では、続きを書きますね。
明けて13日は、朝方5時頃にも地震がありました。
この頃には、もうすでにさんさんと明るく、睡眠時間そのものは4時間程度でしたが、すっきりと起きることができました。
やはり、田舎は夜が濃いので、眠りも深くなるように思います。
つらつら考えたのですが、田舎では周囲が全部寝ているせいかも、と思いました。都会では、自分が寝ている時間でも、起きている人が物凄く沢山いますよね。24時間、殆どの人が寝ている時間帯というのが無いのではないのかな、と。
田舎は、夜は寝る。人も、お店も、土地も、木も、空気も、何もかもが寝る。そして、朝になれば皆が起きる。こういうあたりまえの自然のサイクルが、ちゃんとあるのではないかな、と。全然違ったらすみません。単に、一階の販売機で買ったビールがよくまわったせいで、ぐっすりだのかもしれません。
まず、身近なところで、今回お世話になった民宿、その周囲をご紹介しましょう。
こちらが新館の入り口を外からみたところです。入り口は、右側の柱の脇、カゴのところになります。
横からみるとこのような感じです。右手が海側になります。室内の壊れ方からみて、ちょうど塀のあたりまで水が来たのでしょうか。建物の手前、階段のあるあたりにも、土台があるの、何らかの建物があったのが分かりますが、跡形もありません。
水没した一階の修理が始まっていました。二枚目、奥の岩肌が見えてしまっているのは、そこにあった壁が流されてしまったからのようです。
トップの写真とこちらは、新館前の海岸の堤防です。この厚さのコンクリートが、割れて、めくれかえっています。僕たち人間が動かそうと思っても、10人がかりでもびくともしないでしょう。津波の威力の凄まじさが、感じられます。
では、本館のほうへ。お風呂と、ご飯ね。あたま、ぼっさぼさですし、お腹減りましたし。
ちなみに、このあたりはわかめ養殖発祥の地なのだそうです。三陸のわかめ、本当においしいですよね。
メッセージが書かれた船。
本館は、坂を、わずか2分ほど上がったところにあります。
宿の目の前はこんな感じです。津波の被害はなかったようです。いたって普通の、のどかな光景ですよね。
写真のおじさんは、作業の為に来ている企業の方のようでした。宿泊客は、皆、復興の為のボランティアか企業の方たちのようです。
このあたりは碁石海岸といって国立公園になっているそうですから、当たり前ですが、震災前は観光客でにぎわっていたことでしょう。
温泉が出ているのですが、震災後は、無料開放されているとのこと。ちなみに、宿泊客は24時間入れます。
誰もいなかったので、ちょっと失礼して、
お風呂に入れるというのは、本当にありがたいです。
今も断水が続いている被災地がある中、申し訳ないようですが、疲れを取るためにも、リフレッシュの為にも、やはり日本人にお風呂は必要ですよね。
夜には、避難所に身を寄せる現地の職人さん(幸い、足であるクルマが流されずに済んだので、とのことでした)とお話が出来たりして、有意義な場所にもなりました。
でも、水不足になっているそうで、節水です。
小さいですが、露天もありました。夜は月を見ながら入れます。
遊びに来ているわけではありませんが、本当にありがたいです。
柵のあちらは女性のお風呂のようですが・・・、
つまりこれは・・・、
「い、いやあ、勘違いで・・・」と言い訳をした人が、今まで結構いた、ということですよね。当事者の方にとっては、笑い事ではないのは百も承知ですが、注意や警告の言葉は、どうしてもきつくなったり命令調になってしまうことが多い中、これはユーモアのある貼り紙だな、と思いました。
ロビーの様子です。右の白板に、宿泊団体の名前が書かれているのですが、電力会社、役所、建設会社など、東京や大阪、九州など全国から人が集まっていて、連日満室だそうです。
トミちゃんが宿へプレゼントした、彼女の愛知の出身校の中学生たちが、今回の為に募金をして作って、皆で手書きのメッセージを入れたという「LOVE&SMILEうちわ」、早速置いてもらっておりました。
ご飯はしっかり。お米はおかわり自由です。
おかずは、初日がさんまのみりん干し、二日目は鮭でした。それに、温泉玉子、海苔、納豆、お味噌汁、お漬物でした。
本当に、こういう和食の朝食をしっかり食べると、エネルギーが充填されるのがよく分かります。手間を惜しまず、時間さえあれば、毎日でもこういう朝食が食べたいと、いつも思います。なかなか実現できませんが。
とにかく、一日の始まりに、しっかりご飯が頂けるという事は、本当にありがたいことです。
早食いの僕は、先に食べてしまったので、トミちゃんとゴロくんを待つ間、本棚を見ておりました。
「おおふなと昔がたり」
その一冊を何気なく手にとって、何気なく開いたところが、
昭和8年に、この地を襲った津波に関する、お年寄りの書かれた記事でした。
「最近になって災害対策もめざましいまでに整備され、昔から見ますと枕を高くして眠ることができるようになりました」
「施設の整備により、大津波は(中略)心休まる時代になってまいりました」
・・・来てしまったのですよ、また。
出版は平成14年でした。
こんな本もありました。
その、昭和8年の津波の写真がありました。
・・・歴史は繰り返す、のですよね。
もう、沢山ですが、では、この先は、どうしたらよいのでしょうか。
さて、宿を出発します。目指すはボランティアセンターです。ボランティア活動をする人は、毎日、朝と夕、そこで活動の登録、記録をするのです。
当たり前のような、何でもない、本当にのどかな光景です。
なんといっても土地がありますし、このような大きなお家が多いです。こちらでも、勿論立派ですが、東京にあれば、大邸宅ですよね。
家の建っていた場所によって明暗は分かれたとはいえ、つまり・・・こんなお家に住んでいた方たちが、あの日を境に、突然、プライバシーなど何も無い、体育館などでの避難所暮らしを強いられているのですよ。
かもめの玉子は、ここ、大船渡の生んだ岩手の銘菓、お土産の定番の一品です。
こちらの社長さんが録られた、大船渡を飲み込む津波の恐ろしい様子を記録したこちらの動画、ご覧になられたでしょうか。悲痛な叫び声に、今見ても、震えがきます。今回、この街に行くことができた僕には、これまで以上に心に迫る動画でした。
看板の後ろに建っているのは、仮設住宅です。仮設住宅は、学校の校庭や公園などだけでなく、こうして、市内、高台などの空き地や広場に点々と立てられているのです。
中学生が登校しています。普通の光景です。
でもここからわずか1分ほど下ると、
こういう、波に打ち抜かれたお家があります。
波に潰された車があります。
本当は、あちらのほうまで、ずっと家があったそうです。
下の平地まで下りてくると、もう、残っている木造の家は一軒もありません。
うず高く積まれた瓦礫の山は、高さ5メートル以上あります。
このあたりの平地では、三階まで津波が飲み込んだのがわかります。
震災から四ヶ月。
瓦礫は、これでもかなり撤去されたものと思いますが、これが街の中心部とは、にわかには信じがたい光景です。
匂いも、あります。
これは海方面を見たものです。左に見えるのは、完成間近だった野球場のライトだそうです。80センチにも及ぶ地盤沈下で、球場は完全に水没してしまったのだそうです。
原型をとどめないクルマたちが集められています。
ハンドルを握るゴロくんの顔も、険しくなっておりました。
完全にひしゃげてしまったバス。あの日、誰か、乗っていたのでしょうか。
こうして、ポツンと、撤去されずに残されているクルマなどが、今も、そこかしこにあるのです。
鉄の塊が、どうしたら、ここまでになるのか。
一体、どれだけの力に、もまれたのか。
有名な政治家のポスターがありました。
「再生こそ、私の使命。」
写真には残っておりませんが、民主党の、岩手出身のあの実力者、小〇さんのポスターにも
「国民の生活が第一。」
とありました。
スローガンがいくら立派でも、住民には、結果が全てだと思います。
まさに、こんな状況では、夢物語よりも、目の前のものを信じるしかないでしょう。
この日の夕方、お手伝いの為にお邪魔した避難所の体育館では、つけっぱなしのテレビから相撲中継が放送されており、途中、定時のNHKのニュースが流ました。
「〇〇議員が、国会で首相の退陣を迫った」とか「原発ではまたトラブルが」などの原稿が読み上げられていましたが、
僕が見た限りでは、テレビの方を見ていた方は、
ただの一人も居りませんでした。
長くなりましたので、続きはまたです。
ではー。