古代史は文献資料が乏しく、正史と言える日本書紀の他には、古事記や風土記ぐらい。
これに、中国の歴史署に出てくる日本と考古学の研究成果を突き合わせていくのだが、当然ながら解釈によって違った歴史が紡がれる。
私が学んだ教科書に書かれているのとは全く違う歴史もあり得ると言うことになる。
関裕二さんは肩書的には歴史作家ですが、その分、学会の桎梏もなく自由に想像力をはばたかせて歴史を解釈しています。
「古代史の謎と真説」は今まで個別に「物部氏の正体」「ヤタガラスの正体」「応神天皇の正体」などで論じて来たことを通史的に縄文時代から平安時代までを論じています。それだけに大きな流れとして歴史をとらえることが出来、関さんの考え方がよく分かります。
考古学の最近の知見もフォローしつつ、日本書紀の虚実を暴いています。
最近はあまり目にしませんがひと頃の古田武彦の九州王朝説のような迫力があります。古田武彦の説もアカデミックな世界ではほとんど無視されていましたが、ある意味自説に整合的なところをつなぎ合わせて通説をぶった切っていました。私の読んだ記憶では当然ながら素人で文献資料を全部読みこんでいないので、引用してある日本、中国の歴史を読み込んで論理的で首尾一貫していると感じたものです。
さて関裕二さんの説の肝は日本書紀は誰が何のために書いたのかと言うこと。通説ではこれは天武天皇が命じていたので、天武天皇に都合のいいように編纂されているとされている。しかし、実際の書きあげられたのは天武天皇亡きあとで、持統天皇のもと藤原不比等が責任者になっていた。日本書紀は天武のためではなく天智天皇や中臣鎌足のため、そして藤原氏のために書かれたものだと。
不比等は藤原氏が権力を握ったことを正当化するために、歴史を改ざんし自らに都合の悪いことは書かれていない。
乙巳の変により蘇我宗家が倒されるまでの蘇我氏は天皇の外戚として実質的に日本のヤマト朝廷の最高権力者であり政権を担っていた。蘇我氏こそ律令制度を導入して日本の基礎を築いてきた。中大兄皇子と藤原鎌足のクーデターを正当化するために不比等は蘇我氏の功績を巧妙に消し去り暴虐非道の悪役として打倒されるべきものとしている。
因みに中臣鎌足は、百済の王子豊璋だとしている。乙巳の変はまさに百済救済への軍事介入の道筋をつけるのだが、白村江の敗北へと突き進んでいく。
蘇我氏を悪役とした歴史の整合性を保つために神武天皇からの記述も創作している。
この観点は理解しやすいのだが、そこから神功皇后は魏志倭人伝に出てくる台与であり、卑弥呼を倒して九州宮崎にいたのだが、当時の大和政権に息子が応神天皇として迎えられたと言われると頭の中が混乱してしまう。消されたのは蘇我氏の功績だけでなく、壬申の乱で大きな功績のあった尾張氏も表舞台には出てこない。
この視点で通説をぶった切っているのですが、文献研究・考古学研究を通じて、どれくらい検証できるかという点は措いといて、歴史の見方としては非常に面白い。関さん、新書本文庫本をたくさん出していますが、それなりに支持する読者がいると言うことでしょう。古代史は文献資料が少ないだけに解釈次第というところがあって一概に否定できない貴重な視点と思います。でも日本書紀という正史の重さは重いと思うのですけどね。
もう1冊は考古学の成果を紹介して巨大古墳から見た古代史。最新の話題である富雄丸山古墳から発見された長さ2・3メートルの蛇行剣と盾形銅鏡をカラー写真で紹介してあります。
富雄丸山古墳の築造は4世紀後半、直系09メートル、高さ14メートルは日本最大の円墳。しかしなぜ前方後円墳ではないのか。王族ではないことから前方後円墳とするに規制がかかったのか。副葬品から考えてもヤマト王権と敵対していたのではなく非常に近しい立場にあって力もあった人物が被葬者と考えられるのだが、出土品は国産品にこだわっていることから渡来系の人物である可能性は低い。ナガスネヒコなんて言う説もあるそうですが、ナガスネヒコはヤマト王権とは敵対していたのでは?これから未盗掘の粘土槨内の木棺の調査が行われる予定で、まだまだ新たな発見がありそうです。
それ以外では古墳の変遷を追う中で、吉野ケ里遺跡、妻木晩田遺跡、平原遺跡,出雲勢力圏とみて邪馬台国への道に迫っている。楯築墳丘墓は倭国王帥升の墓?沼津市の高尾山古墳は狗奴国の王の墓では?平原遺跡は伊都国で一号墓はその女王の墓?調査を進めても決定打が出ないところので想像が広がります。
発掘調査ができないのだが、古代天皇陵についての調査リポートや有力豪族の巨大古墳の発掘リポートもあり、考古学の分野ではまだまだ発掘によって何が出てのか分からない。今現在通説と思われていることも(出雲の荒神谷遺跡での大量の銅剣の発見の様に)新たな発掘調査で覆ってしまうこともあり得る。
それにしても天皇陵と言われるものについて明らかに時代的に齟齬をきたしているものもあり学術的な発掘調査は必要なのではないのか。
このほか地方の巨大古墳についても網羅的にレポートしていて、普段あまり紹介されないものだけに全国各地にこんな巨大な古墳があり、それを築造した地方豪族の力を改めて知りました。
因みに東海地方では断夫山古墳が紹介されているのですが、熱田神宮の言い伝えでは宮津媛の墓とされている。全長150メートルでこの時期では屈指の規模なのだが、出土品から築造は5世紀末から6世紀始めと推定されるので時代が合わない。天皇外戚として力を持っていた尾張氏の長が被葬者と考えられるのだが、中央政界では活躍していないので名前が残っていない。関裕二さんによれば藤原氏にとって尾張氏の活躍は不都合なので意図的に消されていたとなるのだろうか。
いたって本流の最新の考古学の成果をまとめてあり、写真・図も豊富で読みやすい。日本の100名古墳巡りの旅に行きたくさせる本です。
これに、中国の歴史署に出てくる日本と考古学の研究成果を突き合わせていくのだが、当然ながら解釈によって違った歴史が紡がれる。
私が学んだ教科書に書かれているのとは全く違う歴史もあり得ると言うことになる。
関裕二さんは肩書的には歴史作家ですが、その分、学会の桎梏もなく自由に想像力をはばたかせて歴史を解釈しています。
「古代史の謎と真説」は今まで個別に「物部氏の正体」「ヤタガラスの正体」「応神天皇の正体」などで論じて来たことを通史的に縄文時代から平安時代までを論じています。それだけに大きな流れとして歴史をとらえることが出来、関さんの考え方がよく分かります。
考古学の最近の知見もフォローしつつ、日本書紀の虚実を暴いています。
最近はあまり目にしませんがひと頃の古田武彦の九州王朝説のような迫力があります。古田武彦の説もアカデミックな世界ではほとんど無視されていましたが、ある意味自説に整合的なところをつなぎ合わせて通説をぶった切っていました。私の読んだ記憶では当然ながら素人で文献資料を全部読みこんでいないので、引用してある日本、中国の歴史を読み込んで論理的で首尾一貫していると感じたものです。
さて関裕二さんの説の肝は日本書紀は誰が何のために書いたのかと言うこと。通説ではこれは天武天皇が命じていたので、天武天皇に都合のいいように編纂されているとされている。しかし、実際の書きあげられたのは天武天皇亡きあとで、持統天皇のもと藤原不比等が責任者になっていた。日本書紀は天武のためではなく天智天皇や中臣鎌足のため、そして藤原氏のために書かれたものだと。
不比等は藤原氏が権力を握ったことを正当化するために、歴史を改ざんし自らに都合の悪いことは書かれていない。
乙巳の変により蘇我宗家が倒されるまでの蘇我氏は天皇の外戚として実質的に日本のヤマト朝廷の最高権力者であり政権を担っていた。蘇我氏こそ律令制度を導入して日本の基礎を築いてきた。中大兄皇子と藤原鎌足のクーデターを正当化するために不比等は蘇我氏の功績を巧妙に消し去り暴虐非道の悪役として打倒されるべきものとしている。
因みに中臣鎌足は、百済の王子豊璋だとしている。乙巳の変はまさに百済救済への軍事介入の道筋をつけるのだが、白村江の敗北へと突き進んでいく。
蘇我氏を悪役とした歴史の整合性を保つために神武天皇からの記述も創作している。
この観点は理解しやすいのだが、そこから神功皇后は魏志倭人伝に出てくる台与であり、卑弥呼を倒して九州宮崎にいたのだが、当時の大和政権に息子が応神天皇として迎えられたと言われると頭の中が混乱してしまう。消されたのは蘇我氏の功績だけでなく、壬申の乱で大きな功績のあった尾張氏も表舞台には出てこない。
この視点で通説をぶった切っているのですが、文献研究・考古学研究を通じて、どれくらい検証できるかという点は措いといて、歴史の見方としては非常に面白い。関さん、新書本文庫本をたくさん出していますが、それなりに支持する読者がいると言うことでしょう。古代史は文献資料が少ないだけに解釈次第というところがあって一概に否定できない貴重な視点と思います。でも日本書紀という正史の重さは重いと思うのですけどね。
もう1冊は考古学の成果を紹介して巨大古墳から見た古代史。最新の話題である富雄丸山古墳から発見された長さ2・3メートルの蛇行剣と盾形銅鏡をカラー写真で紹介してあります。
富雄丸山古墳の築造は4世紀後半、直系09メートル、高さ14メートルは日本最大の円墳。しかしなぜ前方後円墳ではないのか。王族ではないことから前方後円墳とするに規制がかかったのか。副葬品から考えてもヤマト王権と敵対していたのではなく非常に近しい立場にあって力もあった人物が被葬者と考えられるのだが、出土品は国産品にこだわっていることから渡来系の人物である可能性は低い。ナガスネヒコなんて言う説もあるそうですが、ナガスネヒコはヤマト王権とは敵対していたのでは?これから未盗掘の粘土槨内の木棺の調査が行われる予定で、まだまだ新たな発見がありそうです。
それ以外では古墳の変遷を追う中で、吉野ケ里遺跡、妻木晩田遺跡、平原遺跡,出雲勢力圏とみて邪馬台国への道に迫っている。楯築墳丘墓は倭国王帥升の墓?沼津市の高尾山古墳は狗奴国の王の墓では?平原遺跡は伊都国で一号墓はその女王の墓?調査を進めても決定打が出ないところので想像が広がります。
発掘調査ができないのだが、古代天皇陵についての調査リポートや有力豪族の巨大古墳の発掘リポートもあり、考古学の分野ではまだまだ発掘によって何が出てのか分からない。今現在通説と思われていることも(出雲の荒神谷遺跡での大量の銅剣の発見の様に)新たな発掘調査で覆ってしまうこともあり得る。
それにしても天皇陵と言われるものについて明らかに時代的に齟齬をきたしているものもあり学術的な発掘調査は必要なのではないのか。
このほか地方の巨大古墳についても網羅的にレポートしていて、普段あまり紹介されないものだけに全国各地にこんな巨大な古墳があり、それを築造した地方豪族の力を改めて知りました。
因みに東海地方では断夫山古墳が紹介されているのですが、熱田神宮の言い伝えでは宮津媛の墓とされている。全長150メートルでこの時期では屈指の規模なのだが、出土品から築造は5世紀末から6世紀始めと推定されるので時代が合わない。天皇外戚として力を持っていた尾張氏の長が被葬者と考えられるのだが、中央政界では活躍していないので名前が残っていない。関裕二さんによれば藤原氏にとって尾張氏の活躍は不都合なので意図的に消されていたとなるのだろうか。
いたって本流の最新の考古学の成果をまとめてあり、写真・図も豊富で読みやすい。日本の100名古墳巡りの旅に行きたくさせる本です。