渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

片山敬済 世界GPの記録

2024年06月12日 | open

RIDERS CLUB VIDEO 4
The Way To The Crown
片山敬済世界GPの記録
ライダーズクラブビデオ


これは貴重な映像。
YouTubeではアスペクト比が
潰れてるのが残念だが(笑
私は本作品はビデオでは持っ

ているが、デッキで再生でき
るかどうか不明。

ネモケンの奥さんが可愛い。
1970年代の女性という雰囲気。
イルカさんみたいな
オーバー
オールを着ている。



こういうのが個人的にもとても
懐かしい。



プライベーターである。
家族がチームスタッフだ。




柳沢雄造さんも映ってる。





 


映画ロケ地の特定『彼のオートバイ.彼女の島』(1986)

2024年06月12日 | open




映画「彼カノ」ではまだロケ地
を特定できていない場所がいく
つかある。

まずは、瀬戸内海沿岸のここを
特定したい。


そしてこの湖畔のロード。




映画の物語自体はロケ地が

飛び飛びで編集でひとつの
ツーリングコースのように
仕立てているので、映像の
流れからの特定は無理。
切り取られたカットからの
み場所を比定するのが近道
だ。

本作ではロケ地不明場所は
いくつかまだあるが、上記
2ヶ所は特定したいと思って
いる。
広島県三原市内と県北部と
尾道市内の走行ルートは私
は特定できて過去記事にアッ
している。
しかし、二人連れだって走り
始めた最初の瀬戸内海をバッ
にしたロードと、湖畔の
ルート
は特定できていない。
地図とネットマップのストリ
ートビュー
で探査を続ける事
にする。


湖畔のロードは広島県内と踏ん
でいる。
似たようなロードがかなり沢山
あるので。
決め手は山のシルエットと太陽
の向きだ。それと突き出した岬
の位置関係。
これは映像を精査した諸情報か
ら朝日ではなく夕陽というのは
ほぼ確定。
そうなると方位が絞り込める。
そしてマップとstビューで探索
が可能となる。
ぼちぼちやっていけばそのうち
場所が特定できるだろう。
また、キャプチャ画像から、
ガードレールとその敷設路面が
1986年撮影時点ではかなり新し
い事も有力情報になる。白線も
まだ新しい。
ダム湖だとしたら、1986年の
の直近に作られた場所である
可能性が高い。
ただ、湖は元からあって新規
道路の開通ルートだとしたら
混迷する。
その場合は、原点に戻り、山の
シルエットから特定を進めて
いかなければならない。

聖地巡礼。
極めて判りやすい岩子島とか
温泉とかに行くのは、あまり
にもありきたりだ。
不確かな部分を解明して映画
中の二人が走った場所全て
特定して、場所を比定して
こそ「
聖地巡礼」なるものの
価値が深まるように
も思える。
映画『ハスラー』(1961)の主戦
場であったロケ地の実在の古
い撞球場である「
エイムス」
の場所や成り立ち、
原作との
差異や店内のすべての
玉撞き
台の配置等を特定したよう
に。
私は、「ハスラー」は原作だけ
でなく、映画のシナリオ原本も
読み込んだ。
なぜか。
作品を堪能する為に作品に肉迫
したいからだ。
戸田奈津子の真逆で。

 
 

 

 


ロードレース雑感

2024年06月12日 | open



1982年WGPアルゼンチンGP。
#3 ケニー・ロバーツ(米。
1978,1979,1980世界チャン
ピオン)、
#16 フレディ・スペンサー
(米。1983、1985世界チャン
ピオン)
#7 バリー・シーン(英。1976,
1977世界チャンピオン)

1980年代初期から2000年頃ま
での世界グランプリが一番面
白かった。
英、米、独、伊、仏、西、日
の先進国の選手がトップ争い
をした頃。
それはもう、熾烈なバトルだ
った。

今のMotoGPは、マシン制約、
タイヤ制約、出場資格制約が
大改編され、ごく一部の選手
たちの選手権になってしまった。
かつて、世界最高峰GPの500
クラスはプライベートでの勝
利は難しかったが、花形であ
り人気も高かった350と250、
登竜門である
125では、市販
ロードレーサー
を駆るプライ
ベーターたちが
メーカーマシ
ンとライダーに
勝てる素地が
あったし、実際に勝っていた。

もっとも、それもハーレーが
イタリア製2ストモデルをワー
クスマシンとして投入したり、
カワサキが自社純ワークスの
350と250を世界グランプリに
参戦させる事で連勝を続け、
やがてワークスマシンでなけ
れば勝てない素地に変容させ
た。

ホンダは1960年代初中期以降
は全く世界戦では勝てない
メーカーだった。
世界グランプリを牽引した日本
メーカーは2スト世界一の開発
力を持つヤマハだった。

そしてスズキ。
1970年代初期以降は2ストマシン
でないとレースでは勝てない速
度になっていた。
これは現在でも変わらない。
4ストマシンは2ストの排気量の
倍のモデルでないと2ストには
勝てない。
世界グランプリが廃止になり、
MotoGPとなって4ストと2スト
混走のレギュレーションになっ
た時、圧倒的に4ストが速かっ
たのは2ストが500ccであるのに
4ストモデルは990ccだったから
だ。
あれが同じ500cc排気量ならば
これは現在でも絶対的に2スト
のほうが速い。
4ストは排気量ハンデを貰わな
いと2ストには勝てない。
それゆえ、同排気量縛りの公正
なレギュレーション時代には
ホンダのNR500は楕円ピストン
という奇抜な構造からではなく
そのあまりの遅さゆえ全く勝負
にならず、2ストマシンさえ与え
れば世界チャンピオンが確実視
されていた片山敬済選手の最高
の時代の3年間を棒に振らせた。
1981年にホンダは4ストこだわり
を捨てて、1982年から本格的に
ホンダ史上初の新規開発2スト
500のNS500(3気筒)を世界
選手権に投入した。
10数年ぶりに世界戦のレースで
ホンダが復活する事を目指して。
それまでは、世界のレースは
ヤマハ、スズキ、カワサキが
独占独走していたからだ。
ホンダのみ4ストにこだわって
いたので蚊帳の外。

ホンダが新規2ストロークレー
サーを世界戦に投入してから
世界グランプリは本格的な群
雄割拠の戦国時代に
入った。
この上画像の1982年は、250
と350
クラスで絶対不動王者
を誇って
いたカワサキのWGP
フル参戦
最後の年で、国産メ
ーカー4社
が出そろった最初
で最後の歴
史的な年だった。

翌年1983年にはヤマハのケニー
とホンダのフレディが激闘を
展開した。伝説のシーズンが
1983年だった。

シーズン通して、優勝したのは
ケニーかフレディしかいないと
いう年。元350世界チャンピオ
ンの日本の片山敬済選手も徐々
に調子を取り戻して快走を見せ
た。特に1983年の第8戦オラン
ダGPアッセンサーキットでの
片山選手の走りは彼のレース
人生の中でも最高の走りだっ
たといえるだろう。
その年の
チャンピオンとなる
爆速フレディ
さえも抜き去って、
アッセンの
コースレコードを塗
り替えて
トップを走るケニーと
ほぼ同着。

判定で0.18秒差でケニーがかろ
うじて優勝した。あとゴールが
50m先だったら片山選手が優勝

していた。

スズキはGPから一時撤退する
が、1980年代後半に再び復帰。
かつてはメーカーチャンピオン
を2年連続で獲得したり、1982
年にもフランコ・ウンチーニ
がスズキのワークスマシンで
世界チャンピオンに輝いていた。
そしてスズキの復帰マシンは
新人のアメリカ人ケビン・シュ
ワンツに託された。
ケビンはかつてのフレディより
もアグレッシブな走りで世界中
のファンを魅了した。93には
念願の世界チャンピオンにな
るが、ライバルだった世界チャ
ンピオンのウェイン・レイニー
がレース中のクラッシュで生死
を彷徨い、下半身不随になって
レースを引退したため、ケビン
自身も魂が抜けたようになり、
翌年1994年にシーズン途中で
あるのにやる気が消滅してレー
スを引退した。矢吹ジョーと
力石の関係のような心持ちか。


1970年代後半~2000年頃まで
のロードレースがなぜ面白かっ
たか。
それは、人間ドラマが見られた
からだ。
ネットも無い情報不足の時代な
のに、世界中の二輪ファンは
ロードレース世界選手権に夢中
になった。最大人気の頃には
NHKさえ「世界二輪選手権」と

題打って世界グランプリを生中
継していた程だった。
そして、世界グランプリロード
レースの世界は、様々な人間模
様が見ら
れる事が非常に人々の
心に記憶
を強く刻んだのだった。
今のMotoGPは記録だけで人の
心に刻まれる記憶を創出しない。
無味乾燥。
端的に言って、全く以てつまら
ない。
バレンティーノ・ロッシの時代
でグランプリの活力は消滅した
のではなかろうか。
グランプリは終わった。
終わっている。


 


レンタルバイクのナンバー

2024年06月12日 | open



レンタルバイクのナンバーは
四輪車と同じく「わ」ナンバー
になる。

 


訪問者数と記事閲覧回数/1日

2024年06月12日 | open




過去1週間の1日訪問者数(UU)
と1日記事閲覧回数(PV)。
私のこのウェブコラム日記は

だいたい1日に2,000人が訪問
して7,000回程記事が読まれて
いる。
1訪問あたり3~4記事を読む
感じ。
かつてこのウェブコラム日記が
日本刀ネタ主軸の頃、300万の
ブログの中で4位になった時も
あった。1日3万ヒット時代。

閲覧数が増えるとアンチも増え
る。
だが、2ちゃんねる、5ちゃんね
る、中傷SNSから流れて来てい
る人間は3万閲覧ヒットに対し
てほんの
100人に満たない程度
でしかなかった。1万人近くの

中でそれだけ。クズは1%以下。
現在も犯罪の温床の悪所から来

る訪問者は20人程しかいない。
超ウルトラ少数派であり、マ
イノリティだ。
私は通常マイノリティ保護に
心が傾くが、誹謗中傷ネット
犯罪者に対しては真逆だ。
まして、ネット犯罪は最初は

一つの書き込みが拡散されて
数十名だが、それがネズミ算

みたいに連鎖暴発するように
増幅す
る。すぐに数万の単位
となり、さ
らに全世界に公開
されている
ので膨大な数の拡
散に繋がる。

そうしたのに乗って殺人ほう
助、自殺ほう助をする連中は
全員死刑になればよい、と思っ
ている。
なお、私はかつては死刑廃止
論者だったが、現在は極刑存
続支持者に転じている。
特にネット中傷犯罪の犯罪者
たちに対しては極刑を望む。
匿名の陰に隠れて人を死に追
いやったり、心身症の疾患に
追い込む犯罪者の連中がいけ
しゃあしゃあと社会生活を何
くわぬ顔で送っているのは
赦し難い。厳しい社会的制裁
を法的に加えるべきだ。
どんどん逮捕検挙され、立件
され、最低でも実刑20年位は
くら
えばいい。
現行法の改正と法的措置によ
る照会に対する書き込み犯罪
者の
完全情報開示制度の確立
を強
く望む。