長い軟禁生活で図書館から借りてきた本は読み終えて手持ちぶたさに。
仕方ないので本棚から1冊。
今回は新田次郎の「怒る富士」

新田次郎全集の21。昭和51年1月第20回配本ですが、昭和の本は活字が小さい。定価は何と980円です。
2段組で390ページなので、情報量が多いので読者としてはお得なんですが、今となっては目が疲れて休み休み。

それでも一度読んでいることもあり、思い出しつつ一気に読む終えました。
江戸時代、徳川綱吉が将軍の宝永4年に富士山が突然噴火。噴石降灰はふもとの村々を覆う。
「怒る富士」と言う題名から噴火当時の阿鼻叫喚、その中でのスペクタルかと思いきや、この物語は灰に埋まった駿東郡59か村の災害復旧に取り組む関東郡代の伊奈半左エ門と当時の幕閣の大老柳沢吉安、勘定奉行萩原重秀、間部詮房、新井白石、成り上がりの先制をよしとしない家柄のよい世襲の老中たちらの権力闘争を描いている。
被災して食うや食わずの生活を強いられても、藩主は農民のことなど一顧だにせず、この災害を自己保身と政争の具としてしか考えていない。藩の手を離れた被災地は幕府の直轄での災害復旧となり、土木工事の実務にたけた伊奈半左エ門にその仕事が命じられる。だが駿東59村は復旧の見通し立たずとして亡所に。亡所になってもそこに住む人は若者はともかく老人子供は他所に行くこともかなわずそこで生きていくしかない。
しかし当時の幕府の財政は貯えを使い果たし、内情は火の車。能吏の勘定奉行萩原重秀の手腕によって辛うじて回っている状態。とても膨大な量の降灰を取り除き、その間の農民に生きていける食料を提供することはかなわない。暴発寸前になるのだが、伊奈の奔走で何とか当座をしのぎしつつ手当をするのだが、将軍綱吉の末期で力の衰えた柳沢・萩原への反発や財政ひっ迫を顧みることない将軍の奢侈で、全国から徴収した富士山焼けの救恤金として48万両余りを集めているのだが、実際に被災地のために使われたのは3年分で16万両ほど。残りは将軍の綱吉から家宣への代替わりに伴う大奥の改築に、神社仏閣での法要に、そして韓使への饗応にと使われていく。
仮に全額が被災地の対策に使われていたのなら、降灰を除去する間農民は安心して生活でき、河川の灰をさらえ堤防を強固にすることができたのだろう。だがすべてが大幅に値切られ工事も中途半端に行われ大雨で堤防は決壊してさらなる大被害に見舞われる。
現地で農民の苦しむ姿を見て何とか手を尽くしていく半左エ門だが、東奔西走しても悉く政治の壁に阻まれる。結果最後は禁じ手にも手を出し、詰め腹を切らされて切腹。
今この物語を読むと被災地と中央の温度差と言うか、被災現場で苦しむ人々を見ようとせず政争に明け暮れている姿は現代でも変わらずあるのではと思えます。現場で何とかしようと苦闘する人が報われないのは伊奈半左エ門だけではない。
亡所とされた駿東59村の姿は、フクシマの帰宅困難地域と重なる。現場での果てしない苦闘を無視して、「undaer the contoral」と自信満々に高言し、今となってはどうなったのかと言いたい「復興五輪」を公言したのだが、その言葉に被災地へのどれだけの思いが寄せられていたのか。そう言えば今でも復興特別税がかかっているのだが、これってどう使われているのか。山焼け救恤金のようなことはないにしろ屁理屈をつけて被災地とは何やらあまり関係ないことにも使われていたのでは。
傲慢な人間に富士が怒って噴火したかもしれないが、その後には民のことに目を向けない自己保身と権力欲に取りつかれ、権力闘争の好機としているような為政者に対する作者の怒りが噴火している。現代の日本にも同じような構造が続いていることが読後感にカタルシスではなく悲しみをもたらすが、被災した農民の命を救おうとして最後は一命を投げ出した伊奈半左エ門の生き方には粛然とせざるを得ない。
為政者としてどこに思想の根拠をおくのかが問われているのは江戸時代だけではなく現代にも当てはまる。今読んでも読みごたえがあり全く古びていないのですが、字が小さいのが苦しい。
仕方ないので本棚から1冊。
今回は新田次郎の「怒る富士」

新田次郎全集の21。昭和51年1月第20回配本ですが、昭和の本は活字が小さい。定価は何と980円です。
2段組で390ページなので、情報量が多いので読者としてはお得なんですが、今となっては目が疲れて休み休み。

それでも一度読んでいることもあり、思い出しつつ一気に読む終えました。
江戸時代、徳川綱吉が将軍の宝永4年に富士山が突然噴火。噴石降灰はふもとの村々を覆う。
「怒る富士」と言う題名から噴火当時の阿鼻叫喚、その中でのスペクタルかと思いきや、この物語は灰に埋まった駿東郡59か村の災害復旧に取り組む関東郡代の伊奈半左エ門と当時の幕閣の大老柳沢吉安、勘定奉行萩原重秀、間部詮房、新井白石、成り上がりの先制をよしとしない家柄のよい世襲の老中たちらの権力闘争を描いている。
被災して食うや食わずの生活を強いられても、藩主は農民のことなど一顧だにせず、この災害を自己保身と政争の具としてしか考えていない。藩の手を離れた被災地は幕府の直轄での災害復旧となり、土木工事の実務にたけた伊奈半左エ門にその仕事が命じられる。だが駿東59村は復旧の見通し立たずとして亡所に。亡所になってもそこに住む人は若者はともかく老人子供は他所に行くこともかなわずそこで生きていくしかない。
しかし当時の幕府の財政は貯えを使い果たし、内情は火の車。能吏の勘定奉行萩原重秀の手腕によって辛うじて回っている状態。とても膨大な量の降灰を取り除き、その間の農民に生きていける食料を提供することはかなわない。暴発寸前になるのだが、伊奈の奔走で何とか当座をしのぎしつつ手当をするのだが、将軍綱吉の末期で力の衰えた柳沢・萩原への反発や財政ひっ迫を顧みることない将軍の奢侈で、全国から徴収した富士山焼けの救恤金として48万両余りを集めているのだが、実際に被災地のために使われたのは3年分で16万両ほど。残りは将軍の綱吉から家宣への代替わりに伴う大奥の改築に、神社仏閣での法要に、そして韓使への饗応にと使われていく。
仮に全額が被災地の対策に使われていたのなら、降灰を除去する間農民は安心して生活でき、河川の灰をさらえ堤防を強固にすることができたのだろう。だがすべてが大幅に値切られ工事も中途半端に行われ大雨で堤防は決壊してさらなる大被害に見舞われる。
現地で農民の苦しむ姿を見て何とか手を尽くしていく半左エ門だが、東奔西走しても悉く政治の壁に阻まれる。結果最後は禁じ手にも手を出し、詰め腹を切らされて切腹。
今この物語を読むと被災地と中央の温度差と言うか、被災現場で苦しむ人々を見ようとせず政争に明け暮れている姿は現代でも変わらずあるのではと思えます。現場で何とかしようと苦闘する人が報われないのは伊奈半左エ門だけではない。
亡所とされた駿東59村の姿は、フクシマの帰宅困難地域と重なる。現場での果てしない苦闘を無視して、「undaer the contoral」と自信満々に高言し、今となってはどうなったのかと言いたい「復興五輪」を公言したのだが、その言葉に被災地へのどれだけの思いが寄せられていたのか。そう言えば今でも復興特別税がかかっているのだが、これってどう使われているのか。山焼け救恤金のようなことはないにしろ屁理屈をつけて被災地とは何やらあまり関係ないことにも使われていたのでは。
傲慢な人間に富士が怒って噴火したかもしれないが、その後には民のことに目を向けない自己保身と権力欲に取りつかれ、権力闘争の好機としているような為政者に対する作者の怒りが噴火している。現代の日本にも同じような構造が続いていることが読後感にカタルシスではなく悲しみをもたらすが、被災した農民の命を救おうとして最後は一命を投げ出した伊奈半左エ門の生き方には粛然とせざるを得ない。
為政者としてどこに思想の根拠をおくのかが問われているのは江戸時代だけではなく現代にも当てはまる。今読んでも読みごたえがあり全く古びていないのですが、字が小さいのが苦しい。