kikoがスタート

2005年8月にスタートしました。
私が観た(見た)、感じた、覚書き、気になることを書いてます。(^^ゞ

京都・小野篁が冥土通いした「六道の辻 六道珍皇寺」

2025年01月06日 | 京都
今日は、朝から冷たい雨が降っています。

2024年11月4日(月)

「みなとや幽霊子育飴本舗」で飴を買った後


六道の辻 六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)」

建仁寺さんの塔頭寺院へ
六道珍皇寺周辺は古くからの葬送地でした。

今は「六道さん」の名で親しまれ
お盆の精霊迎えに参詣する寺として知られています。



11月4日(月)は「秋の特別公開」で
小野篁が冥土に通ったという伝説の井戸を見てきました。


正面に見えたのは「三界萬霊供養塔」

三界とは、仏教でいう「過去・現在・未来」の事で
全ての霊の供養を目的として建立。


右側に見えるのは、冥土までひびく「迎え鐘」

この鐘は、当寺の開基である慶俊僧都が造らせたもので
僧都が唐国に赴いた時に、この鐘を3年のあいだ地中に埋めておくようにと寺僧に命じていました。

しかし留守を守る寺僧は待ちきれず、1年半ばかりたって掘り出して鐘をついたところ・・・このような唐土にまでひびく鐘なら、おそらく冥土までも届くだろうと信じられ「迎え鐘」となったと伝えられています。


閻魔堂(篁堂)

右手に笏(しゃく)を持った等身大の衣冠束帯姿の小野篁立像(江戸時代)・閻魔大王坐像(小野篁作)・弘法大師(空海)坐像などが合祀されています。

小野篁 (おののたかむら )は
参議小野岑守の子(802年〜852年)で、嵯峨天皇につかえた平安初期の官僚で武芸にも秀でた学者・詩人・歌人でした。

文章生より東宮学士などを経て閣僚級である参議という高位にまでなった文武両道に優れた人物であったが、不羈な性格で、「野狂」ともいわれ奇行が多く、遣唐副使にも任じられたが、大使の藤原常嗣と争い、嵯峨上皇の怒りにふれて隠岐に流罪されたこともありました。


左に「水子地蔵尊」




特別拝観で「冥途通いの井戸」を見ることができるので
六波羅蜜寺のあとから来られる人が多いようです。



縁側の横に水琴窟が見えます。



奥の方に向かっていきます。



この建物に入っていくと


篁卿六道遊行絵図屏風

「だるま商店」というアーティストが製作して
寺院に奉納されたそうです。


熊野歓心十界図

仏教の宇宙をえがいた曼荼羅で
輪廻(りんね)と悟りの世界を表現しています。


冥土通いの井戸

閻魔王宮の役人ともいわれ、昼は朝廷に出仕し
夜は閻魔庁につとめていたという奇怪な伝説がある

小野篁が使った「冥土通いの井戸」があります。
あれ~庭の奥の方から出てこられる人が・・・



私も行ってみると


黄泉がえりの井戸

冥府に通った井戸は一つだと思っていたのですが
冥土から帰るのに使った「黄泉がえりの井戸」でした。



六波羅蜜寺から、六道 地蔵尊、みなとや幽霊子育飴本舗
そして六道珍皇寺は、こんなに近くでした。



小野 篁は亡き母に会いたい一心で、伝説の井戸から冥土へ足を踏み入れました。しかし母の霊は餓鬼道に堕ち、もがき苦しんでいました。篁は母の霊を救うため閻魔大王に直談判をし、それをきっかけに冥官となりました。

以来、篁は現世と冥界を行き来して、昼は朝廷に出仕、夜は閻魔庁で閻魔大王の補佐として、無実の罪で地獄へ落ちた人を救ったり、裁きの助言をしていたと伝わります。


六道珍皇寺へ行って、堀川通北大路下る西側の堀川通に面した所に紫式部と小野篁の墓所があることも分かりました。
コメント (8)
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