嵐山光三郎と磯田道史、異色の取り合わせですが、何を語られるのか。影の日本史とは何か。
取り上げられたのは、西行と芭蕉、その間をつなぐ宗祇です。
西行も芭蕉も花鳥風月を愛し旅を愛して日本各地を漂泊すると言う俗世間からは離れてある意味風流を絵に書いたような人生を送ったかに見えますが、どうもそこには影があるみたいです。
西行こと佐藤義清は清盛と同期の北面の武士としてエリートコースを歩んできて、これからという時に突然の出家、隠棲。上司ともいうべき藤原頼長は日記に「家富み、年若く、心に憂いなきに、遂に以って遁世す。人これを歎美する也」と書いている。身長も180センチ近くあったと言われ骨格たくましく体力もあってどちらかというと体育会系。それだけに隠遁は大きな話題になった事件だったみたいです。
ところが当時の政治情勢を見てみると院政による調停内部のごたごたが沸騰する直前。実際に暫くして保元の乱、平治の乱と続けて戦乱が起こっていてたくさんの血が流れてます。もし西行が北面の武士のままでいたら当然ながらどちらかにつくか去就を迫られ抜き差しならない立場に追い込まれていたのだろう。当時のメンバーを見てみると平清盛とその一派以外はほぼ罪に問われ殺されている。目端の利く西行は危険を察知してうまく立ち回ったともいえるのだろうか。
出家隠とんしてからも歌を詠み都から離れきれない。「世の中を捨てて捨てえぬ心地して都離れぬ我が身成りけり」とは本音なんだろう。
歌人として名をあげると何度も旅にでているが、都の歌人が来たとなると自然人が集まり当地の情報も聞こえてくる。怪しまれることなく情報収集出来る。歌を通じて朝廷周辺にも絶えず繋がりがあったので、情報活動をする貴重な人材で単なる風流だけの人ではなかった❗️
その後時代は鎌倉、南北朝時代から室町、戦国と進むのですが、貴族社会の和歌から花の下に平等の連歌が広く親しまれるように。宗祇が全国を行脚して連歌を広め、京と地方の情報の橋渡しをしていた実情がいろいろな話とともに楽しく読めます。連歌というものが都と地方を文化的につなぐ役割をしていたことがよく分かります。詳しくは実際に読んでください。
芭蕉となると嵐山光三郎が「悪党芭蕉」を書いているように、隠密を多数抱えていた伊賀藤堂藩に仕えていたこともあって、隠密ではなかったかと言われることも。実際に奥の細道を一緒に歩いた曽良は幕府の巡察視だったとかで、芭蕉自身はともかく一行は同じ穴の狢と見られていてもおかしくない。小説や漫画の影響もあって忍者とか隠密というと黒装束で手裏剣を使い何処へも忍び込んでいくように思われていますが、実際には藩ごとに閉ざされた世界の実情を探るのが主な仕事でしょう。隠密的な役割を果たし、その情報は曽良などを通じて幕府にも伝えられていた面はあると思います。
俳諧師というのは、地方を歩いても怪しまれることなく、行き先々で俳諧の会を催すことによって他藩の人とも豪商、庄屋など地方の名士とも情報交換ができ、地方の実情を探ることが出来ると言う誠に便利な存在。とは言っても芭蕉が俳諧を極め蕉風を確立し、新たな文学をおこしたのは事実。江戸に出てくると水道工事人として働いていますが、仕事熱心で人を束ねる力があり腕もよく裏切らないので重宝されます。決して食べられなくてのバイトではない。そこで筋のいい弟子にも恵まれ蕉門も隆盛していく。芭蕉自身に一門を組織化し魅力的なキャッチコピーで広報宣伝していく力があった。ただ俳句について言えば芭蕉の俳句は事実をそのまま描写するのではなくてフィクションをうまく入れ込み「見立てる」という作業をしている。嵐山いわく「俳句はみんな噓ですから」となるのだが、そこを乗り越えるには正岡子規を待たなければいけないのだろう。
一緒に写っているのは磯田さんの「素顔の西郷隆盛」ですが、大河ドラマの「西郷どん」の時代考証をしていた磯田さんの番宣本と言うかドラマを見ながら実際はどうだったかを読めばより面白いですよというものです。磯田さんも商売上手ですが、こうして稼いだお金を古書店を巡って古文書購入に使っているのか。とにかく嵐山さんが「影の日本史にせまる」のあとがきで書いていましたが、小さな紙に書いてある古文をすらすらと読み下してくのでびっくりしたそうですが、幼い頃から古文書に親しんでいて未発見の古文書を渉猟するのが無上の喜びのような人ですのでいくらお金があっても足りないかも。でも貴重な文書は博物館なり大学に寄付しているみたいですけど。保管するのも大変ですし、日本の財産ですからね。
それにしても西郷というのは多面的で捉えにくく、自らの身を顧みぬ底知れぬ面があり、肝心な時にすぐエスケープしてしまうとか一緒に働きながら付き合うには結構厄介な人だったかも。
「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困りもす」は山岡鉄舟を評した西郷の言葉ですが、まさに西郷自身のことに思える。
この本には西郷の私生活と言うか東京暮らしの実際とか鹿児島での日々についても触れてあり、恐れ多いですが人間西郷に親近感持ちます。
取り上げられたのは、西行と芭蕉、その間をつなぐ宗祇です。
西行も芭蕉も花鳥風月を愛し旅を愛して日本各地を漂泊すると言う俗世間からは離れてある意味風流を絵に書いたような人生を送ったかに見えますが、どうもそこには影があるみたいです。
西行こと佐藤義清は清盛と同期の北面の武士としてエリートコースを歩んできて、これからという時に突然の出家、隠棲。上司ともいうべき藤原頼長は日記に「家富み、年若く、心に憂いなきに、遂に以って遁世す。人これを歎美する也」と書いている。身長も180センチ近くあったと言われ骨格たくましく体力もあってどちらかというと体育会系。それだけに隠遁は大きな話題になった事件だったみたいです。
ところが当時の政治情勢を見てみると院政による調停内部のごたごたが沸騰する直前。実際に暫くして保元の乱、平治の乱と続けて戦乱が起こっていてたくさんの血が流れてます。もし西行が北面の武士のままでいたら当然ながらどちらかにつくか去就を迫られ抜き差しならない立場に追い込まれていたのだろう。当時のメンバーを見てみると平清盛とその一派以外はほぼ罪に問われ殺されている。目端の利く西行は危険を察知してうまく立ち回ったともいえるのだろうか。
出家隠とんしてからも歌を詠み都から離れきれない。「世の中を捨てて捨てえぬ心地して都離れぬ我が身成りけり」とは本音なんだろう。
歌人として名をあげると何度も旅にでているが、都の歌人が来たとなると自然人が集まり当地の情報も聞こえてくる。怪しまれることなく情報収集出来る。歌を通じて朝廷周辺にも絶えず繋がりがあったので、情報活動をする貴重な人材で単なる風流だけの人ではなかった❗️
その後時代は鎌倉、南北朝時代から室町、戦国と進むのですが、貴族社会の和歌から花の下に平等の連歌が広く親しまれるように。宗祇が全国を行脚して連歌を広め、京と地方の情報の橋渡しをしていた実情がいろいろな話とともに楽しく読めます。連歌というものが都と地方を文化的につなぐ役割をしていたことがよく分かります。詳しくは実際に読んでください。
芭蕉となると嵐山光三郎が「悪党芭蕉」を書いているように、隠密を多数抱えていた伊賀藤堂藩に仕えていたこともあって、隠密ではなかったかと言われることも。実際に奥の細道を一緒に歩いた曽良は幕府の巡察視だったとかで、芭蕉自身はともかく一行は同じ穴の狢と見られていてもおかしくない。小説や漫画の影響もあって忍者とか隠密というと黒装束で手裏剣を使い何処へも忍び込んでいくように思われていますが、実際には藩ごとに閉ざされた世界の実情を探るのが主な仕事でしょう。隠密的な役割を果たし、その情報は曽良などを通じて幕府にも伝えられていた面はあると思います。
俳諧師というのは、地方を歩いても怪しまれることなく、行き先々で俳諧の会を催すことによって他藩の人とも豪商、庄屋など地方の名士とも情報交換ができ、地方の実情を探ることが出来ると言う誠に便利な存在。とは言っても芭蕉が俳諧を極め蕉風を確立し、新たな文学をおこしたのは事実。江戸に出てくると水道工事人として働いていますが、仕事熱心で人を束ねる力があり腕もよく裏切らないので重宝されます。決して食べられなくてのバイトではない。そこで筋のいい弟子にも恵まれ蕉門も隆盛していく。芭蕉自身に一門を組織化し魅力的なキャッチコピーで広報宣伝していく力があった。ただ俳句について言えば芭蕉の俳句は事実をそのまま描写するのではなくてフィクションをうまく入れ込み「見立てる」という作業をしている。嵐山いわく「俳句はみんな噓ですから」となるのだが、そこを乗り越えるには正岡子規を待たなければいけないのだろう。
一緒に写っているのは磯田さんの「素顔の西郷隆盛」ですが、大河ドラマの「西郷どん」の時代考証をしていた磯田さんの番宣本と言うかドラマを見ながら実際はどうだったかを読めばより面白いですよというものです。磯田さんも商売上手ですが、こうして稼いだお金を古書店を巡って古文書購入に使っているのか。とにかく嵐山さんが「影の日本史にせまる」のあとがきで書いていましたが、小さな紙に書いてある古文をすらすらと読み下してくのでびっくりしたそうですが、幼い頃から古文書に親しんでいて未発見の古文書を渉猟するのが無上の喜びのような人ですのでいくらお金があっても足りないかも。でも貴重な文書は博物館なり大学に寄付しているみたいですけど。保管するのも大変ですし、日本の財産ですからね。
それにしても西郷というのは多面的で捉えにくく、自らの身を顧みぬ底知れぬ面があり、肝心な時にすぐエスケープしてしまうとか一緒に働きながら付き合うには結構厄介な人だったかも。
「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困りもす」は山岡鉄舟を評した西郷の言葉ですが、まさに西郷自身のことに思える。
この本には西郷の私生活と言うか東京暮らしの実際とか鹿児島での日々についても触れてあり、恐れ多いですが人間西郷に親近感持ちます。