kenroのミニコミ

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あいちトリエンナーレ 「現在」と「現実」を視る 1

2019-09-15 | 美術

「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。」(中略)「日本より頭の中が広いでしょう」(中略)「囚われちゃ駄目だ。いくら日本の為を思ったって贔屓の引倒しになるばかりだ」(夏目漱石『三四郎』新潮文庫)

あいちトリエンナーレでの「表現の不自由・その後」展の開催3日目にしての中止の事件は、近代日本のなした戦争や差別についての歴史認識について修正主義的価値観を持つ政治家や電凸(でんとつ。一般的には企業や公共団体に電話で真意を質す行為。本件の場合、主催者に展示続行を諦めさせる右派の電話攻撃。)の問題だけではない。もっと簡単なことだ。表現には自己の意に沿わない、不快なものもあるが、それを妨げる権利は誰にもない。ましてや脅迫や明らかに観覧者に危害をおよぼそうと示唆する行為はもってのほかであるということだ。そこで河村たかし名古屋市長や松井一郎大阪市長ら公人の言説は、市民の表現の自由を担保するために公的機関こそがその費用や場を確保しなければならないという憲法的価値を逸脱しているという意味で、憲法擁護義務のある公務員としての資質に欠けるばかりか、悪質でもある。「悪質」というのは、想田和弘さんが「河村市長や(補助金の「適正」運用に言及した)菅官房長官らの発言がガソリン野郎を勢いづけた」と指摘しているからである。

トリエンナーレ実行委員会や愛知県に寄せられた苦情や抗議の対象は「平和の少女像(正式名称。「慰安婦像」とは作者も言っていない。)」ばかり焦点が当てられているが、昭和天皇を描いた作品(「遠近を超えて」「遠近を超えてpartⅡ」)に対するものも多かった。自分が受け入れられない歴史認識や政治的意見について「慰安婦はデマ」「侵略戦争ではない」「天皇を侮辱することはけしからん」などなどの立場から、表現を公的地平から排除するのを正当化することは時の政権(本件の場合、安倍首相の思考、安倍政権の姿勢と重なる。)が認める以外の表現は許さないという独裁思想そのものでオーウェルの『1984年』の世界である。

芸術がすべて政治性を持つべきとまでは言わないが、表現とはコンテンポラリー(同時代性)である限り、時の政治・社会体制などと無縁ではいられない。世界的なアートフェスティバルとして5年に1度開かれるドイツのドクメンタでは、政治的メッセージがない作品を探す方が難しいほどだ。2017年に開催されたドクメンタ14では「移民(排除への反対)」と「(EU間の)経済格差(に伴う分断)」が前面に出ていた。それほどまでに現在の反民主主義的動向を問い、分断を乗り越えようとする思いがアーティストを突き動かしている事実を再認識するばかりであった。

翻って、今回の「表現の不自由・その後」展のたった3日目での中止は、この国の現状が「表現の不自由・その最中」であることを明らかにした。「検閲とは無意識的に内面化される時こそ完成する」(韓国の演劇人キムジェヨプ氏の言葉。「ブラックリスト事態、演劇人たちはどう抵抗しているか」岡本有佳(あいちトリエンナーレ「表現の不自由・その後」展実行委員)『世界』2017年6月)。完成間近のこの国の姿である。あいちトリエンナーレの今回の事象についての政治的文脈に筆を割きすぎた。次回は展示の紹介に努めたいと思う。

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