「桓武天皇 柏原陵」から
秀吉が築き、家康が再建した名城「伏見桃山城」へ
向かいますが・・・
ここは「伏見桃山城運動公園」です。
左に見える「伏見桃山城御入口」があり
みんなの後について入って行きます。
「大手門・・・」が見えてきました。
大手門の前で、参加者16名で記念撮影したあと
伏見桃山城へ・・・
大手門は、1964年(昭和39年)伏見城「花畑曲輪」の跡で
「伏見桃山城キャスルランド」遊園地の入場門でした。
遊園地は、模擬天守の他にジェットコースターやプールなどがあり、賑わっていたそうですが2003年に閉園しました。
江戸幕府を支えた
尾張、紀伊、水戸の徳川御三家の初代は
家康の子で、三人とも伏見生まれでした。
天守閣の石垣の下に樹霊碑
永遠とおもえる
ながき時のなか
樫立てり黄なる
あやくもの果て 引野收(ひきのおさむ)
引野収「樹霊碑」保存会の説明書によると
引野收氏は、伏見桃山城の北西桃山町正宗坂で40年間にわたり絶対安静の寝たきり生活を送りながら歌人である妻の濱田陽子とともにいのちや平和の尊さを歌い続けたそうです。
今、NHK放送の「坂の上の雲」で登場している正岡子規も、病床にありながら歌を詠み続けたので、引野收は「昭和の子規」と称えられたそうです。
この場所で、持参したお弁当を食べました。
ハイキングに参加するまでは
このような場所で食べることが無かったので
今でも、食べながら違和感が・・・。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
伏見城は3度にわたって築城されました。
●指月山(しげつやま)伏見城
豊臣秀吉によって1592年に伏見の指月山に建設されたお城。
1596年の「慶長伏見大地震」で倒壊しました。
●木幡山(こはたやま)伏見城
1597(慶長2)年に近隣の「木幡山」に再建されたお城。
秀吉の死後、家康の部下、鳥居元忠が城将となったが
「関ケ原の戦い」の前哨戦で落城。
●伏見桃山城
1602(慶長7)年頃に徳川家康により再建されたが
1619年(元和5)年に廃城。この時、建物や部材は
二条城、淀城、福山城などに移築されました。
跡地に、桃の木が植えられて「桃山」と呼ばれ
「桃山城」「伏見桃山城」と呼ばれています。
慶長5年(1600)家康の家臣である鳥居元忠と約300名の武士が、伏見城で切腹した血糊の床板を養源院(京都市東山区)の天井に使われています。
関ヶ原の戦い後、血糊の床板を見た家康が鳥居元忠らの忠義に供養するため、徳川家にゆかりある寺院で血糊の床板を誰にも踏まれることのないようにするため天井板にしたのでした。
豊臣秀吉が築いたお城として有名な伏見城は、明治天皇桃山陵などがあるエリアで遺構調査ができないため、当時の姿には出来ない模擬天守ですが、行くことが出来て良かったです。
長くなりましたが、明治天皇陵へ続きます。
秀吉が築き、家康が再建した名城「伏見桃山城」へ
向かいますが・・・
ここは「伏見桃山城運動公園」です。
左に見える「伏見桃山城御入口」があり
みんなの後について入って行きます。
「大手門・・・」が見えてきました。
大手門の前で、参加者16名で記念撮影したあと
伏見桃山城へ・・・
大手門は、1964年(昭和39年)伏見城「花畑曲輪」の跡で
「伏見桃山城キャスルランド」遊園地の入場門でした。
遊園地は、模擬天守の他にジェットコースターやプールなどがあり、賑わっていたそうですが2003年に閉園しました。
江戸幕府を支えた
尾張、紀伊、水戸の徳川御三家の初代は
家康の子で、三人とも伏見生まれでした。
天守閣の石垣の下に樹霊碑
永遠とおもえる
ながき時のなか
樫立てり黄なる
あやくもの果て 引野收(ひきのおさむ)
引野収「樹霊碑」保存会の説明書によると
引野收氏は、伏見桃山城の北西桃山町正宗坂で40年間にわたり絶対安静の寝たきり生活を送りながら歌人である妻の濱田陽子とともにいのちや平和の尊さを歌い続けたそうです。
今、NHK放送の「坂の上の雲」で登場している正岡子規も、病床にありながら歌を詠み続けたので、引野收は「昭和の子規」と称えられたそうです。
この場所で、持参したお弁当を食べました。
ハイキングに参加するまでは
このような場所で食べることが無かったので
今でも、食べながら違和感が・・・。
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伏見城は3度にわたって築城されました。
●指月山(しげつやま)伏見城
豊臣秀吉によって1592年に伏見の指月山に建設されたお城。
1596年の「慶長伏見大地震」で倒壊しました。
●木幡山(こはたやま)伏見城
1597(慶長2)年に近隣の「木幡山」に再建されたお城。
秀吉の死後、家康の部下、鳥居元忠が城将となったが
「関ケ原の戦い」の前哨戦で落城。
●伏見桃山城
1602(慶長7)年頃に徳川家康により再建されたが
1619年(元和5)年に廃城。この時、建物や部材は
二条城、淀城、福山城などに移築されました。
跡地に、桃の木が植えられて「桃山」と呼ばれ
「桃山城」「伏見桃山城」と呼ばれています。
慶長5年(1600)家康の家臣である鳥居元忠と約300名の武士が、伏見城で切腹した血糊の床板を養源院(京都市東山区)の天井に使われています。
関ヶ原の戦い後、血糊の床板を見た家康が鳥居元忠らの忠義に供養するため、徳川家にゆかりある寺院で血糊の床板を誰にも踏まれることのないようにするため天井板にしたのでした。
豊臣秀吉が築いたお城として有名な伏見城は、明治天皇桃山陵などがあるエリアで遺構調査ができないため、当時の姿には出来ない模擬天守ですが、行くことが出来て良かったです。
長くなりましたが、明治天皇陵へ続きます。