ケン坊のこんな感じ。
キーボーディスト、川村ケンのブログです。




チベット動乱から50年だとのことです。

昨年、5月2日のブログ、その前の3月19日のブログなどでもチベット問題について書きました。

パンチェンラマの行方は以前、わからず。そして、北京五輪の前にはかなりの話題になったチベット問題のその後も、我々日本の日々のニュースからはほとんど姿を消してしまいまい、なんだかまるで終わってしまった事のよう。もちろんまだ、もしかしたら永遠かと思うほど長きにわたって、終わるはずなどない問題だというのに。

それは、・・・どういうことなのでしょう、何を意味するのでしょう。僕たちは、何を考えるべきなのでしょう。

 

本当に世界は広く、僕たちには、知らないことがあまりにも多いです。

 

先日、「カンダハール」という映画を観ました(さらに詳しい映画の背景、あらすじなどはこちらでどうぞ)。

アフガニスタンを舞台に、実話を元に描かれた映画です。

簡単なあらすじを、映画の紹介サイトより引用します。

『カナダへ亡命したアフガニスタン女性・ナファスはジャーナリストとして活躍していたが、ある日祖国に残してきた妹からの手紙を受け取る。過酷な社会情勢の中、地雷で片足を失った妹は絶望し、20世紀最後の日食とともに命を絶つという。妹を悲しみの淵から救うため、ナファスは混沌のアフガニスタンへ戻り、故郷カンダハールを目指す。日食まで、あと3日。様々な危険と緊張の狭間をくぐりながら、ナファスは歩を進めるのだった。』

 

アフガニスタン。僕たちは、アフガニスタンという国について、何をどれだけ知っているでしょうか。

 

冷戦時代の旧ソヴィエトによるアフガン侵攻、そしてあの911の一ヵ月後から始まったアメリカをはじめとする連合国軍による攻撃。

名前を聞くのは、ニュースの中。ニュースの中の、新聞の中の、テレビの中の、言葉としての、「アフガニスタン」。

少なくとも僕には、何のイメージも伴っていなかったのです。この映画を観、本を読むまでは。

 

ブルカに身を包む女性(時に、男性も混じります。さまざまな事情で。)たち。

僕たちには極めて独特な光景に映ります。

ブルカについては、ここではあまり深くは語りません。ただ僕の知っている限り、今まで読んだり調べた限りでは、決して抑圧的な側面だけでは語れないものだということはわかりました。僕たちの価値観だけで「女性差別だ」とか「忌むべき社会的抑圧だ」とは言えないのかもしれない、ということです。文化の違いでもあるのです。それを一方的な是非で問うのは、近代における(非常によく見られる)ただの独りよがりな文化の押し付けにもなりえる、ということです。誰かが「もう、被らなくてもよいのだよ」としても、古くからの慣習として、自ら被る女性たちが沢山いるのだそうです。また、その理由の中には、性的な犯罪から身を守る、という効果や、中東の強い日差しから肌を守る、という実用的な面もあるのだそうです。

 

「カンダハール」。この映画を観ている間中、僕は、あまり文化の違いに時折身震いさえ覚えました。そしてその感覚の根っこには、まず正直、怖い、というのがありました。あまりにも理解不能な感覚、また、「僕だったら、はたしてこの世界で生きていけるだろうか」という恐れ。でもそれは、時にある種の不思議なリスペクトを伴う感覚でもありました。自分のささいな見識なぞ、世界の広さ、多様さを考えたら、まるで・・・針の穴から空を見ているようなものではないか、と。

あまりの衝撃に、映画を観終わったあと、すぐに、この映画のイラン人監督であるモンセン・アフマルバフ氏が書いたアフガニスタンについてのレポート、「アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない恥辱のあまり崩れ落ちたのだ 」を購入しました。そして、ほとんど一気に読みました。

本書の文頭には、こうあります。

「このレポートを最後まで読むには、一時間ほどかかるだろう。その一時間のあいだに、アフガニスタンでは少なくとも十二人の人びとが戦争や飢餓で死に、さらに六十人がアフガニスタンから他の国へ難民となって出て行く。このレポートは、その死と難民の原因について述べようとするものである。この苦い題材が、あなたの心地よい生活に無関係だと思うなら、どうか読まずにいてください。」

さすがに一時間では読めませんでしたが(でも4~5時間あれば読めると思います)、どのページにもおそらく普通に日本で暮らしている限り、まず知らされることはないであろう驚愕の事実が沢山書かれていました。 

訳者である武井みゆきさんは、あとがきで「このレポートは人びとに気付いてほしい『世界の無知』を伝えるものであり、世界を理性の側に踏み留める価値のあるものだ」と書いておられます。また、直接内容のことではありませんが、武井さんによるこの本の日本語訳は、とても美しかったです。読んでいて、一遍の言葉を吟味された詩を読んでいるような気さえしました。

 

2001年3月、バーミヤンの石仏がタリバン政権によって破壊されたことはまだ皆さんの記憶にも新しいと思います。そして、本文中の言葉で、(本書の帯にもあるのですが)、本書のタイトルに関する記述の部分を本文より引用します。

「ついに私は、仏像は誰が破壊したものでもないという結論に達した。仏像は、恥辱のために崩れ落ちたのだ。アフガニスタンの虐げられた人びとに対し世界がここまで無関心であることを恥じ、自らの偉大さなど何の足しにもならいと知って砕けたのだ」

 

アフガニスタン。過酷な環境、過酷な国です。映画を観て、さらに本書を読んで、本当に痛切に思います。現実を、知らされました。

「アラーの神が世界を創造したとき、土塊やこまごまとした物など、世界のどこにもはまらないくずが、たくさん残ってしまった。そので神は、それらを集め、地球に投げ落とした。それがアフガニスタンになったのだ」

アハメド・ラシッド著『タリバン』より抜粋。

 

もしお時間があれば。まずは、きっかけとして、映画だけでも。

ではー。



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