kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

歓喜の第九に歴史的背景をも超越する歓喜 第九(フロイデ合唱団)

2009-12-17 | 舞台
愛読書に「ZERO ゼロ」というマンガがある。この世の中にあるものは一目見ただけですべて再現するというスーパー人間で、古今東西のあらゆる事績に通じ、いくつもの言語を解し、各国に美術制作のための別邸を持つという知のウルトラマンである。ゴルゴ13の時のようにそんなある意味怪しい人間がなぜどこにでも入国できるのだ?という突っ込みはさておき、いつの時代の美術作品でも制作者になりきり、完成させてしまう。その過程で制作者の人生が浮き彫りにされる蘊蓄エンタテイメントにはまっている。実は、このブログで美術関係のものを書くときネタを少しパクらせてもらったりしている。専門書を読む能力のない筆者のようなブロガーのいわば虎の巻である。
その「ZERO ゼロ」に公演の直前に突然耳の聞こえなくなった天才ピアニストがゼロにベートーヴェンのピアノ(ブロードウッド社の伝説のピアノという)をつくってもらい、耳が聞こえないままコンサートを成功させるという話がある。ベートーヴェンは1802年すでに難聴が進行しており、絶望の淵に立たされ遺書をしたためたという。ところが、その2年後「英雄」を書き上げ、さらに完全に聴力を失ってからもいくつもの曲を書き上げ、24年ついにこの交響曲第9番を発表する。すなわち日本人の大好きな第九はベートーヴェンがすでに完全に耳が聞こえない状態で作曲したというのである。
くだんの「ZERO ゼロ」では、べートーヴェンが音を耳で聞いていたのではなく、指先でその響きを感じていたため作曲できたのだという筋立てになっている。「ZERO ゼロ」はマンガとは言え、美術を中心に最新の学術書(時にはトンデモ本もあろう)をベースに創作されているらしく、ベートーヴェンが聴力を失った後も作曲できたのは細かな説明はともかく耳以外に音を感じる力があったというのは否定できないであろう。
第九の発想はベートーヴェンが20代の頃シラーの詞『歓喜に寄す』にいたく感動し、曲をつけようと思い立ったからとされるが、完成までに30年以上もかかっていることになる。もちろん作曲し始めたのが1815年からであるそうで、聾の中で、作曲したことになる。それでもあれほどの完成度を現出させることができるのか。
今回数年ぶりに生の第九に触れたのは筆者の同僚が合唱団として参加しているからである。合唱練習に毎週(かな?)励む同僚をはじめ100人を越える合唱は圧倒である。そこまで合唱を好む、志す者にとって、いやそれをわざわざ聞きに行く者にとって「第九」は限りなく親しみやすく好もしい作品であるらしい。なにせ「歓喜」であるのであるから。
同僚が参加していたのは大阪のフロイデ合唱団であるらしいのだが、昨年古い友だちが兵庫県にあるフロイデ合唱団に参加しているので聞きに来てというので行った覚えがある。それほど素人合唱団が盛んな理由には何かあるに違いない。大きく歌うのが気持ちがいいし、音を体で感じ、表現するのもおそらく心地よいだろう。なによりも、フランス革命でハプスブルグ家出身のマリー・アントワネット処刑後ウィーンをめぐる状況は厳しさを増し、ベートーヴェンならずとも文化保持の困難さを感じたに違いない。その中にあって、自己のおかれた状況と社会状況に一縷の光を見いだしたベートーヴェンの前向きな創作意欲に、それら背景を考えない第九好きの多くの日本人に、ベートーヴェン没後100年ほどでファシズムに走ったドイツにいち早く同盟化した日本(人)の姿を重ね見るのは強引であろうか。
何はともあれ歓喜に成功した同僚をはじめとする出演者にグリュースゴット!
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オリエンタリズムに日本人バレエ団の回答     東京バレエ団 「ラ・バヤデール」 

2009-10-05 | 舞台
「ラ・バヤデール」という演目は、オリエンタルであるけれど、その国籍性に違和感もあり、オリエンタリズムが強く出ると余計に距離を感じてしまい、あまり積極的に見たいと思うものではなかった。であるから、今回久しぶりに見に行ったのは、実は演目ではなく、上野水香目当てであった。
ある意味、上野水香のニキヤ役は合っていると思う。というのは、実は、「ラ・バヤデール」を観るのは3回目なのだが、初めて観たベルリン国立バレエ団の公演は遅刻したこともあり、ストーリーをきちんと予習していなかったため、スケールに圧倒されたけれどもバレエの良さを感じるまでには至らなかった(というか、筆者がバレエの面白さに触れるにまだまだ至らなかった)。その時にはニキヤを演じるダンサーの細かいところまで気が回らなかった。
「ラ・バヤデール」とは不思議な演目である。インドが舞台だが、西洋のオリエンタリズム観(マネが「オダリスク」で固定化させ、サイードが喝破した「オリエンタリズム」要素ももちろんある。)がこれでもかと現出するからだ。西洋のオリエタンリズム観には、未視の世界への憧れももちろんあるが、その圧倒的な無知故の蔑視とそれを前提にした決めつけを見逃すわけにはいかない。それが現代、バレエの世界に直接反映しているとも思わない。しかし、「ラ・バヤデール」というアジア、あるいはイスラム世界を題材にした作品ではおのずとそのアジア観、イスラム観が見て取れるし、それが実際のアジア像、イスラム社会を映しているものなら異を唱えるまでもないが、19世紀、いや、現在も生きながらえているオリエンタリズムを反映しているものであるからだ。
東京バレエ団の本公演のよいところは、ダンサーが皆日本人であるため、ムリにオリエンタリズムさを出さなくて済んだこと。ヨーロッパの著名バレエ団が「ラ・バヤデール」やその他の演目を演じるとき(「くるみ割り人形」などもそう)、そこには妙にオリエンタルな装いをまとおうとし、アジアの人間から見ればそれはないだろう、という突っ込みも入れたくなるほどの西アジアから東アジアまで玉石混交ぶりである。西アジアのイスラム世界、ヒンズーの南アジアと仏教系の東アジアは、アジアの民からすればそれらは全く別物である。しかし、オリエンタリズム観に支配された西洋人にはそこはささいな違いと思えたのかもしれない。傲慢さも内包しつつ。
上野水香のニキヤが合っていると先述したが、それは上野は10頭身かとまみえるほど小顔で、日本人ばなれした手足の長さを誇っている(世代上の吉田都は西洋人に比して腕の短さに苦労したという)からとは相反しそうだ。しかし、上野の表情はアジアの人そのものである。そして日本人ダンサーの中では小柄な方ではないが、西洋人からすれば華奢そのものである。それが、「ラ・バヤデール」で登場すると肢体の西洋人性と併せて奥深い魅力を醸し出す。脂が乗っている時期と言われる上野は、その鋭いポワントも表現力も観者の期待を裏切らない迫力に満ちている。
上野のことばかり書いたが、上野は今回このニキヤ役は初めてであるそうで、とても好もしく見て取れた。若いダンサーの多い東京バレエ団は、ますます勢いを増し、さびれることのない活力を見せつけた。ブロンズ像を演じた松下裕次の切れ、ソロルの高岸直樹もベテランを感じさせないはつらつさと思う。そしてあえて苦言。コール・ド・バレエこそ、「ラ・バヤデール」の醍醐味の一つだと思うが(長野由紀『バレエの見方』)、せっかく西洋人やバレエ団にはない体格の統一性があるのに、少しずれた。
ダンス・カンパニーの純血主義とからんで美しさとは何かを選ぶ視点の違いを自覚する苦い選択である。
 










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引退する草刈に拍手     レニングラード国立バレエ団「ジゼル」

2009-01-31 | 舞台
バレエのいいところは映画やテレビドラマなどの映像表現と違って、演じる人の年齢が登場人物の年齢に制約されないことである。舞台芸術というのはそういうものであるが、皮肉なことに舞台の感動をより感じたいと舞台近くに陣取れば、演じる人の容姿がより間近に感じ取られ、実年齢との差を感じ取ってしまうことになる。
本ツアー公演でクラシックバレエからの引退を宣言した草刈民代は、村娘ジゼルを演じるのには映画的に言えば年を取りすぎているが、そんなことは問題ではない(60歳を越えた森下洋子さんは現役である)。草刈はレニングラード国立バレエ団とは10年来の付き合いがあり、「白鳥の湖」でオデット/オディールを演じてきた。そして、今回のジゼルである。
バレエにはそれほど造詣がないが、ジゼルは登場人物も少なく、比較的分かりやすいので(要するに単純明快)、踊る人の容姿、技量を確かめやすい作品と思っていた。男性ダンサーのアルベルトも含め激しい舞いもなく、穏やかにたおやかに。だが、クラシックバレエを引退する草刈に技術的に演じやすいからという含みがあったとすれば(ないと思うが)、クラシックの有名作品のなかでは的確な選択である。
全盛期の草刈を知らないので大きなことは言えないが、跳躍力が少し弱いように思ったが、小柄な人が多い日本人バレリーナの中で西洋人とひけをとらない身長もある草刈は村娘ジゼルはよく似合う。
ところで草刈はレニングラード国立バレエ団への客演はすこぶる多く、ジゼル以外にも「レ・シルフィード」や「海賊」「白鳥の湖」などたいていの演目をこなしており、プロたるもの与えられた演目はどれも完璧にこなしてきた草刈の矜持(どこぞの首相が「矜持」を使いまくっていたがもちろん使用法の誤り)がまみえる。草刈と違い西洋人に比べて小柄で腕も短い吉田都は英国ロイヤルバレエ団のトップを守ってきたが、その吉田がインタビューで「踊るたび、後で、あそこは十分でなかった。今度はもっとよく踊ろうと思う」と語っていたのが思い出される。
それくらいプロというのは極めるべき頂点がない(到達しない)ものらしい。今回クラシックを引退する草刈とて同じだろう。草刈の公演は春まで続くが、その後の活躍を期待したい。
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クラシックの王道にして簡明 バーミンガム・ロイヤル・バレエ団コッペリア

2008-01-14 | 舞台
やっぱりオーソドックスな古典はいい。とても高く舞い上がる大技も、何回転も跳ね回る華麗さもないが、ひらひらとロマンチック・チュチュが舞う姿はとても美しい。そしてうれしい。
そしてコッペリアはストーリーがあまりにも分かりやすい。ただ、クラシック・バレエのストーリーは他愛ないものが多いのだが。古典作品もどんどん舞台が大がかりになるなかで、「白鳥の湖」はもちろん、「ラ・バヤデール」なども、幕間の20分でよく入れ替えられるものだなと感心するくらい大がかりなものもある。しかし今回は比較的シンプルであるし、人形も作り手であるコッペリウスも親しみが持てる。
バーミンガム・ロイヤル・バレエ団と言えばあのロイヤル・バレエ団の姉妹カンパニー。吉田都も所属したことがあり、今回も佐久間奈緒が人形に心奪われる彼を取り戻そうとする健気なスワルニダ演じた。コッペリアはそもそもコミカルな作品であるので、そのコミカルさをコッペリウスとスワルニダがどれだけ演じきれるかにもかかっているそうである。特に変な能力を持ったコッペリウス博士は数々の名優が演じてきた。そして特異なキャラが幸いして様々な演じ方も追求されてきた。熊川哲也は危ないというかちょっとオタクっぽいキャラであったし、本作のマイケル・オヘアはキャラクテールのベテランで「くるみ割り人形」のドロッセルマイヤーも有名。ファンキーな動きは絶品である。
ところでコッペリアを作曲したレオ・ドリーブという人はオペレッタをいくつも作っていたものの大ヒットを飛ばすとまではいかなかったようだ。ただ、形式主義を重んじるオペラにくらべ軽いノリのオペレッタにおいても、オペラを書いている時のように手を抜かなかったそう。それがやっと開花したのがオペラ座の支配人に気に入られ1870年初演のコッペリアを書いたという次第。もちろんコッペリアのストーリーはホフマン原著で、後にというか、反対にオペラ化されることになる。つまりより貴族趣味、高尚とされるオペラがより庶民の娯楽であるバレエに後れをとったという形。もちろんバレエもイタリアからフランスに広がった当時は王族、貴族の趣味であったのが市民階級が芸術を普通に愛する時代、印象派が闊歩した時代でもある、には庶民芸術の一角を占めていたということであろう。
白鳥やジゼルなどに対してハッピーエンドのコッペリアはストーリーを吟味する必要性の軽さという点で初心者向きと言える。人形が魂を持ち、その作り手さえにも影響を与えるというのはピノキオにも通じる怖さがあるが。
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まさに「進化する伝説」 シルヴィ・ギエム

2007-12-23 | 舞台
上野水香というダンサーはおそろしく小顔なので小柄なイメージを勝手に持っていた。しかし初めて見た躯体はロシアやドイツのダンサーほど大柄ではないが、日本人の中で小柄というわけではないし、180度以上開く足といい、男性ダンサーの腕を掴まえそこなうほど長い手を見ていると小顔のと全く正反対に大きな出で立ち、を感じた。東京バレエ団所属の上野が今回プリンシパルを演じたのはカルメン。美貌かつ妖艶な姿態に男たちが惑わされ、そして嫉妬にかられた男に刺され命を落とす筋書きはあまりにも有名。その妖艶なカルメンを水野が演じ、見る前は意外な気もしたが水野のあの長い体躯は男を惑わせるに十分な色香を放っていたように感じた。
しかし今回の公演の観客のお目当てはもちろんシルヴィ・ギエムである。水野よりはるかに長い間トップダンサーとして君臨するギエム見たさというのが筆者の眼目でもあったからだ。演目は古典作品からは「椿姫」の一幕より(パ・ド・ドゥ。もちろんノイマイヤーの振り付けであるので「現代的解釈」が施されているそうである。)、コンテンポラリーがマリファント振り付けによるソロの「Two」とマリファントと踊った「Push」。まだまだバレエ・ダンスに疎い自分としてはコンテンポラリーはよいと思えるときとそうでない時がある。今回も二人で踊った、というか、ギエムがいわゆるリフトでなく、盛んにマリファントに乗っかる不思議な振り付けだ、「Push」より、ギエムがほとんど腕と上半身だけで表現する「Two」のほうがよかった。ダンサーは結局筋肉の塊であるというのが「Two」でよく感じられた。両腕を差し出し、回し、引くギエムの肉体は腕だけで踊っているのではない背中や肩、腰の筋肉が緊張し、うねっているのが見える。無駄な動きがないというのは、こういうことなのだろう。そしてそれができるのは鍛え上げられた肉体と通常の人以上に長く、自在に動けるギエムの両腕によるものにほかならない。
あの肉体と表現力を維持するためにどれほどの訓練とレッスンを重ねてきたであろうか素人にはおよそ測りしれないが、少なくともこれは言えるだろう。ギエムの古典作品をもっと見たくなるということを。それが完璧なダンサーであるギエムへの信望の証であることを。
東京バレエ団の全国縦断公演ということでプログラムには、群舞のファンキーな作品「シンフォニー・イン・D」もあった。シンクロナイズドスイミングを陸の上でしたならおそらくこうだろうというとても楽しい作品。若いダンサーたちも挨拶の時肩で息をしていた。躍動感とチームワークのコラボに喝采。
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名門の安定度 ボリショイのラ・バヤデール

2006-05-14 | 舞台
ラ・バヤデールは2回目である。前回は初めて行ったびわ湖ホールでのベルリン国立バレエ団。戦士ソロル役はもちろん貴公子マラーホフである。実はこの時、京都をバスで移動中とても時間がかかってしまい開演に間に合わず、1幕目はモニターで見るというとても残念な思いをしたのだ。今回はそのようなことなく最初から堪能できた。今回初めてフロア席ではなくて階上席(と言っても1階のフロアに続くS席)から鑑賞したがなかなか良いものだ。ダンスを少し上から見下ろせる上、舞台全体を見渡せて、それでいて舞台から遠すぎることもない。ただ、側面故反対の袖から次の出演者がちらちら見えることと、こちら側の袖付近の演技は見にくいのが難点。けれど、フロア席ばかりではわからなかった発見があった気がした。
2月に怪我をしたアンドレイ・ウヴァーロフに代わってソロル役はウラジミール・ネポロジーニー。さすがにマラーホフほどの跳躍の高さはないが雰囲気は十分。ニキヤ役はボリショイが誇る超ベテラン、ナデジダ・グラチョーワ。西洋人にしてはあまり高い身長ではないグラチョーワは艶やかなガムザッティ(エカテリーナ・シプリナ)との対比で、階級も低いバヤデール(踊り子)役としてちょうどよいし、一つ一つの演技 例えば一瞬立ち止まるポアントにしても、美しい。しかし、この作品はおそらくソロルとニキヤのグラン・パ・ド・ドゥやソロルとガムザッティのそれだけが見所ではない。グラチョーワのフェッテももちろん手練の技だ。が、団員200数十名を抱えるボリショイであるからこそ魅せ得た群舞。そう、むしろ、最大32名も登場するコール・ド・バレエが見物だ。
3幕目のニキヤを失ったソロルが麻薬のせいで(本演ではそれがあまりわからないような演出のようだったが)夢の中、ニキヤやその他の踊り子たちに囲まれるシーン。ゆったりと舞い降りて来るコール・ド・バレエを舞うダンサーたちのじれったさ、可憐さといったらない。どこか舞うボレロという感じの終わりのないうれしいじれったさは鍛え抜かれた群舞のなせる技。あのシーンは大好きだ。
ただ、日本公演をいくつも重ねてきての終盤であるからか、ダンサーたちは幾分疲れているように感じたのだが。ラ・バヤデールが神の怒りとともに神殿が崩れ落ちる本来の演出が定着してずいぶんなるそうな。崩れ落ちる様の豪華さとそこに倒れるソロルの化身は、マラーホフの方がよかったようにも思うが、これはその時々の舞台装置等にもよるものだろう。
バレエといえば単純な悲恋物語。でも多分また行ってしまう魅力がそこにはある。
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本家本元の魅力 レニングラード国立バレエ団「白鳥の湖」

2006-01-29 | 舞台
「白鳥の湖」は久しぶりに見た。今回は昨年10月に開館したばかりの兵庫県立芸術文化センターでしかも、前から2列目がとれた。やっぱりバレエは舞台のそばで見るのがいい。レニングラード国立バレエ団の長期日本公演のたった2日の関西での公演の1日目。もちろん振り付けはプティパ/イワノフ版である。
 あまりにも有名かつ幾度となく上演されているので筋立てはともかく、本作はやはりコール・ド・バレエの美しさが大きな魅力の一つだろう。それも昨年シュトゥットガルトバレエ団の公演と比べて感じたのだが、歴史の古いロシアのバレエ団であるからか団員も多かろうし、身長がそろっているのだ。もちろん日本人のそれより全体的に大柄ではあるだろうが、西洋のバレエ団はわりとコール・ド・バレエでも身長が不揃いで、そもそもその体格故もあって、時としてバラバラに見える。が、レニングラード国立バレエ団のそれはぴたっと揃って見えたのだ。そして、織りなす群舞も大きい白鳥、小さい白鳥と組み分けられ、実に優美そして形式美にあふれている。
 ジークリフト王子を演じたのはもちろん美形のドミトリー・シャドルーヒン、オデットおよびオディールは貫禄十分のオクサーナ・シェスタコワ。シャドルーヒンはこれはも北欧系の端正な容姿で王子役をするために生まれてきたような雰囲気を醸し出しているなら、シェスタコワは同団のほとんどの主要作品(「眠りの森の美女」のオーロラ姫、「ドン・キホーテ」の森の女王、「ラ・シルフィード」のシルフィードなど)の主役を張っているだけあってその表情、演技力は申し分ないし、シャドルーヒンよりずいぶん年上に見えるほど落ち着いている。そして、世界で一番有名、上演回数もおそらくトップの落ち着いた本作ではリフトがあまり見られないのがかえってよい。前述のシュトゥットガルトバレエ団の「ロミオとジュリエット」では情熱的な若い悲恋物語とはいえ(バレエは全部そうだって? かも)、少しリフトが過剰だと思えたからだ。たしかに派手なリフトの連発は時に嘆息もするが、コール・ド・バレエが魅力の「白鳥の湖」ではあまり大仰なリフトはパ・ド・ドゥでも似合わない気がするからだ。
 そして、本作で一番好きなのは第2幕、4羽の白鳥が手を携えて踊るパ・ド・カトル。頭と足しか動かせないのに、見事にそろった方向性、足さばきにはいつも驚嘆する。「白鳥の湖」をCDで聞いているといつもこの2幕目の軽快な旋律が楽しみで、あのクラシック・チュチュから出た8本の足が自在に動き回る様が目に浮かぶようでとても楽しい。脚線美とはこのパ・ド・カトルのためにある言葉のようにも思える。
 堪能した本公演であるが、基本的なのであろう4幕構成が、2幕目と3幕目が合体、4幕目の王子がオデットのために自死、悪魔のロットバルトも滅ぼされる3幕目として少し短い気がしたが、いろんな演出があるのであろう。これからの観察課題だ。
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熊哲はカッコイイ!「くるみ割り人形」

2005-12-11 | 舞台
熊川哲也のダンスを初めて見た。彼が主催するKバレエカンパニーの公演だ。英国ロイヤル・バレエ団にいた熊哲は、押しも押されもせぬ日本のトップダンサーだが、西洋人に比べて小柄な彼のダンスがこれほど大胆かつ大きく見えるとは。高い跳躍力、指先まで美しい伸びきったラインにうっとりする追っかけ女性たちの気持ちもわかろうというもの(もちろんイケメンだからだが)。ダンサーとして超一流なら、主催するカンパニーの振り付けも見物。
チャイコフスキーの3大作品の最後、作家が亡くなる前年1892年にマリンスキー劇場で初演された「くるみ割り人形」は、もちろんホフマンの怪奇小説『くるみ割り人形とねずみの王様』を原作とする。少女クララがドロッセルマイヤーおじさんからくるみ割り人形をもらい、人形に加勢してねずみに打ち勝つお話だが、バレエの台本としては数々の演出が用意されたそうだ。怪奇性、神秘性を強調したもの(マリンスキー劇場、1929年、ロプホーフ版)、人形王子よりドロッセルマイヤーに重きをおいた作品であるとか(バーミンガム・ロイヤル・バレエ、1990年、ライト版)であるとか。熊哲の演出は、ホフマンの原作に忠実に従いつつ、舞踊とそれをささえる舞台仕掛け(美術)に大きな力を注いだ(お金も)ことであるという(「バレエ「くるみ割り人形」の誕生と新演出の歴史」村山久美子)。そう、多彩な舞台仕掛けに目を奪われるとともに、それに合わせた複雑かつ豪奢なダンスにため息が出た。まあ、クララが見る諸国漫遊の踊りの数々(東洋趣味(インドと中国)、ロシアコサック、英国のソーシャルダンス)はお決まりだが、それぞれが高い技量と表現力を兼ね備えている。パ・ド・ドゥも、パ・ド・カトレもコール・ド・バレエも。
そして熊哲のソロとパ・ド・ドゥ。次の演技が始まるときの一瞬の溜め、そして一気に舞う呼吸の妙が熊哲の魅力なら、冒頭にも記したが日本人であることを忘れさせさる大きさ。そしてまるで精密機械で測ったかのようにすくりと伸びる腕と手のひら。
ダンサーとしても芸術監督としても油が乗り切っている熊哲が関西に来た時はまた見に行こう(でもいい席が取りにくいのが難題)。
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コール・ド・バレエの美しさ  兵庫県立芸術文化センターオープニング

2005-11-13 | 舞台
阪急西宮北口駅界隈は再開発ラッシュ。阪神淡路大震災で滅茶苦茶になった市場を取り壊し、大きなショッピングセンターが北側にでき、南側は旧い中層住宅を全部取り壊しこの芸術文化センターができた。あそこに住んでいた人はよりよい住環境へこ引っ越せただろうか。
センターは10月にでき、主にクラッシックのコンサートが多いようだが、バレエもできる立派な大ホールだ。そのオープニング・バレエに選ばれたのがメインをニジンスキー版の「春の祭典」、1部に「白鳥の湖」第2幕、2部に「眠れる森の美女」の第3幕より「グラン・パ・ド・ドゥ」などという贅沢さ。「白鳥の湖」でも「ロミオとジュリエット」でもプリンパルをつとめたヤンヤン・タンは中国出身ということもあり、ロシアやドイツ系のものすごく上背のある姿ではなく日本人にとっては見やすいのではないか。それに何度も繰り返されるリフトをこなす相手方の苦労を思えばあまりにも大きなプリマドンナは大変そうだ。
主役たちももちろんよかったのだが、美しかったのはコール・ド・バレエ。欧米のコール・ド・バレエは一流のバレエ団でも体格がまちまちな上、結構不揃いだと聞いたことがある。それが、日本のダンサーばかりということもあり身長も変わらず、20人以上の群舞がぴたりと揃う。なんて美しい。これじゃ、北朝鮮のマスゲームを笑えないなというのは冗談だが、あれだけ一人として外さないのには相当な訓練が必要で、また、完全に揃うことを目指す日本人の性格も関係あるのかもしれない。
メインの「春の祭典」。ニジンスキーの振付はあまりにもスキャンダラスで長い間上演されなかったと言う。それが、およそ80年後やっと復活されたというから曰くもの。まあ、今日のモダンダンスや舞踏の世界から見れば、別にスキャンダル性を感じないが、これが1913年にバレエとして上演されたとすれば話は別で、その斬新さは驚きだ。古代ギリシアのモチーフから着想を得たとされる衣装も異様なら、ダンサーの動きが常に膝を曲げ、頭を抱え込み、内側へ内側へと要求される様は過酷でもある。西洋近代に挑戦するかのようなエキゾチズムをもってして、当時すぐれた跳躍力を持った現役のニジンスキーがあえて踊らず、バレエとして本作を振付に徹したことに唸らされる。
春の祭典はもちろん、その音楽性も大地から沸き上がるイメージとして有名だが、振付次第で如何ようにも変化をつけることができる、まるで全然違う音楽かと見紛わせる(聞きまがわせる?)魅力はバレエならではのものだ。
個人的には「春の祭典」といえばベルリン・フィルと子どもたちが踊った名作(ベルリンフィルと子どもたち http://blog.goo.ne.jp/kenro5/e/b9dfc79af34438a4fc4d30baba66754b)のイメージが好きであるが、ニジンスキーの提示した西洋主導への挑戦もいい。
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スーパーガラ公演「メダリストたちの競演」 ボーダーを超えて舞う実力者たち

2005-07-18 | 舞台
バレエもストーリーを知ってから鑑賞したほうがいいに決まっているが、本公演のようにすぐれた技術を持った人たちが少しずつ踊るというのも、下勉強が要らなくて楽だ。そして分かりやすくて楽しい。まさにメダリストたちの競演。88年に埼玉全国舞踊コンクールで第1位をとった志賀三佐枝はそれより前に牧阿佐美バレエ団に卒業と同時に入団していることから、もうダンス歴は20年以上になるのではないか。出演者の中でももっとも年配の部類と見えるが、よくもあれだけくるくる回れるものだと感心させられる。
ミュンヘン・バレエ団のプリンシバルをつとめるルシア・ラカッラの細さといったらない。腕も足もまるでカマキリか何か昆虫の様。しかし、ダンスは優雅でダイナミック。草刈民代もちゃんと踊るのを見たことがなかったのだが、相方のレモンド・レベックとの息もぴったり。レベック演じる白鳥が草刈演じるレダに纒いつく様はとてもよかった。
当たり前だが、どのダンサーも相方とのコンビネーションは抜群。ダンスに詳しい友人によると「見ずに手をつなぐのだから大変」だそうだが、それもそのはず。目線を一切合わせずにぴたりと手つなぎ、また放し、そしてもちろん相手を見ずに同じ振りを繰り返す。
すべての出し物が終わったとき、期待していたら全員が舞台に出てきて踊りたくった。ブラボー!
堪能した2時間だった。
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