kenroのミニコミ

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「人生の午後」には夕も夜もある  ピーター・ミュラン「思秋期」

2012-12-23 | 映画
洋画の日本題は、原作とは全然関係のないつけ方から、原題ではよく分からない、ピンとこない作品に対してうまいなあと思わせるものまでいろいろある。古くは、作品に日本独自の題名をつけるのが半ば当たり前で、原題を反映していないものでは、キャサリン・ヘップバーン「旅情」の原題は「Summertime」、ポール・ニューマンとロバート・レッドフォードの「明日に向かって撃て」は「Butch Cassidy and the Sundance Kid」である。
それが、いつしか原題をそのままカタカナ表記しただけの工夫のないものになり(ターミネイターならまだ許せるが、エクゼティブ・デシジョンとかファイナル・デスティネーションとか本当に工夫がない)、それが定着したと映画評論家が書いていたのに頷いた覚えがある。原題のままでは伝わりにくい、かといって、無理に日本名を付けて作品の本質が伝わるか? 英語(や外国語)題名にどれだけ違和感を覚えずに、かつ、作品の雰囲気を伝えるタイトルとはどのようなものか、外国映画を扱う配給会社は苦心しているのだろう。
で、本作の原題はTyannosaur ティラノサウルス。言うまでもなく大きな恐竜であるが、主人公のジョセフが、太って糖尿病を患い、両足切断を余儀なくされた妻をティラノサウルス呼ばわりしたため。ジョセフがハンナにするその説明には悔恨の表情がにじみ出る。
ハンナもDV夫に苛まされ、アルコールに現実逃避する悲しい人だ。妻を亡くし、仕事もなく、理由も分からない怒りを発散させてしまうジョセフに、敬虔なクリスチャンとして体面を保つハンナ。どこか、不器用、不自由な二人は惹かれあうわけではない。怒りの矛先を見つけられないジョセフと、DV夫のいる家に帰るのが怖い、夫の性欲からなんとか逃れようと日々戦々恐々としているハンナにとって、お互いが不完全な癒しだったのだ。
ところで、本作が監督デビューであるパディ・コンシダインは俳優としての評価は固まっているが、「憧れの監督はケン・ローチ」と言ってはばからないほどケン・ローチ信奉者であるそう。ケン・ローチのワーキングクラス映画を彷彿とさせる本作は、結局答えもなく、ハッピーエンドでもない。でも、見ている者にはジョセフの苛立ちもハンナの乖離した思いもよく分かる。そして、そちら側につきたくなる。家族に恵まれ、財に苦労せず、愛に欠かない家族像は英国に限らず、アメリカなどの映画にも典型的に描かれることがあるが、むしろそれは例外で、地に生きる人はなんらかの悩み、いくばくかの不安に苛まされているものだ。そして、ワーキングクラスであれば、明日の糧への不安は計り知れない。ハンナはワーキングクラスではないが、いつ夫に殴り殺されるかもしれないという明日のない未来がある。そして、事実ハンナは逆襲した。
ハッピーエンドではないと書いたが、ジョセフもハンナも刑務所に入る。しかし、不思議な言い方だが、刑務所に入って、お互いが必要とし、二人とも自分を捉えていた桎梏から幾分自由になる。あきらめてはいけない。人生はまだまだ続くと。
本作の日本名は「思秋期」。なんの接点なかったのに、中年を超えた二人は、お互いに自己の不完全さと不十分さと満ち足りなさを感じ取る。と同時にまだ続く人生をも思う。中年期を「人生の午後」と呼んだのはユングだったか、午後の後には夕暮れと夜がある。そして夜は長い。「思秋期」という題名がふさわしいかどうか分からないが、Tyannosaurよりは取っつきやすいと思う。
いずれにせよケン・ローチ「マイ・ネーム・イズ・ジョー」で素晴らしい演技を見せたピーター・ミュランは飲んで、すぐ切れるワーキングクラスを演じさせたら右に出る者はいない、とこれも確かに思う。
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