茶色のやつを探せばいいだけだとわかるさ。
子犬だって見つけられる。
そうすれば、俺たちと同じように、
規則を守ってるんだと安心して、
死んじまった昔の犬のことなんてすぐに忘れるだろう。
(『茶色の朝』フランク・パヴロフ)
資金が足りず、クラウドファンディングで支援を集め、やっと制作、上映したところ、異例のロングランヒットとなり、年を明けても上映中でやっと観られた。地味なアニメーション、静かな展開、大きな事件と言えば主人公のすずが米軍の落とした爆弾で右手を失うことくらい。描かれるのは日常。広島市で海苔業を営む両親のもと育ったすずは縁談が来て、そのまま呉の北條家に嫁ぐ。夫周作の姉黒村径子からは「いけず」をされるが、径子の子晴美からは慕われ、平々凡々と過ごす日常。しかしその平凡な日常とは銃後の日常。
戦時統制で食糧は欠乏。配給はどんどんひどくなり、食べられるものは雑草でも何でも工夫して食いつなぐ。きれいな着物はすべてモンペに。防空壕を掘り、軍事教練と防空演習。それでも文句も言わず、苦しい日々を生きるすずをはじめ、北條家の人間はせっせと働いて過ごす。やがて防空演習は、本物の空襲となり、それでも世の流れには決して逆らわない。しかし、銃後は生活そのものを、一人ひとりを、人との関係を壊していく。すずの兄は戦死し、石ころ一つで還ってくるが、命があまりにも軽く失われていく。天皇を守るためには、己の命など、鳥の羽より軽いと思え(「人固有一死 或重於泰山 或輕於鴻毛」司馬遷『史記』より)とした軍人勅諭のもと、一兵卒の命などどうでもよかった天皇制軍国主義下、兵隊でもない人の命などもっと軽かった。そしてその死について、何の説明も保障もない。そもそもなぜ戦争をしているのか、いつまで続くのかも分からない。すずらにとって。
右手を失ったときに晴美も命を奪われるが、それら最大の理不尽を強要するのが戦争の実相、実態だ。ただ、知らないこと、知ろうとしないことも罪であると佐高信が指摘するように戦争「責任」は、日常の無知、無視から発展する。そういった意味ではすずらもあの戦争の加害者でもある。
しかし、同時に先述のようにすずは徹底的に被害者でもあった。呉に嫁いだために原爆に遭わなかっただけのことだ。そしてすずの日常は、日本国内あまねく銃後を担った人たちの日常であった。玉音放送の後、静かだったすずが初めて「なんで今になって」と戦争が長引き、多くのものを失ったことを嘆き、慟哭する。好意的な見方をすれば、本作がこれほどヒットしたのは、原作者のこうの史代が言うように、現在の政権のすすめる「嫌な感じ」が戦前のあの時に似てきているように感じる危機感を、多くの人が持ったからせめてと映画館に足を運んだからかもしれない。同時に、ただアニメーションの可能性とか、「安保」法制や南スーダン派兵など現実で進行している事象を自分とはなんの関係もないと「平和ボケ」日本人が「無視」を決め込む一般的な感性でもあるのだろう。
茶色以外の猫をとりのぞく制度にする法律だって仕方がない。
街の自警団の連中が毒入り団子を無料で配布していた。
えさに混ぜられ、あっという間に猫たちは処理された。
その時は胸が痛んだが、
人間ってやつは「のどもと過ぎれば熱さを忘れる」ものだ。
(同)