kenroのミニコミ

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傷は共有できないが、人は共存できる   シアター・プノンペン

2016-09-24 | 映画

1990年代末から2000年代にかけて、旧ユーゴスラビアを舞台にした優れた映画が何本も制作された。旧ユーゴではクロアチア紛争に始まってボスニア、そしてコソボへと内戦を繰り返したが、そのすべてが一応収束し、クロアチアなどは現在観光大国となっている。

旧ユーゴでの内戦とはなんだったのか? 民族紛争であろうが、先日まで同じ国の隣人として接していた人に銃を向け、そして殺される日常。その理不尽さ、悲しみ、怒りなどを描いた秀作が多かったということだ。内戦終結からわずか数年から10年以内にである。

一方、「シアター・プノンペン」の舞台カンボジアは長らく内戦が続いていたが、1991年のパリ協定で終結したとされる。そして、その内戦の引き金となったのが、ポル・ポト派(クメール・ルージュ)の支配であった。

ポル・ポト時代を描いた映画と言えばその過酷さを頂点的にきわめた「キリングスフィールド」がまず思い起こされる。しかし、「キリングス」が「シンドラーのリスト」のように戦争、ジェノサイドの過酷さも実際を描いていたのに対し、「シアター・プノンペン」はまるでユーゴ映画のように戦争のそのものを描くというより、その外縁部を描いているように思える。厳格な父親と病気がちな母のもとで大学生活を送るソポンは、夜な夜なボーイフレンドと遊び歩いている。ある時、学校そばのバイク置き場になっている古い映画館でクメール・ルージュ時代を映画監督して弾圧、収容されたソカに出会う。ソカが映画「長い家路」の最終巻を失ったことを知り、美しい女優だった母親ソテアを見つけたソポンは、映画の撮り直しをはじめる。

 実は、ある意味単純なクメール・ルージュ時代の悲惨さを振り返る作品かと思っていたが、物語はもっと複雑だった。ソカは映画監督でもなんでもなく、ソカの兄がそうだった。そして兄を「映画監督だ」とクメール・ルージュに密告し、殺させたのはソカ自身で、失われたとされる「長い家路」の最終巻は実は残されていたのだ。そして、そこで描かれていた結末とは。

物語は重層的である。それは現実がそうであるから。クメール・ルージュの時代、300万人とも言われる人が犠牲になったが、生き残った人の中には、親族や仲間・友人を裏切り、差し出すことで命を助かった人もいるだろう。そして、圧制側のクメール・ルージュの下層兵士の中には、戦後その内戦時の犯罪から逃れた者も。加害と被害、加害者がかかえる悩みと被害者がかかえる悔い。ソポンに代表されるように戦後生まれた世代は、内戦を知らず、内戦時を生きた人々は語ろうとしなかった。しかし、同じ国の同じ民によって膨大な人が殺された歴史は、それを語り、伝えることによってしか反省や抑止にはつながらない。

 ナオミ・クラインの『ショック・ドクトリン』では、圧政、内戦や戦争によって、荒廃した国土の復興に土木建築をはじめ、産業界の需要が大幅に増大するから、巨大資本が戦争を欲する構造を明らかにした。カンボジアも現在、西側の格好の投資の対象となっている。その中で薄れていく内戦の記憶。しかし、それは薄れさせていく力がはたらいているからで、本当に消えるものではないだろう。

 ソポンが母親らの苦難の時代を知り、向き合うとき、若い世代が紡ぐ平和とは本当に力強いものになるだろう。沖縄でもひめゆりの現役世代が年をとる中で、若い語り部が生まれている。人が人に、それも個人的理由ではなく、殺意を向けた時代を再び再現させないためにシアター・プノンペンが問いかけるものは多い。

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