その後自民党はカルト宗教団体
を支持母体とする政教分離原則
の態度がよく判らない政党を味方
にする事で与党政権を維持する
という、90年代初期の混迷路線
を未だに踏襲するようになった。
この頃になると、漢字をろくに
読めない人間が総理になるのが
定番となった。
麻生の「未曾有⇒みぞうゆう」
にはじまり、安部までもが
「云々⇒でんでん」(連呼)と
言って野党を罵倒した。
なんだそれ?(笑
中曽根や田中角栄はやってた事
はともかく、それ
なりの押し出
しの強さがあった
が、でんでん
とはそれはもう
みぞうゆうの事
態だ。鳩山由紀夫と同じ種族の
匂いがする。世間も知らなきゃ
漢字も知らない。まして一般

国民庶民の心など誰が知る。

もしかすると、1990年=1980
年代の最後の年で、日本は終わ
っているのかも知れない。
ハマコーが総理になってたら
もっと面白い世の中になって
いたかも知れない。
東京湾ど真ん中にカジノ建てて
日本をモナコ化したりとかで。
(私の言ってる事を真に受ける
なよ。アイロニーなのだから)



江戸三大蕎麦 「砂場」「更科」「藪」

2024年06月04日 | open
 


江戸三大蕎麦のうち、私は

個人的には更科が好きである。
だが、コクのある砂場も捨て
がたい。味と香りでいったら
断然甘皮残しの砂場で、更科
は素麺みたいな白く澄んだ甘
目の蕎麦。
だが、このサッパリ感が更科
は堪らない。更科以外にはこ
特色は無い。
藪はしょっぱい蕎麦つゆが
ち味で、いかにも江戸下町

くてこれまた非常に良い。

江戸御三家を凌ぐ店舗数を
つのが長寿庵で、やや緑の

麦だ。元禄時代に江戸に開店

した。三大蕎麦と並び、古い。
また明治以降の新興勢力の蕎麦
屋としては満留賀(まるか)が
ある。つゆが甘い。

江戸蕎麦は江戸時代から現代ま
でも、暖簾については厳しい
掟と定めがあり、強固な自治
組織として機能している。
蕎麦屋を開くに勝手は赦され
ない。それが江戸蕎麦のしきた
りだ。
それゆえ、味も江戸時代からの
伝統が受け継がれている。
現代飲食業の資金さえあれば
勝手次第の勝ち組狙い、など
という西欧エコノミックアニ
マル
的な事業展開に真っ向か
ら対立
するのが江戸蕎麦の存
在だ。

伝統の味を守る為には、時流に
流されない強い組織と意思の
結束が必要なのである。
長いもんには巻かれない江戸っ
の心意気によって江戸蕎麦は
現代
人も食べられるという恩恵
にあずかっている。

江戸蕎麦は根性と性根が入った
蕎麦なのだ。

江戸時代、江戸蕎麦は武士から

庶民まで愛された江戸のソウル
フードだった。
そして、今でも、東京では蕎麦
うどんよりも人気だ。
鉄道駅には大抵立ち食い蕎麦屋
がある。これは江戸蕎麦ではな
く現代チェーン店だが。
古い東京人の蕎麦の楽しみ方は、
蕎麦屋がちょいとしたサロンの
ような場所となり、酒を飲み、
蕎麦をちょちょいとつまんで
気の置けない仲間と談笑する。
これが江戸期から続く東京の
蕎麦屋での交流だった。

ちなみに、江戸蕎麦ではざる
ではなくもりが主流だ。
ざるは海苔が蕎麦の風味を妨げ
るので、東京人というか蕎麦通
はざるは頼まない。
地方に行くともりが存在せず、
ざるのみとかの店ばかりだが、
それは蕎麦店の本来の味提供
からは大きく逸脱している。
なお、もりは二枚で一人前と
いうのが江戸蕎麦の特徴でも
あり、メニューには「二枚も
り」
というのがある。「大盛
り」で
はない。
少なめのもりを二枚頼んで、
重ねたせいろからパッパと食
うのだ。

しかもそばちょこのつゆには
べったり
とは蕎麦を漬け込ま
ない。サッとつけ
てズズーッと
一気に食う。

基本的に江戸者は気が短いので、
江戸時代から江戸ではファ
スト
フードが大流行した。

もりが大流行で隆盛をみたのも
熱々ではなくサッと食べられる
からだろう。幕末に登場した
握り鮨と同じく。
握り鮨も最初は屋台で出すファ
ストフードだった。
蕎麦屋も二八などは移動屋台で
出されていたが、店舗蕎麦と並
んで江戸市民には大変人気があ
った。
大阪を食い倒れとは言うが、橋
の数や食文化においても、江戸
がやはり世界一の大都会である
だけに、人々が食する社会構造
の発達度合いは江戸が高かった。

お二方とも亡くなっちまった。
そのレポート。
BS朝日 - 円楽の大江戸なんでも番付

BS朝日 - 円楽の大江戸なんでも番付

BS朝日「円楽の大江戸なんでも番付」のサイト。江戸時代に発行された、現代のランキング本の元祖ともいえる「見立番付」から、庶民の意外な暮らしぶりが見て取れる!今日は...

 

 

なお、東京人の人口比率は
日本全体人口の1/10に及ぶ。
日本人の10人に1人は東京人
であるという特徴が日本には
ある。
日本は法的に国号(国の正式
な名称)
も首都も定めていない
世界でも珍しい国だ。
なので日本の読み方は「にほん」

でも「ニッポン」でもどちらも
正しい。
その日本の行政府としての首都
は一応今のところ東京という事
になっている。国としての首都
ではなく、あくまで便宜上の

首都が東京。
明治以降は東京が日本の首都。
江戸時代終焉までは京都が日本
の首都。行政府中央が江戸。

現代の日本語=標準語は、明治

に江戸の幕臣旗本言葉をベース
にして新たに創作された国語だ。
江戸時代までは階級ごとに使う
言葉が違い、別階級同士の意思
疎通には困難を伴った。
江戸町人が「左様に御座るか。
しからばそれがしはそれを所
望いたす」とか「かたじけない」
などと
いう言葉は使わない。
現代語の「~です」「~ます」

は江戸時代町人でさえ使わな
かった明治新語で、幇間(ほう
かん。
宴会座敷でおべんちゃら
並べて客を持ち上げる太鼓持
という職業)や遊廓の牛太郎
の「でげす」に
近い下品な言葉
に等しいが、明治
以降はそれが
日本の丁寧言葉
と薩長明治新政
府により決め
られた。正式には
「~で御座います」「~に御座
りまする」であったが、それは
現存している。
書き言葉は「御座候」であった
が、それは明治期に消滅
させら
れた。

だが、江戸期から人としての行
儀などは武家の作法を基準とし
たので、町人たちのうち商人の
娘などは武家に奉公に出て行儀
見習いをした。
日本人の現代の食事作法、一般
接客マナー、対人礼儀作法など
も、すべて武家社会の礼儀や規
範を受け継いで「日本人の礼」
として確固と確立している。
日本人で日本の食事作法を正確
に学んだ人たちは、現代におい
ても箸の使い方では無礼非礼な
使い方や手皿受けなどはやらない。
また、訪問先に靴を脱いで上がる
時に、うしろ向きに尻から訪問先
の屋敷に入る極めて無礼な事は
まともな日本人ならばしない。
日本人のマナーはすべて武家作法
をベースにしている。
当然、日本式のおじぎでは両手を
腹の前で組むような朝鮮式のおじ
ぎなどはしない。
最近は就職マナー教室や冠婚葬祭
での企業スタッフまでも腹前両手
合わせのおじぎをするが、いつか
ら日本は朝鮮国になったのか。
江戸期から存在し、明治期に確立
された日本の伝統的な礼法、礼儀
作法を破壊するという事は、日本
を破壊するという反日行為だと
いえる。
食事の際に室内で着帽したままと

いうのも大変礼儀知らずの非常識
な行為だ。
不作法で無礼非礼なおじぎや食事
作法、日常の振舞いは、日本人な
らば
やめよう、諸君。
たとえ気軽に蕎麦を食う時さえ
も。
「時蕎麦」という教え噺もある
くらいで(違

昔、TVのドッキリで、談志が
高座で時蕎麦を演るってんで、
仕掛け
人が客席でもりそばを
ズズーッ
と食べる収録があった。
さすがに出鱈目マンで戒名まで
生前から「雲国斎(うんこくさ
い)」と決めていた談志さえも
それにはぶち切れた。
蕎麦食う演技の際に客席でズズ
ーッと音を立てる。
談志は客席に「おい、やめろ」
とマジ切れしていた。
あれはいくら企画物としても
やり過ぎだろう。
演者の演目を破壊するようなの
は、それは江戸風味の粋や義理
情からはかけ離れている。
あれはいわゆる大阪弁でいう
ところの「あかんやつ」だった。

企画した人間、東京もんじゃな
のだろうな、と見てて感じた。
感性がまるで違うもの。
あれは笑えない。
あれでお笑いを取ろうとする

感覚は東京人には無い。