おなじみ養老さんの「バカの壁」に始まる壁シリーズの何冊目かです。
あとがきにも書いてあるのですが、大勢の読者を対象にしたエッセイの類は、養老さんの話を編集部の人に原稿起こししてもらい、最終的に手を加えたものだそうです。
そう思うと文章は分かりやすくこなれていて、丁寧な表現です。たまにテレビに出ている時のぶっきらぼうさがないのはそういうことだったのか。

で今回の内容はというと「自分」とは何か。
養老先生曰く地図の中にある現在位置を示す矢印ではないかと。脳の中の空間定位の領域が壊れると自分が液体になったかのように周りの空間や空気に溶け込んでしまい、体と他のものの区別がつかなくなるとか。世界と自分の境目がなくなっているのです。
「自分」とは地図の中の現在一の→程度で、基本的に誰の脳の中でも備えている機能の一つに過ぎないものだとすると「自我の確立」とか「個性の発揮」だというのはそうたいしたものでもない。
では個性がなくなるのではというとそうでもないと例を挙げているのが伝統芸能の師匠と弟子。徹底的に師匠の真似を10年20年とやらされるのですが師匠のクローンにはならない。どこからか違ってくる。それこそが師匠の個性であり、弟子の個性でもある。オリジナリティをいきなり求めてもダメで世間と折り合うことを知り、世間並みを身に着ける。それでもどこか変なところが残ればそれが個性だと。
まあ、こんなことから思いつくままというのか議論は右に左に飛んでいくのですが、トリビアな知識もたくさんあって結構面白い。エネルギー問題とか政治とのかかわり方というか考え方、日本のシステムとかについて縦横無尽に語っているのですが、どことなく物知りの横丁のご隠居のの長屋話的雰囲気というと大先生に失礼なんでしょうね。
興味を持ったところを適当に順不同で書き出してみると
臨死体験というと立花隆に言わせると死後の世界があるとなってしまうのですが、経験した人にとって共通しているのは気持ちがよかったという感想。これは自分という矢印が消えて世界と一体化しているから。一体化すれば周りに敵や異物が一切なくなるから至福の状態なのです。
因みに幽体離脱についていえば、人間は無意識には「上から見ている自分」のような客観性を持っている。意識があるときには気が付かないのだが死にそうな時には鳥瞰するような意識が現れ、幽体離脱して自分を見ることができる。う~ん、説得力がありますね。
人間の脳は「ここからここまでが自分だ」という自己の範囲を決めて、その範囲内のものは「えこひいき」する。だからさっきまで体内にあった物でもいったん出てしまえば汚いものになる。便もつばも汚く感じるのはそういうこと。
ゲノム解析で人間の遺伝子はすべて分かったと言われていますが、たんぱく質の設計にかかわっているのはせいぜい遺伝子の中の1.5%くらい。では何をしているのかはよくわかっていない。30%ほどの遺伝子はもともとが外部のウイルスだったらしいとか。脊椎動物が誕生して5億年。どれだけのウイルスに感染してどれだけのウイルスが体内に入りそのまま住み着いてしまったのか。
仮説ですが、もともと芋虫とチョウは別々の生き物だったのが、ある時合体して役割分担している。チョウはさなぎになった時点で幼虫の時に活動していた細胞を全部一回スクラップにしてしまったままの状態だった細胞を増やして新しくチョウの体を作る。そう考えると完全変態の意味が何となく納得できます。
話はがらりと変わって、近藤誠が「患者よがんと闘うな」と言って支持者も多いのですが、これは治療に関しては出来るだけ自然の治癒力に任せて、そっとしておこうという昔からある待機的医療の考え方。でも積極的医療に意味がないかというと様々な選択の中である種の賭けに出ざるを得ない時もあって、病気によってもその人の置かれた状況と考え方にもよります。養老さん自身も50代で肺に影が見つかった時は、もしそれががんだったら70代の今とは違う結論になったと言っています。
なくなる半年前の月次医療費のグラフを見ていると最後の1か月だけが倍の金額になるとか。厚生労働省的には無駄な医療費となるのですが、その倍になっている部分は家族の願望分だと。効果的な手はないから何もしないというのは論理的には正しいかもしれないけれど、それは「患者の死」をその人だけの問題だと「切って」考えているから成り立つもの。ここで待機的な考え方を貫くというのは、よほどの信念や信仰がないと難しい。
とまあ、こんなことがいろいろと述べられていて、書き手はプロなので、いたってわかりやすく読みやすい文章になっています。
因みに一緒に写真に写っている本は新書本ですが本格的な経済学史になっています。知的興奮を呼びますが如何せん難しい。学生時代と違って今更原典を読もうという気にもならないので、こんな世界もあったよねと思う次第です。
あとがきにも書いてあるのですが、大勢の読者を対象にしたエッセイの類は、養老さんの話を編集部の人に原稿起こししてもらい、最終的に手を加えたものだそうです。
そう思うと文章は分かりやすくこなれていて、丁寧な表現です。たまにテレビに出ている時のぶっきらぼうさがないのはそういうことだったのか。

で今回の内容はというと「自分」とは何か。
養老先生曰く地図の中にある現在位置を示す矢印ではないかと。脳の中の空間定位の領域が壊れると自分が液体になったかのように周りの空間や空気に溶け込んでしまい、体と他のものの区別がつかなくなるとか。世界と自分の境目がなくなっているのです。
「自分」とは地図の中の現在一の→程度で、基本的に誰の脳の中でも備えている機能の一つに過ぎないものだとすると「自我の確立」とか「個性の発揮」だというのはそうたいしたものでもない。
では個性がなくなるのではというとそうでもないと例を挙げているのが伝統芸能の師匠と弟子。徹底的に師匠の真似を10年20年とやらされるのですが師匠のクローンにはならない。どこからか違ってくる。それこそが師匠の個性であり、弟子の個性でもある。オリジナリティをいきなり求めてもダメで世間と折り合うことを知り、世間並みを身に着ける。それでもどこか変なところが残ればそれが個性だと。
まあ、こんなことから思いつくままというのか議論は右に左に飛んでいくのですが、トリビアな知識もたくさんあって結構面白い。エネルギー問題とか政治とのかかわり方というか考え方、日本のシステムとかについて縦横無尽に語っているのですが、どことなく物知りの横丁のご隠居のの長屋話的雰囲気というと大先生に失礼なんでしょうね。
興味を持ったところを適当に順不同で書き出してみると
臨死体験というと立花隆に言わせると死後の世界があるとなってしまうのですが、経験した人にとって共通しているのは気持ちがよかったという感想。これは自分という矢印が消えて世界と一体化しているから。一体化すれば周りに敵や異物が一切なくなるから至福の状態なのです。
因みに幽体離脱についていえば、人間は無意識には「上から見ている自分」のような客観性を持っている。意識があるときには気が付かないのだが死にそうな時には鳥瞰するような意識が現れ、幽体離脱して自分を見ることができる。う~ん、説得力がありますね。
人間の脳は「ここからここまでが自分だ」という自己の範囲を決めて、その範囲内のものは「えこひいき」する。だからさっきまで体内にあった物でもいったん出てしまえば汚いものになる。便もつばも汚く感じるのはそういうこと。
ゲノム解析で人間の遺伝子はすべて分かったと言われていますが、たんぱく質の設計にかかわっているのはせいぜい遺伝子の中の1.5%くらい。では何をしているのかはよくわかっていない。30%ほどの遺伝子はもともとが外部のウイルスだったらしいとか。脊椎動物が誕生して5億年。どれだけのウイルスに感染してどれだけのウイルスが体内に入りそのまま住み着いてしまったのか。
仮説ですが、もともと芋虫とチョウは別々の生き物だったのが、ある時合体して役割分担している。チョウはさなぎになった時点で幼虫の時に活動していた細胞を全部一回スクラップにしてしまったままの状態だった細胞を増やして新しくチョウの体を作る。そう考えると完全変態の意味が何となく納得できます。
話はがらりと変わって、近藤誠が「患者よがんと闘うな」と言って支持者も多いのですが、これは治療に関しては出来るだけ自然の治癒力に任せて、そっとしておこうという昔からある待機的医療の考え方。でも積極的医療に意味がないかというと様々な選択の中である種の賭けに出ざるを得ない時もあって、病気によってもその人の置かれた状況と考え方にもよります。養老さん自身も50代で肺に影が見つかった時は、もしそれががんだったら70代の今とは違う結論になったと言っています。
なくなる半年前の月次医療費のグラフを見ていると最後の1か月だけが倍の金額になるとか。厚生労働省的には無駄な医療費となるのですが、その倍になっている部分は家族の願望分だと。効果的な手はないから何もしないというのは論理的には正しいかもしれないけれど、それは「患者の死」をその人だけの問題だと「切って」考えているから成り立つもの。ここで待機的な考え方を貫くというのは、よほどの信念や信仰がないと難しい。
とまあ、こんなことがいろいろと述べられていて、書き手はプロなので、いたってわかりやすく読みやすい文章になっています。
因みに一緒に写真に写っている本は新書本ですが本格的な経済学史になっています。知的興奮を呼びますが如何せん難しい。学生時代と違って今更原典を読もうという気にもならないので、こんな世界もあったよねと思う次第です。