リチャード・クーが最初に提唱した「バランスシート不況」という言葉は、かなり普及してきており、経済分析の論文などで普通に使われるようになってきました。
何十年に1回のバブル崩壊の際には、資産価値が暴落するため民間部門のバランスシートが大きく毀損してしまい、企業や家計は資産を購入するために借りた借金を一斉に返済する。そうしなければ資産価格は暴落しているので債務超過になってしまうからです。この時点での企業の合理的行動はキャッシュフローがあれば利益を最大にすることではなく債務超過になっているバランスシートの修復のために債務を最小化することになります。
しかし個々の企業にとって合理的な行動をすべての企業が行った時、合成の誤謬となってしまいます。一国経済で見ると合成の誤謬の結果、資金の借り手がいなくなりデフレスパイラルに陥ってしまいます。景気を刺激しようと中央銀行がマネタリーベースを増やそうと金利をいくら下げようとも反応しない。
ちなみに1990年代の日本経済のバブル崩壊では地価と株価の下落によって1500兆円の富が失われた。バランスシートを修復するために猛烈な借金返済が行われたわけであり、金融当局がいくら金利を下げても借りては現れなかったのです。
この場合このバランスシート不況を救えるのは政府部門だけ。日本の場合政府が財政出動することにより国債を発行し民間部門の資金余剰を吸収したから、これだけ資産価値が急落しても低空飛行ながら成長し続けられたということです。したがってこの時の財政赤字はよい財政赤字ということになります。
従来の経済学では平時の想定しかないので、金利を下げれば企業は投資をするはずだったのですが経済全体が大きく毀損するバランスシート不況下では成り立たずに誤った政策がとられていたということです。本来なら金利がゼロになれば企業は利益を最大化するというその本来の目的からアニマルスピリットを発揮して借金してでも投資を行うはずだったのですが、ゼロ金利でも借り手は現れず、マネタリーベースを拡大してもマネーサプライズは増えないということが起きています。
この議論から某市長のように「市債は借金ではない」という話が出てくるのですが、リチャード・クーもよい財政赤字と悪い財政赤字があるとは言っても借金ではないという暴論は言っていません。一般論ではなく「バランスシート不況」下ではよい財政赤字が必要だと言っているだけです。またこれは国レベルの話であって個別企業が仮に日本経済が合成の誤謬になってはいけないとバランスシートが毀損しているにもかかわらず借金を重ねていけば倒産するように地方政府については国からの財政的ファイナンスがない限り成り立たない話です。まあ、奇をてらった政治家の目立ちたがり発言ですね。
バランスシート不況論については非常に論理的かつ説得力があり、徐々にというかかなり経済学の中での常識となってきました。詳細は読んでいただくとしてこれはリチャード・クーの大きな功績です。いささかそのことについて本人による自慢というか自画自賛的なところが多いのが気にかかりますが、分析道具として欠かせぬ視点になっています。
ところでバランスシート不況についてはもう何冊かの本もだし、何回も読んだという人もいると思いますが、この本の白眉は第三章以下のバランスシート不況を踏まえた最近の世界経済分析。
それにしても日本のバブル崩壊から失われた20年、アメリカのサブプライム問題からリーマンショック、ギリシャに端を発したEU危機とほとんど連続してバランスシート不況が起こっているのはどうなの。何十年に一回ではなかったの?
それだけ世界全体カネ余りで資金が滞留していて、運用先を求めて世界中をさまよっているのでどこかでバブルを起こしても繋がってしまうのでしょうか。今や巨大な需要を引き起こす圧倒的な技術革新もなく実業としての投資機会がないからなのでしょうか。
まずは第3章のアメリカ。アメリカについて言えばバーナンキの評価が興味深い。フリードマン門下生で金融政策万能だったはずだったが、現実に向き合う中でバランスシート不況論をちゃんと理解して「財政の絶壁」論を主張することによってアメリカ経済を救ったと。部外者からいえばその昔日銀に対して暴論を主張したことをちゃんと自己総括してほしいものです。
第4章ではアベノミクスの評価が出てくるのですが、当然ながら金融政策についてはほとんど効果がなかったとなります。ただ、黒田総裁の量的緩和が行われた時はすでにEUが一段落してリスクマネーが戻っていく中で円安基調になってきており、それにダメ出しするというグッドタイミングだったのは事実です。3本の矢のうち財政出動はそれなりの効果があるのですが、構造改革なるものは少なくとも短期的効果は見込めないものです。中長期的効果もどれほどあるのか疑問なものもありますが、十年単位で判断するものです。未だ金利は上がらず民間資金需要も出ていないのでインフレを心配することなく財政出動すればいいというのですが、ここから言えるのは明言はしていませんが当然ながら消費税増税は見送ればいいとなります。むしろ法人税も所得税も相続税も最高税率を20%とするような大胆な税制改革をすべきだと。これにはちょっと異論がありますけどね。今のところアベノミクスは評価されていますが、リチャード・クーが言うように異次元の大規模金融緩和はデメリットがあり、まだ世界で出口戦略に成功した経験はないわけで、その評価は出口戦略をきちんと終えた時にしか下せないと思いますが、そんなに評価できるか疑問です。
第5章はユーロ危機。ユーロは通貨を統一して金融政策為替政策としては国家の枠を取り払ったのですが、財政はそれぞれの国家の下で決められます。そのためマーストリヒト条約で財政赤字の枠をはめたのですが、そのことがバランスシート不況時の財政出動にタガを嵌めることになり、問題を複雑にしています。まあ、そのタガを逃れるために国家財政を粉飾するギリシャのような国がいるとは想定外でしたでしょうが。想定外の粉飾国家ギリシャはちょっと置いといて、危機が盛んに言われたポルトガル、イタリア、スペイン、アイルランドについては民間資金が余剰になっているので財政出動で不況から脱出する必要があるし、可能なのですが。マーストリヒト条約が制約となっています。これらの国のバブルはドイツからの投資先としてバブルに陥ったのであり、そのドイツはこれらの国への投資によって行先のなかった資金需要を満たしてきたのですが、そこからさらに先の需要の持っていくところがないのですから最後の借り手である政府が借金するしかないのでは。その点についてマーストリヒト条約を簡単には変更できないのならと著者は2つの提案をしているのですが、素人目には現実的かつ効果的な提案だと思えます。
ところでギリシャはどうなるかというとこれはもうここに至れば長い時間をかけて国民経済が崩壊しないように債務を返済していくしかないのでしょ。破綻国家にすればロシアなり中国が乗り出してくるのか、はたまたイスラム原理主義が浸透してくるかもしれません。ユーロ経済にとっては比重は小さいですし地政学的にも民主主義のコストとして考える…当事者なら怒り心頭でしょうけどね。
最後に中国ですがリーマンショックを4兆元の財政出動を行うことでバランスシート不況を回避したと高く評価しています。リチャード・クーの言うことをちゃんとやってくれた優等生ということですね。その結果今中国は後遺症に苦しんでいるのですが、バランスシーツ不況になっていればこんなことでは済まなかったと。この機動的意思決定はある面共産党独裁体制の成果なんですかね。
ただ現在中国はルイスの転換点を超えようとしており、中所得国の罠にはまる可能性もあります。賃金水準が大幅に上昇する中で労働集約的な産業に頼っていた経済から構造転換を図り産業を高度化しないといけません。この時共産党独裁が大きな桎梏になるかもしれません。日本でも韓国でもこの時に大きな学生運動なり労働争議なりの社会的示威運動が起こっていますが、中国では許容されるとは思えません。さらに生産年齢人口のピークを迎えていて、ここ10年余りが正念場なのでしょう。
それにしても、最後の借り手としての政府の役割はわかりましたが、政府が一体にその資金を何に使うのかということは全く述べられていません。ケインズに倣えば人を雇って穴を掘って埋め戻せと言うことなのでしょうが、今の世の中そうもいかず道路を作ったり橋を作ったり、馬鹿でかい施設を作ったりとなるのですが、造ってからの維持管理も莫大なものになります。中国で4兆元の財政出動の結果あちこちの廃墟と化したマンションとか採算が合いそうもない鉄道、道路、施設が乱立しているみたいです。それならばみんなにばら撒いたらどうかというと一旦制度を作ればそれが既得権益となって見直すことは容易ではありません。財政規模を縮小することは拡大するよりも政治的にも実務的にも数倍も苦労が要ります。一過的に一律3万円ばら撒くのは案外いい案かもしれません。
アメリカで大不況が一息ついたからとルーズベルトがいったん引き締めたおかげで再びバランスシート不況に陥ったのですが、それが解消されたのは第2次世界大戦の勃発による膨大な財政出動によります。となると結局は戦争という巨大な消耗がないともはや世界経済は成長できない?危機感をあおって軍備を拡張することにも意味があるのかも。
ここに書いたことは本当に抜粋ですが5百ページ余りある本でも非常に読みやすい文章で図表も多く説得力があります。年末年始に挑戦してみたらどうでしょう。