kenroのミニコミ

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「忘却」とは実は忘れないことだ 横浜トリエンナーレ2014の2

2014-10-15 | 美術
横浜トリエンナーレの第4話は「たった独りで世界と格闘する重労働」。「芸術家は、なぜかいきなり、社会や宇宙と闘いを始める格闘家のことである」そう。あるいは「格闘家は、役に立つ価値観とはあいいれず、しだいに人里から遠ざかっていく。そして、やがて人知れず忘却の海へと旅立っていく」という。(ヨコトリ オフォシャル・ガイドブック)
芸術家が孤独なのはある意味必然で、必須であるとさえ思う。それは芸術家の生み出す発想は、同時代の人に受け入れられず、後世にやっと認められたり、あるいは多くは認められず消えていくことで明らかだ。まさに「忘却の海へと旅立っていく」。しかし、それらの中にあって、「忘却」の対象とならなかった芸術家、作品だけが残り、私たちに改めて「忘却の海」を意識させるものとなっている。
現代彫刻家福岡道雄の「飛ばねばよかった」は、人がバルーンを揺らしているのではなく、床にどしりと居座った!バルーンに操られているヒトが宙に浮く。操るものが操られる発想の転換とともに、こういった大きな作品、それも重量級のそれは「格闘する重労働」を想起させる。かつて筆者は現代美術は大工と根気であると書いたが、その総体を現すのは重労働である。そのなかでも彫刻家の重労働ははんぱではない。福岡のように軽いはずのバルーンを地面に居座るように重い素材で造ることは普通で、旧来の素材であるブロンズや、木材も重い。さらに、現代彫刻はスチールや岩石もよく使用する。スチールや岩石で「社会や宇宙と闘いを始め」ているのである。
第5話「非人称の漂流~Still Moving」は、林剛と中塚裕子の10年間の表現活動をもとに試みられた「創造的アーカイブ」だとする。アーカイブは(記録)資料であって未来を志向する「創造的」とは両立しえないように思える。しかし、今回仮設展示された法廷、テニスコート、監獄というモチーフはある意味終わりがない(法廷は判決を言い渡すだけで、被告人の行く末に責任を取らず、テニスコートは果てしないラリーを想像させ、監獄は「終身刑」(日本には法律上ないが)という終結がない)普遍的なものだ。
ジョゼフ・コーネルのボックスは、ミニチュアワールドとは違う見せることを意識しない完全に閉じた一人ワールドだ。第6話「おそるべき子供たちの独り芝居」では、子どもが自己満足のためだけに創造していた世界を大人になっても造り続けた人たちの「オタク」ワールドが広がる。現代風俗語となった「オタク」と違うのは、競うことを度外視しているあたり。ドイツ人グレゴール・シュナイダーの部屋の中に部屋をつくる作品は、ドイツ故アウシュビッツの閉塞を想起させるが、これはうがちすぎかもしれない。
前回記したように、全話をまわることはかなわず、また第10話で催された福岡アジア美術トリエンナーレは唐突の感じもしたが、森村が「忘却」を実は「忘れるな」というメッセージを反転させた逆説を意図したものではないかとの企みは分からなくもない。そして、芸術とは実は長い歴史の中で膨大な「忘れえない」モノ、コトで成り立っていることも。
今回、横浜トリエンナーレの後、東京に寄ったが、筆者にリーメンシュナイダーの魅力を教えてくれたAさんご妻夫(リーメンシュナイダーについては世界一の ―あえてそう言う― 研究者、鑑賞者は奥様の方である)にお会いして、お話しできたことが何よりも東京行きのご褒美!となった。新国立美術館で開催されていた「チューリッヒ美術館」もジャコメッティの作品で絞めていて満足したが、実際にチューリッヒ美術館を訪れた者としては少しもの足りなかった。また、ブリジストン美術館のウィレム・デ・クーニング展も寄ってきたが、アメリカ抽象表現主義の偉業では、ジャクソン・ポロックに軍配かなと思う程度の展示であった。(林剛・中塚裕子への「創造的アーカイブ」法廷)

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