kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

憲法施行60周年記念シンポジウム「イラクから見た日本」

2007-10-13 | Weblog
綿井健陽さんは「Little Birds」(http://blog.goo.ne.jp/kenro5/e/85fb450efc01cd577db48bc8bb005b41)が大阪で公開された際、劇場挨拶にちょうど見えられていてその時もお話を聞いたことがある。現場に則し、予断や放言を排するその姿勢にジャーナリストとしての姿を見た思いがした。
本集会で綿井さんは言う。ミャンマー(ビルマ)で政府軍兵士に射殺された長井健司さんの友人でもあったそうで「(イラクやミャンマーといった海外の紛争地域で)殺されれば追悼の対象となり、拘束されれば「自己責任」の嵐。こんな(二分法は)おかしいのではないか」と。
綿井さんはその冷静なものいいで、時にはおかしくイラクでの自衛隊の活動の実際もビデオを交えて紹介された。宿営地から一歩も出ない自衛隊員がほとんどであったこと、サマワのイラク市民は最後まで軍隊の後に日本企業がやってくると思っていたことなど。自衛隊が「撤退」したあと、ろくな後片づけや指導、管理もせずに給水や電気などのインフラ整備には結局役立たなかったことを。
自衛隊の何倍もの給水力をヨーロッパのNGOが成し遂げ、費用も割安、現地に派遣していた職員はたった1名。3ヶ月ごとに数百名規模でイラクに送り込んだ自衛隊はサマワ市民の役にたったのか? イラクから帰還した自衛隊員のうちすでに6名が自殺していることを聞くにつけ、アメリカのためにだけ派兵し、派兵のための派兵ありきという小泉前首相のかけ声だけがむなしく響いた戦後初めての武装した海外派兵。イラク戦争への給油問題が遡上にのる現在、どこまでアメリカの言いなり(日米同盟ではなく、米の一部としての日本軍)を続ければ気が済むのか。
日本が在日米軍のために拠出している国家予算はおよそ6500億円。自衛隊独自のシーリング枠もあるが、日米共同演習などに使われる予算が自衛隊枠で計算されていることを考えると実際はもっと多くのオカネが米軍のために使われていることになる。
綿井さんの仕事はそのような自衛隊の実際をジャーナリストとして伝えることであるが、大手メディアは政府論調にすりより、フリージャーナリストには受難の時代だと訴える。そうマスメディアのそれこそ小泉的にわっといく論調は光母子殺人事件広島高裁差戻審報道に如実に現れている。
奇しくも綿井さんが現在追いかけている最大の課題はこの光事件審をめぐる報道である(『創』 09年9/10月号、11月号)。
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風俗画/通俗画の読み方 『子供とカップルの美術史』(森 洋子 著 NHKブックス)

2005-05-23 | Weblog
筆者はブリューゲル/北方ルネサンス研究の第一人者。が、本書ではゴヤの子供の描き方にもスポットをあて、標題のごとく「子供」「カップル(夫婦も含む)」「親子」の描かれ方を中世から18世紀まで俯瞰してみせた。実は、北方ルネサンスからバロック、ロココ、新古典主義に至る西洋絵画にはキリスト教美術にこそ惹かれ、風俗画、通俗画にはそれほど興味をそそられないでいた。しかし、本書で自分のその浅はかさが露になってしまった。風俗画といえども、いや、そうであるからこそ、その時代を支配していた道徳心や価値観と無縁なわけがないのは当たり前。子供はこうあるべき、その子供を育てる大人はこうああるべき。反対にこうあってほしい、実際はこうではない、と。
筆者によれば、近世初期ヨーロッパ美術において子供が「発見」されたのは乳母から母乳保育へ、体罰教育への反省と無縁ではないという。あるいは、ルネッサンス美術で描かれる遊ぶ子供(同時に遊びを大人の仕事から模している「働く」子供)、17世紀オランダ美術に見る家庭生活における子供への道徳心の涵養。そして18世紀美術における教育の場に出現する子供とそれをとりまく大人への戒めなど。
どの時代もその当時の価値観すなわち宗教観、世界観と密接に関連した表象ではある。それらは本質的にキリスト教的価値観を内包していたとしても、親が子供を見る眼と、知識人が社会風俗や家庭を見る眼はそれほどずれなく、後世の人間が納得できる倫理意識と時代的「常識」を体現しているのだという指摘は説得力がある。
イスラムと違い一夫一婦制に厳格なキリスト教は、婚姻外恋愛に厳しいとともに(あるいは階級をまたげば寛容?)、マリア信仰故か堕落したカップル性(お金目当て、あるいは欲情の対象のみの不釣り合いなカップル=老婆と青年、老人と乙女など)にとても厳しい。が、実態としてこのような組み合わせがあったから道徳者は嘆いたのであろう。そしてそれを視覚化し、現世と後世の人間にそれを伝えたかったのではあるまいか。
筆者の説得力ある客観的証明、専門的知見に触れるために豊富な図版が採用されているが、如何せん、モノクロで小さい。ヨーロッパの数ある美術館の中で有名な宗教画などに埋もれてしまいがちなこれらの作品に、改めてスポットを当てる意味でも図版はカラーでもっと大きい方がよい。が、美術図書にありがちな大判、多色刷り満載の本書なら本文は真面目に読まないかもしれない。
貧しいが労働が身近にあり、働くことと距離のなかった子供の方が、絵画で表現された世界とはいえ近代以降の子供の姿(=遊びと労働の分離)より豊かに見えるのは筆者や私だけではないはずだ。
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「王道」の恋愛ドラマ  バンジージャンプする

2005-05-22 | Weblog
JSAの後イ・ビョンホンが選んだ作品として、なるほどな、という部分と?という部分とがある。それくらい評価の難しい作品だ。これはセクシュアル・マイノリティ作品ではまずないだろう。じゃあ、単純に「輪廻転生」物語か? あるいは「純粋な《思い》の」物語(竹中直人)か。
かっこ良いピョンホンがぶきっちょさを器用に演じているのが好感だが、物語の流れが王道過ぎてつまらない。雨の日の出会い、駅で待っても現れない愛しい人、二人手を取り登った山、そして交通事故。卵が先か鶏が先かではないけれど、どれも最近の韓流ドラマの小道具で、どの「純愛」作品にもどれか出て来る。恋する若者の群像とはどれも変わらないのかもしれないし、韓国ではこのような小道具が好まれるのかもしれない。ただ、ピョンホン演ずるインウが駅で待っていたのは、兵役に行くから。そして、イ・ウンジュ演ずるテヒが突然インウを激しく拒絶するのも彼が兵役に行くことを告げたからと解すれば、韓国の徴兵制が若者の恋愛を中途で遮断する大きな壁となっていることに日本の観客はもっと敏感になってもいいかもしれない。
儒教社会の韓国で同性愛はもちろん御法度、同時に仏教信仰もある同国で「輪廻」の「転生」もまた韓国人の死生観の一般的範疇なら、この作品は上述した韓国人の恋愛メンタリティとともにあまりにスタンダードな構成とも言える。そして導入部分とエンディングで用いられるニュージーランド(バンジージャンプの国)の切り立った渓谷の美しさは、恋に例えていたとしても、人生に例えていたとしても見抜きやすすぎる。
いずれにしてもピョンホンの魅力映画と簡単に切り捨てるほどすっきりした作品でもない。微妙なのだ。今年亡くなったイ・ウンジュの演技が「永遠の片想い」でもそうだったが、瞳以上のものをこれからもっと出してほしかっただけに残念だ。
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社会性と反社会性の意外な近接  カナリア

2005-05-22 | Weblog
塩田明彦の「監督ノート」にサティアンから出てきた子どもたちの瞳にポルポト派の少年兵士のそれをなぞらえているのを見て、やはりそうかと思った。文化大革命の実験を現実化しようとした壮大な破滅的企て、それが76年から79年までカンプチアでなされたクメール・ルージュ=ポルポト派のなしたことだった。そして、ポルポト派が重視した教育政策(あれが教育であったか、政策であったかはさて措くとしても)の柱は、子どもを親から引き離し、子どもが「主体的に」親の世代を断罪する力を持つことにあった。何がしかのブルジョアジーに染まった大人より何ものにも染まっていない子どもこそ「民主」カンプチアを支える豊富な人材であったからだ。このような極端な集団主義、空想主義が瓦解したのは言うまでもないが、あの時ポルポト派の兵士であった子どももその後の内戦、新カンプチア建国の中でより現実社会に順応し、もうオンカー(党)の子どもではないだろう。しかし、現在の社会が子どもを私有財産化しすぎる中で ー 一人っ子政策の中国も、塾とゲームに子育て?を全て預ける日本も、モノのごとく暴力をふるい時に死に至らしめるアメリカも ー 子どもの私有財産化を否定したポルポト派の理想主義は、人権という概念からは逸脱するけれど何かしら新鮮な感じがする。
振り返ってみるとカナリアの子どもたち。光一は母親の入信に引きずられニルヴァーナ(オウム真理教を模していることは言うまでもない)で生活、「社会性」をつけず成長したならば、光一を引っ張る由希は母を亡くした後父親から暴力を振るわれ、援助交際で小遣いを稼ぐ恐ろしく「社会性」に長けた存在。彼・彼女をこうしたのは大人の身勝手、無責任というのはた易いが、彼らにとって過酷であるのはお金がないことではない、食べるものがないことでもない、信頼できる人間がそばにいないことでもない。彼らが自分の道を自分で選べなかったことなのだ。
ところがニルヴァーナで活動していた大人たちも自分で自分の道を選んだ結果そうなったのか?いや、自分で自分の道を選ぶことのできる人間などそう多くはないのかもしれない。そうであっても「死」より「生」に価値があると思える間は、変わりゆく存在としての人間に塩田監督が可能性を託したのは、実は外の世界を一切拒否するかのような光一の射抜くような眼差しだったのかもしれない。
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憲法論議の不在と喧しさ  『論座』6月号

2005-05-11 | Weblog
憲法「改正」をめぐって自民党が新憲法試案要綱を発表(4月4日)、国会では憲法調査会が報告書を提出した(4月15日、衆議院)。自民党の要綱提出にいたった議論を見る限り、立憲主義への理解や国家の基本法たる憲法への本源的な理解が欠けているという指摘はあながち否定できない。
そもそも「改憲」か「護憲」かというからには憲法とは何なのかをわかっておく必要はあるだろう。立憲主義の本旨は、国家権力が市民(国民)に対してその圧倒的な力=支配力を背景にふるう社会的、政治的、経済的そして具体的な暴力を抑制するための民が国家に対して枷をはめた権力抑制の基盤である。先の衆議院福岡県補選で国会議員に返り咲いた山崎某が昔発言した「現行憲法には権利ばかり書いてあって義務が書いていない」というのは、この基本原則を理解できていない阿呆である。
『論座』は滅多に買わないが、本号はこの憲法特集で、『〈民主〉と〈愛国〉』の著者小熊英二が発言しているので手に取った。小熊は言う。「冷戦期と高度経済成長期に形成された『日本という国のあり方』が限界にきた、という認識が一般に広く共有され、新しいナショナル・アイデンティティーを築かなければならないという気分が高まっている。その新しいナショナル・アイデンティティー探しを改憲論議という形でやっている」と。
鬱屈した現状に壮大な打開策を求めるのは個人的にはあり得るし、それの失敗や成功のもとで人間は一定成長していくのだろうが、憲法は別である。
憲法だろうが、皇室だろうが民主主義社会のなかで論議するのは肯定されてよいし、むしろタブーをもうけない方がいいだろう。しかし、論議と言うからには床屋政談で終わってはならないし、ましてや政権与党が国会の場で思いつきの言いっぱなしではダメだろう。
小熊の論考の題は「改憲という名の『自分探し』」。自分探しは個人でなし、近しい人にわかってもらおうというプロセス自体に解放や転機が生じる可能性を内包する。憲法という国家のあり方の基本にかかわること、そして、それが私たちの未来の生活に少なからず影響があることについて思いつきの「自分探し」は止めてほしい。
これはブログなども縛りかねない表現・言論の自由にとってとてつもなく危険な「憲法改正国民投票法案(自民党)」以前の問題である。
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