齢80歳を過ぎても変わらずエッセイーなどを連載している東海林さだおさん。
「マスクは踊る」は2021年1月の初版ですが、平成31年3・4月号から令和2年11月号まで「オール読み物」に連載された「男の分別学」をまとめたものです。おまけに週刊文春連載の漫画「タンマ君」の抜粋が加えてあります。
この本の最初は新元号「令和」の発表から始まっていますが、ちょうど安倍政権末期から菅政権までの間をカバーしています。
もうずいぶん前の話に感じてしまいますが、安倍政権の末期は「森友」「加計」そして「桜を見る会」と厚顔無恥と強権で頬かむりして逃げ切った日々だったと改めて感じます。いみじくも東海林さんが「ズルの時代」と題して「うまく立ち回る」ことばかり考えている日本の姿を活写しています。
この時期はちょうどコロナが問題になりだして、日常生活が経験のない嵐に巻き込まれた日々です。このとき政府はまだ感染者数も少なく(今思うと最初の感染者数では、街中をどんなに歩き回っても接触することは難しかったのではと思う数です)その時点ではやる必要もない学校休校を強制的に全国一律で行い、使い道に困るマスクを配り、必要な検査体制,入院治療医療体制を整えることは遅々として進まず、迷走をしていたとしか言いようがありません。逆に感染者が増えてきたところで学校の一斉休校とかは話題にもならずオリンピックを強行して何ともちぐはぐとしか言いようがありません。
もともと官僚機構というのは前例のない事態への対応能力には限界があり、政治家はポピュリズムの中で思い付きばかりで走ろうとすると如何ともしがたいのでしょうが、生活する国民は右往左往するばかり。加えて日本人は同調圧力が強いとあって自粛警察とかわけわからないものまで現れ、暮らしにくい日々となりました。今なら後知恵で何でも言えるだろうと言われるかもしれませんが、ウイルスの正体がよく分からないまま取り合えずなんかしなければとやってる感だけ出して効果の検証もなにもせずに、すぐに忘れるだろうとスルーしてきたのには政権の体質だったのか。
東海林さんのいつものユーモアあるエッセイにもコロナ禍での生活のどこかピントが外れた馬鹿らしさと苛立ちがそこはかとなく感じられます。
コロナウイルスに怒りをぶつけるわけにもいかないのですが、私にとっては、旅行にも行けず宴会も憚られ、各種総会的な会合も全部キャンセルとなり、引き籠り生活の失われた2年と言ってもいいと思います。それでも私などはまだまだ我慢の範囲内なんでしょうけど、この時期にちょうど中学高校大学生だった人たちの青春学園ドラマ風生活はなかったとしか言いようがなく、私の青春を返せと言いたいのでしょうけど、本当にお気の毒としか言いようがありません。
もちろん何時ものような軽妙なものもたくさんあって、テレビCМとか昭和の匂いの話は、当時の記憶が呼び覚まされて、あるあると感じ入ってしまいます。
東海林さんは1937年生まれ。齢80歳を過ぎて、心配事も増え、「長谷川式簡易知能評価スケール」の考案者の長谷川和夫先生と対談もしています。「認知症になるということは、神様からの、大丈夫だよ、死ぬのは何ともないよ。だから安心して生きなさい。怖がることはありません。というメッセージなんです」という長谷川先生の話に、「認知症も華ですね。悪いことばかりではない」と東海林さんも応えていますが、これほど好奇心旺盛で仕事熱心な人はなかなかボケないと思うのですけど。
最後に田原総一朗さんとの対談「好奇心と性が僕ら御原動力」がのっていますが、残念ながらこれはもう読んでいました。ところでここで出てくる田原総一朗さんの「シルバーセックス論」(2019)は名古屋市の図書館にはおいてありません。やっぱり題名から忌避されたのかな…
一緒に写っているのは宮城谷昌光さんの「湖底の城」。この小説は全9巻。宮城谷さんの小説は長編が多いのですが、全9巻はなかなかのものですが、古代中国春秋戦国時代の基礎知識があまりなく当然ながら国名とか人名になじみがなく、なおかつどう読んでいいのか分からない難しい漢字を使うので、読みだすのには気合が必要です。それでも長編を読み進めて小説の世界に入り込んでいくとその世界にどっぷりつかり読みにくい感じにもそれなりに慣れて来て、そうなるともうやめられません。1巻読み終えると次の巻を借りて、今は第5巻。全部読み終われば振り返ってみたいものです。
「マスクは踊る」は2021年1月の初版ですが、平成31年3・4月号から令和2年11月号まで「オール読み物」に連載された「男の分別学」をまとめたものです。おまけに週刊文春連載の漫画「タンマ君」の抜粋が加えてあります。
この本の最初は新元号「令和」の発表から始まっていますが、ちょうど安倍政権末期から菅政権までの間をカバーしています。
もうずいぶん前の話に感じてしまいますが、安倍政権の末期は「森友」「加計」そして「桜を見る会」と厚顔無恥と強権で頬かむりして逃げ切った日々だったと改めて感じます。いみじくも東海林さんが「ズルの時代」と題して「うまく立ち回る」ことばかり考えている日本の姿を活写しています。
この時期はちょうどコロナが問題になりだして、日常生活が経験のない嵐に巻き込まれた日々です。このとき政府はまだ感染者数も少なく(今思うと最初の感染者数では、街中をどんなに歩き回っても接触することは難しかったのではと思う数です)その時点ではやる必要もない学校休校を強制的に全国一律で行い、使い道に困るマスクを配り、必要な検査体制,入院治療医療体制を整えることは遅々として進まず、迷走をしていたとしか言いようがありません。逆に感染者が増えてきたところで学校の一斉休校とかは話題にもならずオリンピックを強行して何ともちぐはぐとしか言いようがありません。
もともと官僚機構というのは前例のない事態への対応能力には限界があり、政治家はポピュリズムの中で思い付きばかりで走ろうとすると如何ともしがたいのでしょうが、生活する国民は右往左往するばかり。加えて日本人は同調圧力が強いとあって自粛警察とかわけわからないものまで現れ、暮らしにくい日々となりました。今なら後知恵で何でも言えるだろうと言われるかもしれませんが、ウイルスの正体がよく分からないまま取り合えずなんかしなければとやってる感だけ出して効果の検証もなにもせずに、すぐに忘れるだろうとスルーしてきたのには政権の体質だったのか。
東海林さんのいつものユーモアあるエッセイにもコロナ禍での生活のどこかピントが外れた馬鹿らしさと苛立ちがそこはかとなく感じられます。
コロナウイルスに怒りをぶつけるわけにもいかないのですが、私にとっては、旅行にも行けず宴会も憚られ、各種総会的な会合も全部キャンセルとなり、引き籠り生活の失われた2年と言ってもいいと思います。それでも私などはまだまだ我慢の範囲内なんでしょうけど、この時期にちょうど中学高校大学生だった人たちの青春学園ドラマ風生活はなかったとしか言いようがなく、私の青春を返せと言いたいのでしょうけど、本当にお気の毒としか言いようがありません。
もちろん何時ものような軽妙なものもたくさんあって、テレビCМとか昭和の匂いの話は、当時の記憶が呼び覚まされて、あるあると感じ入ってしまいます。
東海林さんは1937年生まれ。齢80歳を過ぎて、心配事も増え、「長谷川式簡易知能評価スケール」の考案者の長谷川和夫先生と対談もしています。「認知症になるということは、神様からの、大丈夫だよ、死ぬのは何ともないよ。だから安心して生きなさい。怖がることはありません。というメッセージなんです」という長谷川先生の話に、「認知症も華ですね。悪いことばかりではない」と東海林さんも応えていますが、これほど好奇心旺盛で仕事熱心な人はなかなかボケないと思うのですけど。
最後に田原総一朗さんとの対談「好奇心と性が僕ら御原動力」がのっていますが、残念ながらこれはもう読んでいました。ところでここで出てくる田原総一朗さんの「シルバーセックス論」(2019)は名古屋市の図書館にはおいてありません。やっぱり題名から忌避されたのかな…
一緒に写っているのは宮城谷昌光さんの「湖底の城」。この小説は全9巻。宮城谷さんの小説は長編が多いのですが、全9巻はなかなかのものですが、古代中国春秋戦国時代の基礎知識があまりなく当然ながら国名とか人名になじみがなく、なおかつどう読んでいいのか分からない難しい漢字を使うので、読みだすのには気合が必要です。それでも長編を読み進めて小説の世界に入り込んでいくとその世界にどっぷりつかり読みにくい感じにもそれなりに慣れて来て、そうなるともうやめられません。1巻読み終えると次の巻を借りて、今は第5巻。全部読み終われば振り返ってみたいものです。