kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

AI、VRの怒涛に抗するために   せめて「本心」だけは人のものに

2024-12-10 | 映画

平野啓一郎原作にかかる本作は恐ろしいが、滑稽だ。人間の性(さが)、本質を衝いているとともに、その不可解さや無限性をも示唆しているように思える。

恐ろしさは、オーウェル『1984年』も彷彿させる個人管理。『1984年』では、国家がアナログな方法で個人の情報、行動そして思想を全て管理する様が描かれていたが、そこには隙間もある。主人公が束の間の恋を愉しむ時間はその隙間を自由となし、やがてその自由が彼を追い込んでいった。デジタル社会で個人の動き - そこには視界や聴覚も捕捉される - を全て管理される様を描く「本心」では、思考の自由は担保されているが、それゆえ「自由死」を選んだ母親の真意=本心、を探ろうとハイパーテクノロジーであるデジタル仮想空間にどんどんのめり込んでいく。ワヤレスフォンとゴーグルをつければ、そこにAIで完璧に学習した母(ヴァーチャルフィギュア、VF)が立ち現れ、普通に会話する。「自由死」とは、自分で自分の死期を決めることができる制度である。果たして「自由死」を選択したのは母の「本心」であったのか。生前の母石川秋子(田中裕子)と仲良く、朔也(池松壮亮)と同居することになる三好彩花(三吉彩花)の情報も得て、VIはどんどん進化しいく。

過日、大雨の日、危険な場所にいた母を追い、重傷を負った朔也は昏睡中に母を失い。職場もなくなっていた。リアルアバター(RA)として仕事を始める。RAとは、依頼者に成り代わって実際行動をするいわばヴァーチャル・リアリティから「ヴァーチャル」を取り除き、ウーバーイーツの行動力で実演する奴隷的労働である。臨終間近の依頼者から、かつてよく訪れていた高級レストランで食事などはまだいいが、「殺人」まで依頼する者もいる、カスタマー至上主義の「タガがはずれた」サービスだ。依頼者は成果に星をつけ、評価が低ければクビになる過酷な世界だが、社会的に這い上がれない層にはこのような仕事しかない。タイミーなどギグワークが当たり前の現在、もはや「ヴァーチャル」ではなくなるだろう。

母との会話、そこに彩花も加わり、「本心」を探るが、VFの完成度にハマるほど、「本心」は見えなくなる。そして、RAの仕事は過酷さを増してゆく。朔也が外国人ヘイトの男を「懲らしめた」動画が出回り、ヒーローとなり経済的には落ち着く。が、朔也に手を差し伸べたアバターデザイナーのイフィーは彩花に結婚を申し込み、そもそも不安定な彼らの関係はどんどん壊れていく。

本作にはいくつかの問いがある。AIを中心にテクノロジーでヴァーチャルはリアルを創作したり、超えたりすることができるのかということと、人間の「本心」は他者に、あるいは自身に解明可能なのかということ。同時にこの2つの問いに(正)解はないことも。さらに、本作では「自由死」の制度的背景は描かれていないが、「プラン75」(早川千絵監督、倍賞千恵子主演。2022)を想起すれば、容易に理解できる。「プラン75」では、財産も仕事もない主人公ミチが75歳以上は自己の死期を選べる制度を選択せざるを得ない姿を描いた。秋子もミチも貧困で「用のない、役に立たない高齢者」は超高齢社会、財政逼迫の国家のために自死に追い込まれるのは同じである。もちろん「プラン75」でも制度に疑問を持つ、より若い世代も描いていたが、制度の前に朔也も含めて抗うことなどできない。しかも、それでも精神の自由だけはあった(はず)なのに、困窮や孤立ゆえにその自由さえもない仕事しかない、それに全て縛られるとすれば。

ここまで見てくると、「本心」も「プラン75」もSFなどではなく、とても近しい「近未来」であることが分かる。紛れもなく、実現「可能」なディストピアであったのだ。

「何よりもまして自由なものは心の中のものおもい 目をひらく以外に止めるものはない」(小椋佳「思い込み」)。目をひらいたらVFのゴーグルがあった。テクノロジーは思念をも支配する。(「本心」石井裕也監督・脚本 2024)

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巖さんは「神」、警察・検察等は「ばい菌」 「拳と祈り ー 袴田巌の生涯 ー」

2024-11-19 | 映画

9月26日という日は、それまで「洞爺丸沈没事件(洞爺丸台風)」の日であったが、2024年からは袴田巌さんの無罪判決の日として記憶されるだろう。それは巖さんが逮捕されてからこの日まで58年もの時を要したからである。

本作は、2002年1月にまだ静岡放送の入社2年目であった笠井千晶記者(当時)が静岡県警の記者クラブで知った「袴田事件」に興味を持ち、取材、そして2014年に釈放された巖さんが姉の袴田秀子さんと暮らすようになった後もずっとカメラを回し続けた労作である。

巖さんも秀子さんも笠井監督の前ではカメラを意識していない。秀子さんは大きく笑い、巖さんは着替えをして、監督と将棋も指す。もちろん取材を始めた当時は、巖さんが娑婆に出てくるなんて予想もしなかったことだろう。それが実現し、拘置所から出てきたばかりの巖さんが迎えの車に乗った隣には監督のカメラがあった。そして姉弟に密着。信頼を得られないわけがない。そこまでしても50年近く獄中にあり、また死刑執行の恐怖の中にいる巖さんの心を、弟の無実を信じ、その雪冤のために人生を費やした秀子さんの思いを描くには難しいだろう。

映像では、二人の日常とともに、巖さんの取り調べ時の音声が流される。警察官はハナから巖さんを犯人視して、自白させるための過酷な取り調べの様子が分かる。判決を導く際に自白が証拠とされるためには任意性と信用性を要する。このような取り調べで得られた自白などそのどちらもないことは明らかだ。現に袴田事件での一審判決では自白調書は1通しか採用されなかった。しかし巖さんは死刑となった。自身は無実と信じていたのに、合議体の裁判長、右陪席裁判官が有罪としたため、意に反して死刑判決を書いた熊本典道裁判官は、死の目前、病床で巖さんへの謝罪の言葉を口にできたが、彼も人生を狂わされた一人であった。

様々な問題を抱える日本の刑事裁判であるが、袴田事件では「死刑」の存在と、再審請求が認められるためのハードルの高さが如実に現れている。言うまでもなく「死刑」は執行されれば、冤罪であった場合取り返しがつかない。事実、巖さんはその恐怖のため精神を病んだ。そして、現在再審請求中である飯塚事件など冤罪の疑いが濃厚であるのに死刑が執行されてしまった事案もある(警察、検察は証拠をつくる 「正義の行方」https://blog.goo.ne.jp/kenro5/e/4a8b3cf764276e660a0587f7a475d7d2)。

現在、日弁連が大きく運動を進めている刑事再審法制改正。再審事件に恐ろしく時間がかかるのはその法整備がなされていないからである。請求審における検察官による異議(抗告など)を認めていること、証拠開示ルールの不存在など課題は多い。そして、ただでさえ手持ち件数の多い裁判官は記録も膨大で手間もかかる再審事件は敬遠しがちだ(裁判官の当たり外れによる「再審格差」)。袴田事件の再審開始決定を出した村山浩昭判事は、高裁で逆転不開始となった件で、のちに「ひっくり返されないような決定を書くべきだった」旨おっしゃっていた。それほど緻密な判断が要請されると言うことだ。「疑わしきは被告人の利益に」の正反対である。

袴田事件の再審無罪を受けて、畝本直美検事総長は無罪理由となった「捜査当局による証拠の捏造」にとても反発し、本来は控訴すべきだが「袴田巌さんの長期にわたる境遇に鑑みた」旨を理由とし、控訴断念を発表した。巖さんをそのような境遇においたのは検察庁であるのにである。この発言は到底許し難い。

拘禁反応のため、意思疎通が難しくなった巖さんは自身を「神」とする。「神」にならなければ強固な意志を保ち続けられなかったのだろう。それに引きかえ、検事総長談話に現れているように検察は「ばい菌」である。

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女性も、移民も関係ない。音楽で繋がる、繋げる「パリのちいさなオーケストラ」

2024-10-15 | 映画

音楽のことはとんと分からない無粋人にて音痴の筆者だが、「音楽で世界は変わらないが、人を変える力はある」と信じられるような快作だ。女性の指揮者が6%、フランスに限れば4%なんていうのも知らなかったし、作品のモデルとなったザイアとフェットゥマ姉妹が学んだ1990年代でも女性差別がひどかったことも。

アルジェリア出身でパリ郊外のパンタンに住まう二人は、パリ中心部の富裕層が学ぶ音楽院に編入。そこではあからさまに女性差別、地域(移民層が多い)差別に遭う。しかも姉のザイアはこれまで取り組んできたヴィオラではなく指揮者志望。「女性は指揮者になれない」言い放つのは、男子学生だけではない、学校の教員も、のちにザイアを鍛えることとなる世界的指揮者のセルジュ・チェビリダッケも。嫌がらせに揶揄、恣意的な評価。二人を阻む壁は「女性」「移民」「居住区」と幾十にも張りめぐらされる。しかし、負けなかった。地域で障がいのある子どもたちに音楽を教えるなど、徐々に仲間を増やしていく様は、希望が広がり、増える様そのものだ。

チェビリダッケがザイアに言う。「(指揮者が孤独だなどと)言っている間は、演奏者たちと一体化していないからだ。一体感を感じれば音は変わる」と。この辺は、音楽(家)の世界に疎く、その精神性がすぐには理解できない朴念仁には遠い世界でもある。しかし、何らかの差異をわざと言い立てて、差別に転化する言説や行動に対する有効な反撃は、その差異を無効化する実践と共感でしかないというのは分かる。「女性だから」の「だから」の前に入る様々な決めつけは、そこに自分は入らないと思う臆病者の逃げ道でしかない。

ザイアはやがて交響楽団結成を思いつく。そんな地区で、練習場所は、資金は、団員は?の幾つもの困難を乗り越えていくうちにザイアも音楽家として成長していくが、これは全て史実なのだ。

作品が終始メロディに溢れているのが心地よい。楽団名は「Divertimentoディヴェルティメント」(「娯楽」、「楽しみ」または「嬉遊曲」。本作の題でもある。)。モーツァルトの作品が有名だそうだが、このディヴェルティメントほか、作品の前後を締めるボレロがいい。単調に思える楽曲はじれったくなるほどの遅さで楽器が増えていく。本来はフルートで始まるそうだが、本作ではザイアの盟友ディランがクラリネットで参加して大団円。自信をなくしていたザイアは再び、指揮台に立つ勇気を得て、姉妹はその後楽団結成、フランス全土で活躍する。上映中次はどんな楽曲が流れるか楽しみで仕方なかった。

ところで、同時期上映されているフランス映画の「助産師たちの夜が明ける」(http://pan-dora.co.jp/josanshitachi/)も優れたアンフィクショナルなドラマ。ドキュメンタリーではなく本作と同様にドラマであっても現実や歴史を描いているものには、全くの虚構は叶わないと感じた。ブラボー!

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F1の被災地をゆく「Weフォーラム 見て、聞いて、感じて 伝えてほしい」に参加して

2024-10-08 | Weblog

福島第1原発事故により人が住めなくなった「帰宅困難区域」。字面は何度も見たが、具体的にどのような区域なのか、現状はどうなっているのか想像し難かった。それが過去に2回福島でのフォーラムの実績のある「Weの会」が区域内の入場ほか、自宅を津波で失った方と、解体せざるを得なかった方のガイドが組み込まれたフィールドワークをプランしたので2日間深い、濃いツアーに参加してきた。

1日目は、放射線作業従事者として原発関連の仕事の経験もあり、3.11時には女川原発に出張中だった今野寿美雄さん。自宅を放射能に汚染され、「公費解体」期限ギリギリに決断した。家族、子どもらとの思い出がいっぱい詰まった城を自らの決断で壊す悲しさ。今野さんはその後「子ども脱被ばく裁判(子ども人権裁判・親子裁判)」原告として、「福島原発訴訟団」ほか他の裁判の支援にも奔走する。浪江町ほか地域の現状、実情、裏側はこの人に聞け!と感じる、滑らかで分かりやすく、当を得たガイドに唸らされる。この道はどこに続き、地震当時どうだったのか、あの家は、事故前と後であの人は、あの地は…。次から次へと出てくる「福島原発事故地域掘り起こし辞典」とも言うべきまさに生き字引の趣。その舌鋒はお上やそれと一蓮托生の東電ほか企業側にも容赦ない。その地に実際に行って、目の当たりにして、今野さんのお話を聞かないと分からないことがいっぱいある。中でも今野さんが「世界一Hな場所」と名指す「福島イノベーションコースト構想」施設。Hとは水から分離する水素を指す。クリーンエネルギーにて巨大規模の産業誘致で復興、活性化とうたう。そこに元々あった建物、人の暮らしとは無縁だ。容易に軍事転用できる危険性は、経済安全保障政策との平仄も合う。ならば住民にとっては密室化し、情報公開されない。そして、原発事故も何もなかったかのように「復興」の前に過去のことをいつまでも話すなとの圧力。実際、原発事故地域に近い、大きな被害を受けた人ほど語り部が少ない、いないと言う。自ら「風評加害者」と名乗る今野さんには引き続き、このような「ショック・ドクトリン」を壊していってほしい。

2日目は、原発直近の大熊町の浜に自宅のあった木村紀夫さん。津波で父親、妻、娘を失う。特に次女夕凪(ゆうな)を探そうにも、原発事故でその区域に入ることもできず、夕凪さんの骨の一部が見つかったのは6年近く経ってから。見つかった場所などから津波に流されたのではなく、その場に遺されたからではとの疑念が。地震直後の捜索が続けられておれば助かったのではないかとの思いが強い。原発事故さえなければ。

「帰宅困難区域」は同地居住者の案内があれば入場することができる。ツアー参加者全員が名簿を提出し、スクリーニングを経て入ることができる。防護服の着用は自己判断だが、アスファルトでない土の部分は汚染度が高い可能性。マスクや手袋は汚染されたモノに触れる可能性があるため、出場後放射線廃棄物となる。草ぼうぼうの荒地の中を、対向車もない道をバスで行く。草ぼうぼうの荒地は家があったか、農地があったからなのだ。人の営みが全く消えた土地とはこういうものなのか。阪神淡路大震災では焼け野原に遭遇し、戦争で焼かれた土地とはひょっとしてこんなものかもしれないと想像したが、営みのない荒地は強制疎開させられた、やはり戦争の結果にも思える。そして谷や窪みに深く木々がしげる様は「風の谷のナウシカ」の腐海。人は近づいてはならないのだ。

木村さんの案内で、自宅のあった場所と夕凪さんの遺骨が見つかった場所へ。木村さんは自宅を再建したいし、夕凪さんの見つからない遺骨を探し続けたいと言う。小さな碑も建てられた。沖縄戦で亡くなった人の遺骨を今も探し続ける人がいる(夕凪さんの発見に繋がった具志堅隆松さん)。個人で戦争や災害その他で亡くなった人の遺骨を探す作業は、資金、道具その他の困難が多いし、限界がある。しかし、これを国など公が担うとややこしくなる。遺された個人の思いとは別に「打ち止め」の危険性があり、靖国神社に象徴されるようにクレンジングの効果(狙い)があることだ。それは再びその悲劇を甘受せよと国家の指令だ。

今野さんに案内いただいた「東日本大震災・原子力災害伝承館」が原発事故の責任に一切触れない姿勢や「コミュタン福島(福島県環境創造センター交流棟)」のなんと薄っぺらなことか。

「忘れない」「伝える」。そしてそれはしつこく。国家の前に個人のできることは知れている。しかしそれを続けることは、次の過ちを遅らせ、次代に繋げることができる。(左:「おれたちの伝承館(3.11&福島原発事故伝承アートミュージアム)」展示の立札。右:木村さん自宅近くにあるかろうじて残った漁協の建物)

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旧ユーゴスラヴィア訪問記③ セルビア・ベオグラード

2024-09-29 | Weblog

最後の訪問国、セルビアのベオグラードに着いた。ボスニア・ヘルツェゴビナではボスニア紛争の「被害者」としての側面を多く見た。スレブニツァのメモリアル・センターはその最たるものだろう。では「加害者」側とされたセルビアはどうか。ボスニア紛争の直接戦場とならなかった点、ボスニアに比べて非戦闘員の被害者が少ない点で、戦争を想起させるような施設はない。中国に南京虐殺の記念館はあるが、日本にはないことを見ればよく分かる。「加害者」と名指しされた側はダンマリを決め込むのだ。そこがドイツとは違うところだろう。

しかしベオグラードは紛争前のユーゴスラビアの首都。大都会である。紛争後、西側諸国はクロアチアやボスニアへは積極的に復興支援したとされるが、セルビアには冷淡だったとも。その事情を跳ね返すような煩雑ぶり。交通渋滞がひどい。ホテルからの移動は最寄りのトロリーバス停車場を頻繁に利用したが、前に進まない。余裕を持って移動しているが度々ヒヤヒヤした。そんなトロリーバスも使って参加したのが「ベオグラード 共産主義旅行」。共和国広場を起点に、共産主義時代の建物が現在ホテルとなっている様などを案内され、コソヴォ紛争の際にNATOに空爆された建物を周り、街の中心から少し離れた地にある国立歴史博物館へ。ユーゴスラビアの指導者ヨシップ・ブロズ・チトーの偉業を顕彰する施設だ。チトー夫妻の霊廟も併設されている。建物の規模はそれほど大きくはないが、周辺の広い公園敷地や霊廟を飾る花壇など憩いのスペースとなっている(もっとも訪れた日は猛暑で「憩う」どころではなかったが)。施設や公園の前に巨大なモニュメントやゲートがあり、いかにも社会主義といった趣である。チトーの若い頃から臨終までたどる展示は、詳しく、遺品も多い。展示物全ての説明書はとても読めないが、パルチザン出身のチトーは軍服姿も多い。王国から連邦共和国へ、女性の地位や工業生産の向上、ソ連に物申す非同盟の盟主。チトーを褒め称える言説は多いが、最も評価された物語の一つが、もともと複雑な民族構成であったユーゴを緩やかな連邦制によって民族紛争を防いだことがあげられる。しかし、紛争の種は常にあり、アルバニア人に対しては他の民族に比して苛烈に弾圧したとの話もあるが、そこまで展示では触れていただろうか。多分ないだろう。

チトーの死後(1980)、クロアチア、ボスニア紛争などで大量の血が流された。もしチトーがいたら防げたのにとの希望的観測?もあるが、ソ連崩壊(1991)後はもともと内包していた民族間の沸騰したお湯を、チトーという一人の鍋で押さえ込むことなどできたであろうか。こればかりは実際の歴史を後から振り返るしかない。

ツアーは共和国広場に戻って終了。そばの国立博物館はなかなかの規模で、セルビア正教ゆかりのイコン画をはじめ、バロック、近代絵画まで揃っていて見応えがある。ガイドの方に正教美術を見たいと言ったら、ぜひ聖サヴァ大聖堂へと勧められた。東方正教会としては世界大規模というその威容は、イタリアなどのカトリックの聖堂、教会のそれとも違う絢爛さに満ちている。これは聖サヴァ大聖堂自体が16世紀にトルコの侵攻によって焼失し、1935年から建造中といい、新しいこととも関係あるだろう。内壁を占めるカラフルな宗教画は素晴らしい。通常、カトリックの内壁画は、キリストの誕生や受洗、数々の奇跡、マリアの物語など聖書でイロハが多いが、ずいぶん違っているようだ。中世に強かったマリア信仰はこの大聖堂壁画を見る限り強調されてはいない。

セルビアをはじめ、旧ユーゴスラビアを去る最後の日にこのようなオーソドックス(正教の英語Orthodox)な観光ができ、眼福となった。この旅も終わりである。

(左:「国立歴史博物館」のチトー銅像(市街のいたるところにある)。右:クネズ・ミロシュ通りにあるコソヴォ紛争時のNATO空爆跡)

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旧ユーゴスラヴィア訪問記② クロアチア・ドゥブロブニクとモンテネグロ・ポドゴリツァ

2024-09-25 | Weblog

1つの国家、2つの文字、3つの宗教、4つの言語、5つの民族、6つの共和国、7つの国境。ユーゴスラヴィアをあらわす典型的な言い回しだ。今やユーゴ成立以前の6つの共和国(コソヴォを入れると7つ)に再び分かれた中でスロベニアとクロアチアは西側の支援もあり、優等生国である。中でも「アドリア海の真珠」とされるドゥブロブニクは世界遺産であり、クロアチア随一の稼ぎ頭。その分、観光客基準の物価はすこぶる高い。行き交う人も多かったがサラエヴォはどこかカントリーサイドの趣もあったが、ドゥブロブニクは観光に特化しているという面で「資本主義的」である。世界遺産指定に気を遣っているのだろう。景観も壊されず、街も清潔である。

クロアチアとモンテネグロは通貨もユーロ。その分、両国の物価は西欧基準でもある。ボスニア・ヘルツェゴビナとセルビアは独自通貨(それぞれマルカ、ディナール)。同じ国であったのに、一方はEUに加入、発展し、他方は復興から「遅れている」。ただモンテネグロはセルビアから分離独立したばかりで、主要産業もあまりなくこれからだ。その中にあって、ドゥブロブニクの南に位置する同じ美しいアドリア海を享受する旧都コトルはモンテネグロであり、同国はこの地に大きく頼っている(ただコトル旧市街からは海はあまり見えない)。

サラエヴォから長距離バスで移動した先がドゥブロブニクで、2泊後、コトルに移動した。そしてモンテネグロの首都ポドゴリツァへ。一国の首都だが、本当に見るところがない。ホテルから歩ける距離にある国立美術館もちょうど展示替え休館中だった。見るところはないが首都のビル群。暑さは変わらないので結構難儀した。

ところで、サラエヴォからドゥブロブニク、ドゥブロブニクからポドゴリツァへは陸路で入国したので前者はバスを降りて、後者は運転手がこちらのパスポートを預かってパスポートコントロールに示しただけですぐに越境できた。元々一つの国なのだ、多分親戚がいる国民も多いだろう。ポドゴリツァへ行きの運転手は送迎の仕事で、パスポートの押印欄がなくなって2冊目だと言っていた。

モンテネグロはもちろん、旧ユーゴの多くの国が復興から遅れていると前述したが、その遅れを地元民はどう感じているのだろうか。トランプ現象に並んで、欧州の右翼伸長の解説として「ブリュッセル(EU)のエリートが、地元で汗流す労働者の声を聞かず、物事を進めることに対する反発」と説明されることがよくある。スレブニツァへのツアーガイドが盛んにナショナリズムの伸長が危険だと強調していた。ここでいうナショナリズムはもちろん、ボスニア紛争の首謀者で後に国際戦犯法廷で収監、戦犯となったスロボダン・ミロシェヴィッチなどを指すのだろう。急激な民族主義は時に近しい敵を見つけて、攻撃する。それが言論にとどまらず、武力行使になれば再び紛争、虐殺の悲劇に繋がりかねない。一方、ポドゴリツァ行きの運転手は、ボスニア・ヘルツェゴビナ人だが「政治家が悪い」とこき下ろしていた。ボスニアは、複雑な民族構成を反映して、各民族に割り当てるため国の規模の割に国会議員がとても多いし、合意形成に時間がかかる。独裁主義に陥らないための民主主義の費用でもある。難しいところだ。

ポドゴリツァは一泊だけで午後には空港へ。いよいよ最後の訪問地、そしてボスニア紛争の相手方であるセルビアのベオグラードへの渡航だ。(左:「アドリア海の真珠」ドゥブロブニク旧市街からの風景。右:モンテネグロの首都ポドゴリツァの旧跡「古い橋」)

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旧ユーゴスラヴィア訪問記① サラエヴォ、スレブニツァ編

2024-09-22 | Weblog

コロナ禍もあり、遠ざかっていた久々の欧州旅行。訪れてみたかった旧ユーゴスラヴィアを目指した。理由はまだ紛争終結から30年もたっていない地であるから。特に1995年7月に起こったスレブニツァ虐殺ではボシニャク人およそ8000人超が犠牲となり、その墓碑と近くにメモリアルセンター(https://srebrenicamemorial.org MC)が整備されているのでガイドツアーを申し込んでいた。

MCは、閉業した電池工場の建物を利用して、だだっ広い空間にパネル展示と記録映像。最初に案内してくださった施設スタッフの英語は全く聞き取れなかったが、パネルや映像は理解できる。第二次大戦や沖縄戦などテレビで放映されるような古びたものではない。つい30年前なのだ。傷つき、力無く映る人たちの様子は現代、現在そのもの。しかし間違いなく殺され、時に殺した人たちなのだ。

スレブニツァは、ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サレエヴォから3時間も車で走ったセルビアとの国境も近いところ。ツアーは1日がかりだ。それでも行ってみたかった。あの悲劇の記憶をどう遺し、伝えようとしているのか。例えば規模は大きく違うが、世界遺産にもなっているアウシュヴィッツ国立博物館は見せる工夫に長けているし、スタッフも多い。ベルリンの「ホロコースト記念碑」やユダヤ博物館は、現代アートを思わせるようなデザイン性に優れていて来訪者を驚かせる。その点、MCは廃屋の工場で展示の洗練さはない。しかし、工場の事務所棟の狭い部屋に区切られた展示スペースは、テーマごとにまとめられていて鑑賞しやすいし、来訪者が必ず見るビデオも分かりやすい。どこか手作り感もある。何も立派な施設を作る必要はない。どう記憶し、つなぐかということだろう。新たな悲劇を生み出さないために。

サラエヴォ1日目の午前は最大の旧市街の繁華街バシチャルシァの街めぐり。無料であったが、ガイド女性の英語は話題が飛び、ほとんど聞き取れず。その点、午後の「1984 Olympic、1992-1995 Besieged Saraevo(1984 オリンピック、1992-1995包囲されたサラエヴォ)」ツアーではガイドの青年は紛争時まだ4歳と言っていたが、身内に兵士もいて(ボシニャク人側)歴史を伝える活動をしているそうだ。英語も聞き取りやすかった。彼とスレブニツァまで運転手兼ガイドの方も何度か口にしていたのが「reconciliation」。「和解」だ。ボシニャク人からすれば多くの人が「殺された側」、特にスレブニツァ虐殺などの記憶からすれば、被害者から「和解」を言い出すのは、彼らが一方的な「被害者」と位置付けるのを拒否しているからとも言える。ボスニア紛争では欧米側メディアのプロパガンダもあり、セルビア人が一方的に悪者と捉えられることも多かった。サラエヴォ市街にはセルビア人狙撃手が道ゆくボシニャク人を「無差別に」撃ったという「スナイパー通り」もある。でも、仕返しを繰り返していては平和は決して訪れないというのも歴史の教訓だ。

サラエヴォ・ツアーでは爆撃された病院跡や、包囲されたサラエヴォとセルビア軍の外側を繋いだトンネル博物館、オリンピックでは華やかであったろうルージュ競技場(セルビア軍が一時陣地としたていたとも)などを訪れた。街の、平和に暮らす人々の日常は戦争であっという間に壊され、それら廃墟と被害を受けた人々の思いは容易に癒されることはない。

MC近くの墓石群は訪れる者を圧倒する。ムスリムが圧倒的だったボシニャク人の墓石に混じって、正教徒の墓石もある。墓石群入り口のモニュメントには「8372」という犠牲者数を示すが、骨片のかけらなどから割り出した数字で正確なとことろは分からない。一人ひとりの犠牲も数字になってしまう。それが戦争の実相の残酷な一面でもある。(左:サラエヴォ市内の爆撃された病院。銃弾の跡が無数に。右:MC近くの集団墓地。)

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あの切なさがとても愛しい  「ぼくのお日さま」

2024-09-21 | 映画

タクヤには吃音がある。人前で話す最初の言葉が出てこない。だからあまり話さない。そんな彼をクラスメートは誰もがやりたがらないアイスホッケーのキーパーを押し付ける。でも、コウセイはそんなタクヤに寄り添っているし、タクヤもコウセイの前なら言葉にあまり詰まらない。

さくらは母の期待を受けてフィギュアスケートのレッスンに励んでいる。タクヤより少し年上、身長もある、二人に教え、アイスダンスを勧めるのは選手を引退し、コーチを務めるのは恋人五十嵐の田舎に移り住んだ荒川。五十嵐の地元は雪深い北海道の小樽近辺。タクヤ、さくら、荒川。この3人の一冬の物語。

主な登場人物が少ない。だからか一人ひとりの描き方が丁寧。話さないタクヤの心象はよく分かる。氷上に舞うさくらは女神だ。そんなタクヤの気持ちを知ってか知らずか、さくらも荒川も接する。やがて、スケートがそれほどうまくはなかったタクヤもメキメキ上達する。手を繋ぎ、揃って駆けるリンクの二人は前からコンビを組んでいたよう。しかし、成長期にある微妙な心の揺らぎ。残酷にも3人の関係は突然終わる。

監督・脚本・撮影・編集の奥山大史は本作でカンヌ国際映画祭で「ある視点」部門に正式出品された。「ある視点」部門とは、コンペティション部門とは別に主に若手(年齢というより作品数)作家の意欲的作品を取り上げるセクションで、過去には黒沢清が「岸辺の旅」で監督賞を受賞している。

本作でははっきりと描かれていない部分も含めて、どこかそれぞれ翳りを抱えている。タクヤは吃音であるし、父親もそうだ。さくらは母子家庭のよう。荒川と五十嵐はゲイカップル。そして深い雪景色が生活の音、喧騒を全て飲み込む。タクヤもさくらも思春期特有の照れと言葉の表現力に慣れていないせいか思いを表すことにはにかむ。荒川もなぜ選手をやめたのか描かれず、恋人のいる寂しい街に車で積める荷物だけで越してきている。

はっきりとしたハッピーエンドや結末がない分、いつまでも続くかのような物語。けれど思春期は短く、彼らを取り巻く環境、そして彼ら自身の変化もある。例えばタクヤのさくらに対する淡い気持ちは、北海道特有の粉雪のように春になると全く降らなかったかのように消えてゆく。タクヤは中学生になると道でばったり高校生になったさくらと出会う。ぎごちないが嬉しい。

なんと切ない物語だろう。3人が離れてしまったのは誰のせいでもない。誰かがそう仕向けたり、無理やり壊したわけでもない。けれど人間は別れるものだ。離れるものだ。特にまだ10代のタクヤとさくらには限りない将来がある。あの切ないひとときは、きっと成長の糧だったのだ。タクヤにとって輝いて見えたさくらが「ぼくのお日さま」であることは間違いないが、おそらくさくらにとってもタクヤと息のあったレッスンの時間が「お日さま」で、どこかパッションをぶつける先のない元スター選手の荒川にしても二人の子どもとレッスうが「お日さま」であったろう。

あの切なさがとてもとても愛しい作品だ。

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銃後の民はグラデーションであるのにそれを許さない戦争とは「ぼくの家族と祖国の戦争」

2024-08-24 | 映画

不条理、不合理、残酷。戦争の実相を端的に伝える言葉はいくらでもある。しかし、それは戦闘や兵士がたくさん出てくるシーンとは限らない。むしろ直接戦闘と関係のない銃後や占領された地域も過酷な戦争の現在地でもある。

1945年4月。ドイツ本土への連合軍の空爆は苛烈を極めていた。デンマーク、フュン島のリュスリンゲ大学にドイツからの難民を受け入れるよう学長ヤコブは命じられる。200名と伝えられていたが到着したのは500名超。体育館に詰め込まれた難民らに瞬く間に感染症が広がる。しかもドイツ兵は一人残らず姿を消す。ヤコブの妻リスは飢える難民の子らにミルクを配布しようとするがヤコブは反対する。それが、難民の死者の子どもが圧倒的に多いと知り、今度はヤコブが難民に手助けしようとする。今度はリスが反対する。ドイツ人を助けることは「売国奴」と非難される。その一部始終を見ていたのがヤコブとリスの子セアン。映画はセアンの眼を通して終始描かれる。

戦争で一番被害を受けるのは子ども。現在では何度も叫ばれる「反戦」の一スローガンだが、子どもは同時に「残酷」でもある。「売国奴」の両親を持つセアンは同級生からナチス役を強いられ、酷いいじめ、辱めを受ける。日本でも少しでも懐疑心を持つ大人に比して、「小国民」世代はより戦意高揚に邁進した。セアンを助けたのは難民の少女ギセラだった。ドイツ人を助ける両親とくにヤコブに反発していたセアンは、両親をドイツ軍に殺されたパルチザン支援者のヤコブの学校の音楽教師ビルクに懐いて、手助けするようになっていたが、自分を助けたギセラが瀕死にあることを知り、思い切った行動に出る。

銃後や占領地の非戦闘市民はすぐに殺されるかどうかの瀬戸際に立たされていない分、その行動はよりグラデーションだ。パルチザンに身を挺し、徹底的に占領軍に抵抗する者からナチスの下僕になる者まで。ヤコブも当初は難民には一切関わろうとしなかったのに、それが変わっていたのはドイツを助けるのではなく、目の前で瀕死の子どもらを助けようと思ったからにすぎない。ドイツ人に手を差し伸べるのではなく、人間に手を差し伸べるのだと。

ここに宗教的観念や背景を読み解くのは容易であろう。けれど「人道」は信仰とは必ずしも関係がない。もちろん、人種や階級、階層、職業、普段の生き方とも関係がない。

ヤコブを人道主義に目覚めた素晴らしい人と称するものも簡単だが、反対に石を投げつけ、挙句には暴力を振るう者を「愛国者」と論じるのも簡単だ。同時に誰もがパルチザンたれ、あるいは、その時々でうまく立ち回れとは言えない。敵を見たら撃てるようにと訓練された兵士とは違うのだ。

ドイツの占領が終わり、瀕死のギセラを病院に連れて行くため、セアンと父ヤコブは大きな賭けに出て、ギセラは助かるが、もう一家はその地にはいられなくなった。時々の選択によって愛国者になったり、売国奴になったり。そういう一市民の営みは揺れて、また移動するのに、二種類に分け、互いを憎悪と迫害、排除の対象とする。戦争の最大の機能と言えるだろう。

イスラエルのガザ攻撃を非難したら「反ユダヤ」とレッテル貼りをされるアメリカやドイツをはじめとする西側諸国。ネタニヤフ政権の蛮行は紛れもなくパレスチナ人に対するジェノサイドであるのにどちらかを問う「蛮行」。戦争は間違いなく揺れさえも破壊する。

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HistoryではなくHerstoryが描く、忘れてはならない歴史の暗部「流麻溝十五号」

2024-08-09 | 映画

民主化する前の台湾の「白色テロ」時代を描いた映画はまず「非情城市」(1989)が思い浮かび、恥ずかしながらそれ以外は知らない。正確には「非情城市」が描いた2・28事件(1947)より後の蒋介石(と息子蒋経国)による国民党政府による弾圧が「白色テロ」時代なのだが、まさにその時代、故なき反共(反政府)・弾圧政策の犠牲が「流麻溝十五号」であった。

台湾南東岸に位置する小さな島・緑島。この島に30年以上もの間、政治犯収容の監獄が設置されていた。「火焼島」の名もある島内の「新生訓導処」(収容所)中、女性が収容されていた場所の住所が「流麻溝十五号」である。「政治犯収容」と言っても、厳密には「政治犯」はほとんどいない。今で言う自由や民主主義に触れたり、勉強会に参加、あるいはそういった運動のそばで「巻き込まれて」捉えられた人たちが多かった。「政治(的確信)犯」など一人もいないのである。

しかし、一旦収容所に送り込まれればなんとしても艱難辛苦に耐え、生き抜いていかねばならなかった。ダンサーの陳萍(チェン・ピン)は妹を守るために、年長で皆に頼りにされる看護師の嚴水霞(イェン・シュェイシア)はクリスチャンであり、強い。二人に憧れるまだ高校生の余杏惠(ユー・シンホェイ)はスケッチを欠かさず心身を保つ。嚴水霞が外の情報源として新聞を読み回したことで収容者の政治的反乱謀議を疑い、首謀者として嚴水霞が、重罪犯として余杏惠も囚われる。余杏惠は独房監禁でやがて放たれるが、嚴水霞は軍法会議にかけられ、死刑に。人の生死をたった一人蒋介石が軽くサインすることで振り分けられていたのだ。陳萍や余杏惠はやがて解放されるが、もう囚われる前に描いていた希望の時間は得られない。

本作は実話に基づいた創作という。「新生訓導処」は、1970年に閉鎖されるまでおよそ20年もの間、「政治犯」が送り込まれた。そして戒厳令が解除され、「白色テロ」が終わる1987年までの間およそ4,500人が処刑されたとされる。しかし「新生訓導処」での女性たちの聲は、無視されていたのだ。しかし彼女らの囁き、慟哭、叫びは確かにあった。たとえ創作であったとしても本作は確実にそれを伝えている。

同性婚や性的マイノリティに寛容な国として今や東アジアで最も民主的とされる台湾。しかし、その民主化の足取りは30年あまりに過ぎない。しかし、それ以前の独裁政権の暗部、それは自国の隠したい恥部でもある、を直視し描き始めている。同じ、軍事政権から民主化した韓国でも、戦後間もない頃の済州島4・3事件や光州事件への総括、断罪が進む。これらは自ら招いた汚い部分、許すべきでない歴史を葬り去らずに、後世の希望に繋げる強固な意思でもある。翻って、東アジアでいち早く「民主化」したことになっている日本では、戦前の国策の過ちや陰謀、それに伴い無辜の民が頚切られた歴史、その一つ大逆事件の真相究明や首謀者(とその体制)への断罪さえが行われていない。未だ「民主化」していいないのではないか。

本作の英語原題はUntold Herstory。男の語りだけで描かれるHisutoryでは明らかにならないものがある。

 

 

 

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「裁判をしない裁判官」が生み出す歪な現実 『「裁判官の良心」とはなにか』

2024-07-01 | 書籍

現役裁判官が国を訴えるということで、話題になっている竹内浩史津地方裁判所判事。竹内さんの言う「裁判官の良心」は明確である。民事裁判官の経験が長い竹内さんなりに「正直」「誠実」「勤勉」を重要な要素とする。この3点なら別に裁判官に求められるというより人間として求められるのと同じではないかと指摘されそうだ。が、本書ではその前提として「思想・良心の自由」(憲法19条)の「良心」とは全く同じではなくて、わざわざ「すべて裁判官は。その良心に従い独立してその職権を行」うと(憲法76条3項)あることから、「良心的裁判官」たるべき規範を改めて強調していると見る。「良心的裁判官」については、本書に何度も出てくるので、その言を確かめていただくこととして、その反対に位置する「ヒラメ裁判官」(上だけ見ている裁判官)の存在とそれを生み出す最高裁判所事務総局(その他)の「裁判をしない裁判官」という組織構造の問題点を鋭くついているのが本書の肝と言うべきだろう。

読後の印象はとても分かりやすいと言うことだ。現職裁判官らが結成した日本裁判官ネットワークが過去に出版した裁判所を憂える書籍では、どなたも硬すぎるくらい真面目に、少し控え目に書かれているように思えて、隔靴掻痒の感が少なからずあったが、本書は明快、遠慮はない。少なくとも過去の類例の書に比べて裁判所に怖気付いて?しているようには見えない。

折しも岡口基一仙台高等裁判所判事が、SNSへの投稿によって弾劾裁判にかけられ、罷免されると言う「暴挙」が起きた(2024年4月3日)。罷免判決に至るその論理構成には疑義が多々あるが、要は、「裁判官たる者、自由に発言していいわけではない」と言っているに等しい。竹内さんは、弾劾裁判で岡口さんの表現行為が罷免事由にあたるものではないと「裁判官の市民的自由」の論点から証人にもなったが、判決では一顧だにされなかった。そして著者によれば、裁判官でSNSを使用する人は自身と匿名のお一人だけになってしまったと言う。著者が憂える裁判官を目指す者がますます減るのではと危惧される不自由さの象徴である。

「裁判をしない裁判官」優遇、意思決定の歪さなど、その弊害は弁護士時代より裁判官経験の方が長くなった竹内さんの具体的なエピソードの数々で(時の所長等顕名にしているところも好もしい)納得することができるだろう。そこで、少しだけ注文もある。女性の方が心の優しい人が多いから裁判官向きだとするところや(80頁)、裁判官が男性の場合を前提として、官舎で夫の出世話でいたたまれなくなる妻の話であるとか(168頁)、ジェンダー感覚が少し古いのではないだろうか。最高裁判事の年齢を問題にしている点からも、裁判所におけるその不均衡を積極的に取り上げて欲しかった。

ところで、本書でどちらかというと「リベラル」系として名を挙げている泉徳治裁判官と金築誠志裁判官(いずれも最高裁判事)。1994年4月に司法修習を優秀な成績で終え、裁判官への任官を目指していた神坂直樹さんが「任官拒否」された際の判断機関、「裁判をしない裁判官」として最高裁事務総局人事局長だったのが泉裁判官、任用課長だったのが金築裁判官である。神坂さんは任官拒否の理由は思想差別であるとして、行政訴訟、国賠訴訟を争ったが、どちらも敗訴している。その訴訟では裁判官任用の経緯を明らかにするため泉、金築裁判官の証人採用を求めていたが、理由もなく採用されなかった。いくら判決や退官後の言論で「リベラル」であっても「裁判をしない裁判官」であるときはそのリベラルさを発揮できないという構造的問題があると言うことか。

本書は、一部の書店で平積みになるなど、大変な売れ行きとのことだ。散見される誤植の類も増販で訂正されることを望む。(『「裁判官の良心」とはなにか』2024 LABO)

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歴史は常に傷ついている 「アンゼルム “傷ついた世界”の芸術家」

2024-06-29 | 映画

アンゼルム・キーファーは、ナチス式の敬礼を自らなし、あちこちで撮った作品に批判が上がったという。表現方法自体がドイツでは禁止されているからだ。

実はこの「ナチス式敬礼」については筆者自身とても苦い思い出がある。中学生の時野球部に入っていた。県大会の市の開会式だったか、行進する際に誰かが、「指揮台の前を通る時、みんなで右手をあげたらカッコいいんやん」と言い出し、それに従ってしまったのだ。もちろん誰もそれがナチス式敬礼だとは知らなかったのだろう。引率の教員も。日本だから許されたようなものだが、「知らない」ことは罪ではないのか。

「知らない」ことと「知っている」のに触れないこととは違う。それがナチスドイツの蛮行を経験した戦後ドイツの姿だった。それをあからさまにしたのがキーファー。ナチスの首謀者は処刑などで罰せられた。国際手配されている者もいるが、もうその復活を企図する者はいないし、ドイツ国民もあの時代を悔いている。ナチスに加担した下々全てを罰するのは現実的ではないし、それでは国が復興することの妨げにもなる。だから、記憶を喚起する、見たくないものを再び芸術表現だからといって顕にすることに対する拒否感は大きかった。

しかし1945年生まれ、ナチスの時代を経験していないキーファーに遠慮はなかった。と言うべきか、隠されたものが隠されたままで良いのかを問いたかったのだろう。ナチス式敬礼だけではない、キーファーが取り上げたナチス時代の表象は、アウシュヴィッツ・ビルケナウの絶滅収容所への途を想起させる線路、雪原に無数に並ぶ名もなき墓標、さらには肉体のないのに膨らみのある白い衣服。そこには記憶と記録を呼び起こす仕掛けがある。キーファーが美術作品を発表し出した60年代はまだナチス時代を生きた世代が中心。そこに忘れたふり、なかったふりでいいのかと突きつけたのだ。

だが、おそらくクリスチャン・ボルタンスキー(※)のようにユダヤ人の出自ではないキーファーにとって戦争は、被害者の視線ではない。加害者の視点とともに傍観者の視点をも許されなかったのではないか。だからあえて物議を醸す表現を選択したのだ。

ドイツにいた頃から、大作を手がけるキーファーであったが、より広い制作環境、もうそれはアトリエというより巨大な工場と倉庫である、を求めてフランスの地方に拠点を移してますます巨大化していく。そして扱う画材!も金属やシダ類、それを燃やしたり、焦がしたり。しかし出来上がった画面は意外と重くには見えない。一昔前の絵画を評する際に使用する用語、マチエールの巧みさということになるのだろうか。スチールといった本来人工的・無機質な材料は、芸術家にとってミニマルアートやランドアートの時代、歴史とは無縁に表現を拡張するためのマテリアル(マチエールである)の一種で済んでいた。しかし、そういった無機質なオブジェクトに歴史を封入する試みは、見る者にその連関性を深く想像させる効果を持つ。もちろんハナから現代アート・マテリアルを強調した作品に興味を持てない人にとってはそうでもないだろう。しかし、先ごろ日本で個展が開催されたゲルハルト・リヒターが絶滅収容所での隠し撮りに拘ったように、何らかの歴史上の蹉跌に向き合おうとするドイツ出身の芸術家はある意味、作り出す表象の向こう側にその総括しきれない困難を込めようとしていることを考えても良いかもしれない。

映画は、終始かすかに聞こえる囁きや、ある意味壮麗な音楽に包まれている。キーファーは、ギリシアをはじめとするヨーロッパでのキリスト教以前の価値観、神話も題材にするという。人類が文明を持って、たかだか数千年。纏いきれない囁きはずっと流れていたのに気づかなっただけだ。(ヴィム・ベンダース監督「アンゼルム “傷ついた世界”の芸術家」2023 ドイツ 公開中)※参考「圧倒的な生の不存在 クリスチャン・ボルタンスキー展」 https://blog.goo.ne.jp/kenro5/e/62a13d12d634f777521410f82a0488c2

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戦争をめぐる相克 忘れ去られた美術界のジェンダー視点『女性画家たちと戦争』

2024-06-25 | 書籍

画家たちの戦争責任という場合、そこでは藤田嗣治をはじめ、男性ばかりが取り上げられる。そこに女性はいない。Herstoryはなくhistoryのみだったのだ。

では女性美術家はいなかったのか。実は、明治政府が西洋の美術・文化を吸収、発展させようと設立した工部美術学校は女性に門戸が開かれていた(1876年)。日本で最初のイコン作家とされる山下りんや神中糸子がそうである。しかし、工部美術学校廃校(1883年)後、美術に特化した高等教育機関として設立された東京美術学校(1887年)には、西洋画科も設けられず、女性の入学も許されなかった。以後、女性の美術家志望者の私塾以外の公の教育機関としての受け皿は(私立)女子美術学校(女子美。1900年)だけとなった。女性が正規教育として美術を学ぶ機会を奪われた17年間に伸長したのは、「良妻賢母」思想であった。女性を家庭という私領域にとめおく今日の性別役割分業の始まりであったのだ。しかし、美術を学びたい、絵を描きたい女性たちはいたが「洋画家」になるにはさらにハードルがあった。

女性の洋画家としての活動、継続には同好の士のネットワークが必要、有用であった。やがて女子美の卒業生らも交えて、女性画家の存在を認めさせ、地位向上を図る中で時代は戦争へと突き進む。女性画家たちも当然戦時体制へと組み込まれ、奉国の証を立てんとする。そのような時代背景に描かれたのが大作《大東亜戦皇国婦女皆働之図》(1944 原題は一部旧漢字)である。《働之図》は、〈春夏の部〉と〈秋冬の部〉の2部構成であり、いずれも多数の女性画家による共同制作となっている。藤田嗣治をはじめ男性画家が従軍し、それぞれ個人の作品を制作したことの違いが明らかである。制作は「女流美術家奉公隊」。そして軍の要請による制作である「作戦記録画」のうち、洋画が主に戦地や戦況など具体的な事件、事案をモチーフとしているのに対し《働之図》は、「働く銃後の女性をテーマにした」合作図である(桂ユキ子の回想。107頁)。制作の指揮は長谷川春子が、構成の差配は桂が主に担ったことが分かっている。長谷川春子は現在では画家としての記憶にあまり残っていないと考えられるが、戦前「女流画家」界でトップの地位にあり、ネットワークを牽引した。

《働之図》には、銃後のあらゆる場面がおよそもれなく描かれている。戦闘機、弾薬など軍需物資の工場、田植えなどの農作業、傷痍軍人への慰問、さらに女性鼓笛隊の行進や炭鉱、水運、漁業など。制作された1944年はもう戦況も悪く、男性の働き手が極端に減っている銃後において、女性も本来力仕事であるどのような職種にも参画せざるを得なかったことから、描かれている男性は極めて少ない。そして上記のような生産や直接戦意鼓舞とは関係のなさそうな家内労働なども描かれている。まさに「愛国」の発露、「総動員」「挙国一致」である。

《働之図》は、同年に開催された陸軍美術展(3/8〜4/5 東京都美術館)に出品するために限られた制作時間、3部作(「和画の部」もあったようだが所在不明とのこと)という大作では共同作業にせざるを得なかったこと、そして「女流画家」の統制と奉国の意思統一という側面があったことであろう。現在〈秋冬の部〉が、靖国神社の遊就館に所蔵されていることは象徴的である。

さて、長谷川と並びすでに「女流画家」の中では傑出した存在であった三岸節子は、制作にはスケッチ程度で実際には関わらなかった。その点を長谷川に「非国民」と罵られた三岸は(104頁)、それまで共に仲間の地位向上などに尽くしてきた仲の長谷川と袂を分かつ。

戦後になり、戦争画に関わった男性画家たちはどうなったか。藤田嗣治は日本を離れ、二度と帰国しなかったし、戦争画に関わったことに触れられるのを嫌がった小磯良平など多くは発言さえ控えた。

一方「当時の戦いを聖戦として主張していたミリタリズムの信奉者であり、この戦争への否定や疑いはなかった」とされた長谷川は(田中田鶴子の回想。215頁)はやがて美術界を引退、忘れられた存在になっていく。三岸が94歳で没するまで旺盛な制作活動を継続したことは周知の通りである。女性画家たちの戦争をめぐる相克が《働之図》制作に至る過程で窺い知れるのである。

一点、本書と直接関係はないが、神戸市立小磯記念美術館にて「貝殻旅行 三岸好太郎・節子」展(2021.11.20〜2022.2.13)が開催された際に、「画業の長さ、展示作品数からすれば「三岸節子・好太郎」展ではないか。せめて「三岸好太郎・三岸節子」展とすべきではとアンケートに書いたが、さて。(吉良智子『女性画家たちと戦争』2023平凡社)

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待っていた好著  『この国(近代日本)の芸術 〈日本美術史〉を脱帝国主義化する』

2024-06-05 | 書籍

「明治期以降、徐々にその輪郭と内実が形成されてきた日本の帝国主義・植民地主義が産み落とした鬼子として現代に残る歴史否定・人種差別・異性愛規範・健常者中心主義等々が未だにこの国(近代日本)で支配的であることを改めてはっきり認識した。」「本書は、「美術」というフィールドを足場に、そうした帝国主義・植民地主義の残滓を払拭することに挑戦している」(山本浩貴「おわりに」812頁)。

本書の目的は上記のように明らかだ。しかし、それをどう論考で説得づけるか、切り口はいずれか。浩瀚な参照文献と、同時代アーティストへのインタビューでそれは成功していると言えるだろう。では編者(小田原のどか 山本浩貴)を突き動かしたプロジェクトの発端、危機意識はどこから出現したものか。それは「飯山作品の検閲」(2022年、飯山の映像作品を『In-Mates』が東京都人権プラザにより上映中止となった)であるという。

本書には、飯山由貴自身のインタビューも収められているが、関東大震災での朝鮮人虐殺を描いた動画に対し、その事実を認めたくない小池百合子都知事に都が忖度したことは明らかであった。しかし、芸術作品の検閲や出展中止、開催禁止は飯山の件だけではない。2019年のあいちトリエンナーレ「表現の不自由展・その後」をめぐる一連の動きがエポックメーキングとされるが、むしろそれまでに内在、顕在していた「現代に残る歴史否定・人種差別・異性愛規範・健常者中心主義等々」が「その後」展によってさまざまな事象が集成されたと言えるだろう。既知の通り、「その後」展では爆破予告が、「その後」大阪展でも不審物の郵送があった。

「その後」展は、この国(近代日本)にすでにある不可触なスティグマを分かりやすく展示したに過ぎない。「従軍慰安婦」を表す「平和の少女像」、昭和天皇の写真を燃やすシーンが映り込む動画、沖縄における米軍の駐留、横暴(に結託する日本政府)に対する揶揄などである。これらはすべて「近代日本」に端を発することだ。つまり日本に「美術」がもたらされたのは近代になってからであり、美術以前(近世の絵画芸術や手仕事を思い浮かべると良いだろう)にはあり得なかった、すなわち「帝国」の出現以降のことだからである。そこには絶対主義天皇制を基盤とするヒエラルキー、当然下位の者が存在する、に絡め取られた差別構造、「外国人」たるエスニシティ、ジェンダー、台湾・朝鮮半島・満州などの植民地支配の必然的帰結であるコロニアルの問題等々がある。しかし「美術」はそれを避けていた。少なくとも問題提起にはひどく無関心で、逆に「その後」展のように剥き出しのレイシズムが噴出した。

本書をかいつまんで紹介する任は筆者の能力を超えるが、沖縄、アイヌといったマージナルな領域の描き方、描かれ方、それに伴うヤマト=「日本」といった虚構の論考。「慰安婦像」をめぐる表象とジェンダー規範、あるいは天皇と戦争画の関係、さらには被爆地広島出身でシベリア抑留の経験もある地元の画家四國五郎の再評価、大杉栄にゆかりの美術家を取り上げた小論、ブラック・ライブズ・マター運動とアートとの関係、そしてこれらに挟まれるアクティビスト、作家のインタビューや論考も読ませる。美術関連書と言えるのだろうが、図版の少ない800頁を超える大著にして夢中になれる。これらの視点と行動力を知らなかった美術「好き」が恥ずかしいくらいだ。

個人的には、筆者も何度も見(まみ)えた彫刻家舟越保武の《ダミアン神父》の作品名変更の経緯がとても興味深かった。先ごろ、世界最多の有権者を擁した選挙と言われるインド総選挙が報じられた。インドは「世界最大の民主主義国」を自称するが、もちろんモディ強権政権にそれを信じる者は少ない。それに抗い、抵抗してきた作家、文筆家にアルンダティ・ロイがいる。ロイは反グローバリズムの立場から「帝国」を論じるが(『帝国を壊すために』2003 岩波新書)、日本も天皇制軍国主義下と戦後もその流れを断ち切れなったと言う意味において間違いなく「帝国」であり、だから人に見せ、考えてもらう契機としての「芸術」を扱う「日本美術史」も「脱帝国主義化」の必要性があるのである。(『この国(近代日本)の芸術 〈日本美術史〉を脱帝国主義化する』2023 月曜社)

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無関心で居られる「怖さ」ほど「怖い」ものはない 「関心領域」

2024-05-27 | 映画

映画に怖い作品は数多あるが、ホラーや残酷ものは見ないので、よく見る怖いものというとナチス・ドイツ(の蛮行もの)だろう。しかし、「シンドラーのリスト」のように実際の殺戮、迫害シーンが続くのも「怖い」が、一見穏やかな生活を描いていて、暴力シーンが全くないのに「怖さ」を感じることは十分できるものもある。

「関心領域」とは、アウシュヴィッツ強制収容所群を取り巻く40平方キロメートルの地域。ナチス親衛隊の用語である。反民主主義国家やその指向を隠さない政権は時に婉曲表現を多用する。オーウェルの『1984年』に出てきたニュースピークしかり、安倍晋三政権の「防衛装備移転」(武器輸出のこと)、プーチンの「特別軍事作戦」しかり。ナチスが「関心」を持っているのは、そこが大量殺戮工場の現場であり、その周辺にはそれを暴こうとする反対勢力(連合国側や報道)その他が入り込んではならない「領域」であるからである。しかし、「工場」の周辺には施設従事者以外も住まう。ルドルフ・ヘス収容所長の家族である。

子どもを川遊びに連れて行き、妻ヘートヴィヒと旅行の思い出話をするヘスは、よき父、よき夫である。しかし同時に、自宅に焼却炉の設計技術者を招き入れ、新しい機械がいかに「効率的に」焼却できるかの説明を聞き、「早急に」と指示する。焼却するのはもちろん収容所の死体である。

家族、友人とプール付きの広い庭でパーティーを開き、子どもたちは走り回る。なんと牧歌的、穏やかな日常か。しかし遠くから絶え間なく聞こえる叫び声、それは看守の怒鳴り声と痛みつけられ殺される被収容者の断末魔であり、銃声には誰も気づかない。聞こえていない。

それらの音が聞こえ、遠景の煙突から絶え間なく吐き出される黒煙と臭気に耐えられない者がいた。遊びに来たヘートヴィヒの母親である。母親は突然逃げるように帰ってしまう。怒り狂うヘートヴィヒは、ヘスの性欲の吐口と暗示される下働きの女性に言い放つ。「あんたなど燃やして灰にできる」と。同じ頃、ヘスに出世が約束された転属の話が出て、妻に告げるが「こんなに恵まれた場所はない。子どもたちも健康に育っている。私は行かない」。天塩にかけて綺麗に整備した庭(もちろんユダヤ人やポーランド人の庭師らが)を手放したくないし、被収容者の持ち物であったすばらしい毛皮のコートなどが手に入る生活を手放したくないからだ。

映画の合間、合間に印象的なシーンが流れる。地元民と思しき少女が夜陰に紛れて、収容所の畑にりんごを撒きに行くのだ。そのシーンだけ暗視カメラで映されるが、実際、被収容者を援助しようとした地元民はいたらしい。また、ラスト近く、現代の世界遺産「アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所」の日常が突然現れる。夥しい数の遺棄された靴や持ち物。その展示スペースを淡々と掃除するスタッフ。彼らの「関心」事は部屋の清掃そのものであるが、その姿は私たちに突きつける。現在続いているウクライナ、ガザ、スーダンやミャンマーなどの殺戮はあなたの「関心領域」であるのかと。

「怖い」は何も物理的、直接的暴力を見聞することではない。いや、それ自体が「怖い」のではない。その実態に無関心でいられるその心性が「怖い」のだ。そして、それに慣れ続けることがもっと、もっと「怖い」のだ。(「関心領域」2023 アメリカ・イギリス・ポーランド映画)

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