避難所は…、学校の体育館ですが、あの、皆さんもテレビなどで目にされたでありましょう、まさにあのままでした。 四ヶ月を過ぎて、 …あのまま、でした。 固い体育館の床の上に、薄いシート。低いペラペラのついたて(卓球のボールガード)だけで仕切られた、ひとたび立ち上がれば全てが丸見えの、プライバシーはまったくなく、おそらく個人が望むべき静寂もなく、暑く、…本当にひたすら暑い、あまりに過酷過ぎる環境でした。 でも、 都会では、なかなか見れないような、柔らかな、びっくりするくらい屈託の無い笑顔にも出会える、不思議な場所でもありました。 でも、 でも、 悲しい場所でした。 大切な家や家族を失い、未だ仮設(住宅)にも入れない方たちの、やりばのない痛みや、ぶつける場所の見当たらないもどかしい憤りを、強く感じました。 “忘れられた場所”にだけはしてはいけない、 そう思いました。 何ができるでしょうか。 でも僕たちは何かしなくては、です。
気仙中学校(会場は避難合併先の矢作中学校でした)でのライブも、おかげさまで素晴らしい体験になりました。 写真は校舎の手洗い場に飾ってあったものです。
何ができるにせよ、できないにせよ、こういう子ちのために、ちからをもっと出したい、合わせたい、と思います。 今から避難所の清掃のお手伝いに行ってきます。